先史時代の東アジアを共有した 倭族わ ぞ く =安曇族 あ ず み ぞ くは海人か い じ ん (アマ)だった!!

http://www.hasukura.com/site/6yamasaki.pdf  【先史時代の東アジアを共有した

倭族わ ぞ く =安曇族 あ ず み ぞ くは海人か い じ ん (アマ)だった!!】 より

(一) 天神・海神は同じ「あま」の神

弥生時代に水耕稲作が日本列島に伝来し急速に普及しました。その後弥生末期には大陸の北方系遊牧・騎馬民族がハイレベルな知識(主に天体)と技術(主に金属加工)を日本の先住民である農耕民(弥生人)と融和しました。当然彼等は尊敬され崇敬されます。八世紀の初め日本の国体が整い、古事記・日本書紀(以後記紀と称す)を担当した官人は、この両方の民族の持つ特性を神話の形で残しました。新しい国体(律令体制)の中心である、大王(おおきみ)(後に天皇と称する)は天神信仰を持つ大陸の北方民族の天の神を崇拝します。先住民の弥生人は、南インドから中国の江南地方で発達した水耕稲作を持ち込んだ農耕民です。彼等にとって水がとても大切でした。水の神は竜神で海の彼方で発生した雲に乗ってやって来て雨をもたらすと信じていました。海の彼方には竜宮があり、幸が豊富にあると信じていたのです。

天も海も「あま」と称します。「あまのかみ」は両方の民俗の原点なのです。見事な合体です。一般に騎馬民族は征服形だと申します。中国大陸の歴史は異民族の征服支配の連続です。幸いに日本列島に来た騎馬民族は最強の武器である「馬」を伴わない形で渡来しました。先に述べた知識と技術で農耕民の信頼と崇敬を得て支配層に君臨します。そのうえ先住民を大切にしました。日本最初の正史と云われる記紀には、数々のエピソードが記載され読み物としても大変面白く、研究者が絶えません。残念かな不慣れな名前の神々が次々に登場し閉口しますが、彼等は身近にいる蛇や昆虫や山や森に川に海に全ての自然が「神」としての対象でした。

(二) 海の神は大綿津見神(おおわたつみのかみ)

天神であるイザナギの命が黄泉(よみ)の国から帰り禊(みそぎ)の上に生まれたのが大綿津見神であります。記紀により違いますが、上津(うわつ)中津(なかつ)底津(そこつ)綿津見神の三神は古事記に登場し、上津・中津・底津=少童命(つのおのみこと)は日本書紀の三神です。この地上に最初に現れたのは、これらの海(水)の神さまであります。中国の江南から来た水耕稲作文化の弥生人の残像と思えます。当時は海のことを「わた」と称していました。文字が入ってきて古事記を作るとき漢字を綿津見と当てたのです。

今も玉野に和田の地名が残っています。神戸の和田岬もそうです。この地が古くからの海辺であったことが伺える証でしょうか。玉野の沖の喜兵衛島で製塩用の師楽(しらく)式土器が大量に発見され製塩業が盛んであったことを示しています。

海中の竜宮様は海神・龍神として祀られますが、海の岩礁付近は貝や海藻が豊富に採れ食材として貴重なものでした。山神の岩座(いわくら)と同じように海の岩礁は神の依り代として大切な水の神(龍神)であり、漁労の神である夷(恵比寿)さんとして祀られます。農業の水の神は稲荷さんとして進化発展をして今日があります。中国の道教の教えも含めて八大竜王の形で、今も多くの信者が信仰の対象になっています。

一方航海の神は船を守る船神として信仰され、住吉神社・熊野神社・四国の金毘羅さん、福岡県の沖にある小さいけれど有名な志賀島に祀られる志賀海神社や宗像神社。それらの海神を統括する綿津見神はその一族を束ねる安曇連(あずみのむらじ)であります。ヤマトの初期国家形成に重要な役割を果たします。

これらの神々は何を意味するのでしょうか。 

山の尾根は天(あま)の神に一番近い存在です。麓に住む弥生人は日の昇る聖なる山に礼拝しました。

日本の山は森と林で成り立ちます。山には木が育ち林から森になります。山は男神で木は女神です。特に美しい山桜は女神の代表として今に伝わっています。大木から舟が作られ、その船は漁労者や航海者にとっては命を守る大切なものです。海神の存在は今も生きているのです。

