綿津見神社の歴史的重要な役割を知る

https://trakl.exblog.jp/d2012-07-14/  【綿津見神社の歴史的重要な役割を知る】 より

他にも興味深いことが書かれていますよ…ひき続き、日本とユダヤのハーモニーより

…宗像大社との行き来は…宗像から一旦陸路を通り、不弥国へとわたり、そこから再度、船で宇佐を経由して…とこちらのブログでは書かれています。なるほど…今と同じですね…

宗像大社の玄関である鐘崎港にて下船し、そこから陸路を通って不弥国へと向かう理由は…それが安全に、かつ最短の時間で東海岸に達する経路であったからだと書かれています。

またこのブログの方によりますと…魏志倭人伝の末盧国は一般的には佐賀県松浦郡周辺の松浦や唐津、名護屋がその候補地の筆頭としていわれているけれど、玄界灘でも一番危険な 海域に近い宗像部の最北端に在り、海人の発祥地としても名高く、そのすぐ傍には北九州界隈でも宗教的には最も影響力を持つ宗像大社が存在する鐘崎こそ、末 盧国の比定地となる最有力候補…と考えておられるようです。そして、先日仲間とおとずれた、鐘崎の織幡神社の周辺地区、湯川山のふもとの村、岬村…が重要な場所と書かれています。

少しだけ重要なところを抜き出してみますね…詳しい全体はこちらのホームページをごらんください…

3.山の裾に広がる鐘崎の岬村

鐘崎の地勢は、「山が海にせまり、沿岸にそって居している」という史書の記述に合致することにも注目です。鐘崎は湾曲の頂点に在る鐘ノ岬の南側に広がる岬 村です。その背後には標高471メートルの湯川山が大きく聳え立ち、山頂からは三里松原の浜を眺めることができます。鐘ノ岬と湯島山は、天候に恵まれれば 壱岐からも見ることができる為、玄界灘を航海する際の一大指標として重要な役割を果たしました。そして奈良、平安時代に至っては玄界灘の寄港地として、そ の山裾の広がる岬の浜は、「古代京泊の港」とまで呼ばれるようになったのです。

 博多湾から東方へかけて、北九州の沿岸で他に山と呼べるような標高の高い山は、標高243メートルの対馬見山しか存在せず、しかも海岸線まで山裾を広げ ているのは湯川山だけです。また、山の中腹には有名な牧場が存在し、昔は韓国や中国から優秀な馬を輸入して飼育していたと考えられています。それ故、鐘崎 貝塚には馬渡、番場という地名が残されています。三方を海岸に囲まれている湯川山は、その西側がなだらかに海岸周辺まで傾斜して山裾を作り、そこに鐘崎の 集落が広がっています。正に鐘崎は、史書の記述通りの岬村なのです。

5.鐘崎の海人文化

 末盧国が鐘崎であるという決定的な根拠の一つが、鐘崎の海人文化です。古代、北九州地域や壱岐、対馬、そして済州島の離島では漁業が生活の手段であり、 いずれもアワビや他の海産物を潜って捕りながら暮らしていました。その潜水漁法と日本の海女(海人)の発祥の地が鐘崎であり、その名は北九州沿岸にてアワ ビ獲りをする海人らの本拠地として知られるようになりました。そして鐘崎の海人文化は近隣の港や藍島、志賀島の地域を超えて、東は山口県から石川県、更に 日本海沿岸を北上して能登方面まで、西は小呂島から長崎方面、そして壱岐や対馬などの離島にまで広まりました。山口県の角島近郊にある大浦(油谷)や瀬戸 島、石川県の輪島、そして壱岐の小崎浦(郷ノ浦)、対馬の曲浦などの村落では、鐘崎の枝村としての出自が今日まで語り継がれています。

 海人文化の背景には、古代の玄界灘にて海を生活の舞台とする海人族の存在があり、胸肩(宗像)の海人、志賀の海人、那珂の海人の三つの存在が有名です。 中でも胸肩の海人族は、元来、潜水による漁労を営む一族であったことから鐘崎海人の起源とされています。それ故、筑前海域でも、特に玄海町沿岸の漁民は 「宗像海人」と呼ばれていたのです。宗像海人は、その優れた航海技術を駆使して、北九州の海上一帯を船で行き来したのです。