記紀の世界では天上神である伊邪那伎命(いざなぎのみこと)が死の国である黄泉(よみ)の国から帰り禊(みそぎ)をして生まれたのが綿津見神と先にも申し上げました。その場所は筑紫国糟屋郡志賀島であり魏志倭人伝によると、弥生末期今の中国から「金印」をもらったことになっていますが、その金印が江戸時代にこの島から発見されたのです。偶然の一致でしょうか、私はそうとは思いません。海を支配する一族がこの島にいたのです。記紀ではその後、神功(じんぐう)皇后の三韓征伐の拠点をここに置き、海を支配していた綿津見神の祭司者である安(阿)曇連(あづみむらじ)一族の力を借りて征伐を成功させました。その子の応仁天皇はこの地より難波を目指します。そして日本の国体の基を造りました。古墳時代に日本固有の文化が発達します。そして有史時代(律令時代)に入って行きます。正史ではこの時期中国大陸との交流について詳しくは触れていません。

(三) 海人安曇族=倭族の活躍

日本先史古代研究会の平成 24 年 5 月 27 日の講演会で、矢吹壽年氏に先史時代の東南アジアから東アジアのことを詳しく教えて頂きました。誠に含蓄のある内容で素人の私等にも大いに参考になりました。

中でも東シナ海と朝鮮半島・日本列島には共通の言葉を持った倭族の存在があり当時を知る上で大切なポイントと想い共鳴できます。

東アジアの中で、大陸の遊牧民族から定住型の牧畜農耕をする、今の北京を中心とする中華思想を育んだ民族がありました。それとは別の生き方をしたモンゴロイド人が、陸伝いではなく、海伝いに南インドから江南地方を経て朝鮮半島そして九州島を中心とする、出雲、吉備を一括した文化が存在したと思います。

矢吹氏は言葉も共通していると論証なさっていました。これらの地域に共通しその代表格は水耕稲作であります。学者によってはこれらの集団を「倭族」と称しています。当時倭族と言ったかどうかはわかりませんが、同じ言語で風俗も同じであれば国境のない時代です、海人の航海技術を駆使すれば交流は容易であります。

今も昔も変らないものに大陸の沖を北上する親潮があります。対馬海流に乗ればこれらの海域を制することは可能でした。その上親潮以上の強い潮汐(ちょうせき)流(潮の満ち引き)の渦を利用すれば親潮を逆らっての航海も可能でした。(日本海に入ると殆ど潮汐はありません)先にも述べました志賀島を拠点とする倭族の長(おさ)が安曇族であり日本の国体を造るまでの間、大きな集団であったと想定します。彼等は今の商人いやもっと大規模な大手商社であり、航海技術(天体に関する知識・海流潮汐に関する等の総合知識)を有し、日本列島の稲(米)を朝鮮半島の銅・鉄の原料と交易します。

列島内では初期の水耕稲作は土木技術のレベルが未熟なために、水の管理のしやすい川の上流で発達します。主食が穀物に変化しますと、塩分が不足します。海産物(製塩も含む)されたものの交易もこれらの海人が担当しました。物資の交易だけではありません、各地の情報も運びます。弥生人は農耕民族です。

交易や情報はこれらの海人族から得ていたのです。彼等に教わった農地の適地に移動しながら日本列島に拡散してまいります。日本列島を約500年間で世界的視野に立ってみても、これだけ良質な穀物である稲の栽培技術を広めたのは、当時の海人が単なる漁労者ではなく、大陸間の航海技術を駆使し、内陸部にあっては河川を利用した広範囲な交流があり、その交易で大きな集団を形成していました。その水先案内人パイロット役をしたのが海人族=倭族=安曇族なのです。

(四) 日本列島内陸部の安曇族

何度も申し上げていますが初期の水耕稲作は農業土木の技術がありません。水を管理するのは豊富な水量のある川の周辺での小区画の田圃です。その方が水の管理がしやすいのです。安曇族の案内で農耕の適地に移住した弥生人は、連れてきてくれた彼らを尊敬し拝みます。この神様(水神)はこの場合海の神様ではありません。連れてきてくれた安曇族=海人族=倭族を「神」と祀ったものが地名や神社の名前として内陸部に残ります。

私の知る限りでは昨年NHKの朝ドラで有名になった、長野松本盆地の安曇野(あずみの)が有名で、ここは単なる集落ではなく松本市の中に安曇野盆地があり九州北部の地名に酷似した地名や神社が多く残っています。一見筑前地方から大量に移住したかのようですがそうではありません。テレビでも拝見しましたが今でも梓川(犀川)には豊富な水が、安曇野盆地を潤しています。

琵琶湖の安曇川(あどかわ)も有名ですし、山陰の米子に安曇(あずま)があり、当然博多湾の志賀島の神社の宮司は今でも阿曇氏です。血族としての氏族だけではなく、特殊技能を持ち誰にでも出来ない、造船・航海・操船・漁労・製塩・交易全てに通じていた集団が安曇族であり、彼等の存在が有って、弥生の文化が短期間に発達し、日本固有の古墳時代をへて律令体制(国家形成)へと連なって発展してまいります。