 また、鐘崎から発掘された釣針などの釣用具や魚骨、滑石性有孔円盤らは、沖ノ島の出土物と酷似することから、沖ノ島を統括する宗像一族と海人族は同祖で あると考えられます。宗像大社の神宝館には、「宗像一族は、古代より玄界灘沿岸にて勢力を持っていたが、航海術に長け、玄界灘を海の道として朝鮮半島や中 国大陸との交渉を持ち続けたことにこそ、海人族と呼ぶにふさわしい特異性があった。」という記述が見られます。また、海人族の背景には綿津見三神を祖とす る安曇族の存在が知られています。古代においても航海術を携えていたという史実から、安曇族が中心となる海人族のルーツは、後述する通り、西アジアではな かったかと推測されます。古代において渡来人の優れた貢献なくしては、航海技術を培う術がなかったのではないでしょうか。その宗像海人、安曇族の本拠が鐘 崎・宗像だったのです。

 佐賀の東松浦郡は、リアス式海岸という自然環境に恵まれていることから、潜水漁撈のさかんな地域としても知られています。しかし、海峡を隔ててまで渡航 して、その影響力を大陸方面にまで及ぼすことのできた航海術を携え、諸外国まで影響力を及ぼしたという点においては、鐘崎の比ではないでしょう。よって古 代社会において、「好んで魚フクを捕え、水深浅となく、皆沈没してこれを取る」という記述が匹敵する最もふさわしい町は、鐘崎をおいて他にはないのです。

6.アイヌ語で読む末盧国の意味

 アイヌ語は北海道や樺太周辺等、日本列島の北部で主に使われてきた言語です。しかしながらアイヌ語を起源とする地名は東北地方でも多数確認されているこ とから、それより以南でもアイヌ語の地名が古代より使われていた可能性があります。日本列島に居住していた縄文人らが、日本各地においてアイヌ語の地名を 用い、それらが伝承されてきた地域が多々、存在するのかもしれません。

 例えば末盧をアイヌ語で解釈すると、アイヌ語のMa・Tu(マートゥ)とRa(ラー)という2つの言葉を造成した言葉と考えられます。前者は、「波打ち 際の屈曲した所」のような浦曲(うらわ)を意味し、後者は「低い所」を意味します。これら2つの言葉をあわせると、Ma・Tu・Ra(マートゥラー)とな り、その意味は「波打ち際の浦曲の低い所」、すなわち鐘崎のように、玄界灘の波打つ湾が屈曲する最先端の箇所にある港で、山の裾にある低い所を指している と考えられるのです。

 実際、鐘崎港のすぐ南側、上八(こうじょう)そばには鐘崎貝塚と呼ばれる縄文時代の遺跡が昭和7年に発見されています。そして発掘調査の結果、古代では この貝塚の周辺は自然の入江となっていたのです。そして湾曲する海岸沿いでも、ここだけは入り込んだ入江となり、船の避難港として波止場がなくとも逃げ込 むことができるような船着き場であったと考えられます(筑前鐘崎漁業誌)。正にその地形は、「波打ち際の浦曲の低い所」という描写と一致しています。これ だけで「末盧」の由来がアイヌ語であると断定できるものではありませんが、今後も検証を要する参考データとして留意しておく必要がありそうです。

7.万葉集が証する綿津見三神との繋がり

 万葉集巻七(1230)には、「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも、吾は忘れじ志賀の皇神(すめかみ)」という鐘崎に関する記述があります。対馬や壱岐から 鐘崎に向けて渡航するにあたり、特に鐘崎周辺の海域では海灘事故が多発していることが知られていました。この海域では、凪の日でも満潮時は急流のように潮 が流れ、一旦時化ると、風向き次第では怒涛のごとく海が荒れ、玄界灘第一の難所となるのです。それ故、鐘崎の手前に浮かぶ志賀島の志賀海神社に祀られる綿 津見神に祈りつつ、その荒波と急潮を無事通り抜けられるよう願ったのです。そして鐘崎を無事通過した後も、神の恩寵を忘れずに感謝の意を表して詠んだの が、この歌です。

 志賀海神社は博多湾北に浮かぶ志賀島にあり、全国綿津見神社の総本宮です。その社名が志加海と呼ばれる由縁は、志加にあるワタツミの神社と考えられてい ます。創建の時期は景行天皇の時代以前まで遡ります。古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社にて綿津見三神が祀られ、二世紀(遅くとも四世紀)に 表津宮が勝山に遷座されたと伝えらえていることから、その歴史は大変古いものです。綿津見三神とは、イザナギが黄泉から戻り禊をした際に生まれた底津綿津 見神、中津綿津見神、上津綿津見神の三神です。これら三神は海人安曇族の祖神でもあり、また、安曇磯良は志賀島大明神と呼ばれ、磯良の墓は対馬の和多津美 神社にあることからしても、志賀海神社と和多津美神社は、その創設者が同族であると考えられます。

 対馬には合計4社の和多津美神社であるだけでなく、綿津見神を祀る古社は、対馬から壱岐、志賀島にかけて島や九州の沿岸に集中して鎮座されています。つ まり朝鮮半島の狗邪韓国から北九州の末盧国、すなわち邪馬台国に至る海上航路沿いの要所周辺は「ワタツミ」というキーワードで繋がっていたのです。海を自 由自在に行き来する航海術を携えた海人安曇族が、邪馬台国への海上航路を管轄する上で、航海者を目的地へと安全に導く為、その航路の要所に救護所の役割を 持つ綿津見神社を建立した結果と言えます。そして5重の鳥居を有する対馬の和多津美神社を指標として始まる船旅は、壱岐の海(ワタツミ)神社を経由して綿 津見三神が祀られる志賀海神社を右手に通り過ぎ、鐘崎に到達することにより終焉するのです。そこは海人安曇族の拠点的要地、倭国の主要玄関だったのです。

8.式内社が示唆する古代の航海路

 アジア大陸から海を渡り、倭国を目指した渡来人にとって、新天地に無事到達した際にはまず、その場所で神を祀ることが大切であったと考えられます。まし てや玄界灘という最大の難所を渡る際には、神仏の加護と、それを願う為の斎場を必要としたことでしょう。それ故、長い船旅を終えて到達する九州の玄関、末 盧国には、渡来人による宗教文化の痕跡が残されているはずなのです。その一つの指標となるのが式内社です。玄界灘に面する海岸の近くには合計7社が存在し ますが、肥前(佐賀県東松浦郡)は加部嶋の田嶋坐神社の1社のみ。残りの6社は博多湾周辺から宗像、鐘崎までの北九州沿岸を網羅する筑前の式内社です。し かも筑前6社の由緒は大変古く、対馬・壱岐方面から玄界灘を越えて、船舶が鐘崎方面に向けて渡航してきた史実を物語っています。

 特に宗像神社は北九州地域では最も大きな影響力を誇る信仰のメッカです。そこでは天照大神の御子神である宗像三女神が祀られています。「日本書紀」によ れば、天照大神よりこれら宗像三女神に対し、「永遠に皇室をお助けし、皇室からも厚いお祭りを受けなさい」との神勅がありました。建国当初の極めて重要な 時期に、重大な国家鎮護の使命を授けられた訳ですが、これは大陸より船で渡来する皇族を出迎えてもてなしをする為、天照大神が自らの娘達をその任務に就か せ、宗像大社の3つの拠点に常駐させたと考えられないでしょうか。よって宗像三女神は「道主貴」(みちぬしのむち)として、沖ノ島の沖津宮、大島の中津 宮、そして現在の宗像大社辺津宮の三拠点で世話役を務め、皇族を導く尊い神として、伊勢神宮に対して宗像大社は「裏伊勢」とも呼ばれるようになった由縁が そこにあります。そしていつしか宗像君は、北九州地域周辺の多くの農村、漁村において、大きな支配力を持つようになったと考えられます。これらの歴史的背 景を踏まえる限り、邪馬台国へと繋がる北九州の玄関は、鐘崎・宗像以外に考えられないのです。(以上、引用終わり)