八世紀の律令の役人もこれらの海人族の活躍の恩恵を無視することは出来ません。自分たち支配者の出自は大陸系天神族の末裔であっても、海神=綿津見神の孫である神武天皇を天皇制のTOPに祭りあげているのです。安曇族の一員として吉備の海人も活躍します。

(五) 安曇族(海人族)今に伝えるもの

少し堅い話が続きました。視点を替えて今から約2500年の昔に南インド・中国の江南地方から稲(米)が倭人族(海人族)によって、伝わったことは何度も触れましたが、それは今日我々の主食として重要な農産物だからであります。その他にも副食品に類するものが伝わり生き残っているのです。それらの概要をお伝えいたします。

海人族の他の一面は漁労であります。漁労は縄文時代にも既に行っていました。主に河川を遡上する鮭とか鱒の漁でありますがこれは今日アイヌに伝承され神格化しています。熊と鮭鱒漁はアイヌに特化されたように生き続いています。

海人族が伝えたのは鵜飼漁であり、食材としてはお茶や棗(ナツメ)真竹類があります。筍(たけのこ)は江戸時代に中国から伝来した孟宗竹が今では主力ですが、真竹はこの時期に入り自生したのです。竹は稲の仲間であります。稲が飢饉の折に竹は一斉に実を付けます。その実は米の代用食になったそうです。実を付けた竹は枯れてしまいます。屋敷の周りに竹薮を設けているのはこうした先人の知恵なのです。棗は今日お茶の道具の一つとしての方が身近です。でも我々の子供の頃はオヤツ代わりに食べていました。リンゴの味に似ていたことを覚えています。お茶は禅宗とともに修養・教養として今日に続いていますが、当時は薬用として東アジアに普及していました。

さて海人族の一面は漁労です。主に海での漁労は魏志倭人伝でも伝えているように顔面に刺青をして潜水し魚を採る自国の江南地方と同じであると伝えています。倭国(邪馬台国)は今の台湾の東方に存在すと考えていたようですが、それはともかく当時海の中で動き回る魚を捕獲するのは大変でした。潜水しても人間の裸眼では視界が利かないのです。箱メガネは明治20年代のことで、最近のことなのです。魚網の発達は後のことで、当時は浅瀬に潜り貝や海草を採取していました。潜水して魚を捕れない人間は知恵を働かせます。それが鵜飼なのです。鳥類はえさを咥えたり、飲み込んで雛に給餌します。中でも鵜は水中(海中)の潜水が得意で、同時に沢山の魚を捕らえ生きた状態で吐き出します。この特性を見ていたのです。

水耕稲作を行うものは農閑期があります。水辺で潜水し魚を上手にとるこの鵜を飼育し始めます。中国の江南地方が鵜飼漁の始まりとの説が有力です。古事記の大国主命の国譲りの段にも鵜が登場します。

「櫛八玉神(くしやたまのかみ)が鵜に姿を変えて海に潜り、海底の土で器を作り

それに魚を盛って大国主神にささげた」との話です。鵜の話はその他にも記紀に登場します。それだけ鵜が人間に身近な存在で関わりが多かったのでしょう。現在の日本での鵜飼は海鵜を飼育して使っていますが、中国では川鵜を使い紐は使いません。

日本では清流で流れの早い川で、鮎の鵜飼が主ですから紐で操っているのだそうです。ともあれこの漁法は特殊な形で伝承されています。今でも宮内庁の管轄になっていると聴きました。

鵜以外の漁はどうしていたのでしょうか。隠岐海士町に伝統漁法として「カナギ」と称する漁法が残っていて、小舟の上から覗き、ヤリやモリで覗突(みつ)き漁を行っているのですが浅瀬で貝類や海草を採る程度です。残念かな人間の裸眼では海面から水中は曇ってしまって見えません。そこで登場するのが貝の一種である、アワビ=鮑・鰒・蚫・鰒・飽の内臓(ハラワタ)を干しそれを炒めてから、細く刻みます。そのものを「ナキワタ」と称しますが、それを口に含んで海面に吹き付けると、一瞬海面が澄んだ状態になり海底のアワビやサザエなどを確認し採取しました。近代まで続いた漁法であります。

アワビは生食としての食材は勿論ですが加工品にし、内蔵は先に申し上げたカナギとして活用します。

殻は螺鈿(らでん)細工として最近まで身近なボタンに加工されていました。サザエもほぼ同じ使い方をしますが古代は違った面がありました。アワビは加工した上で、税の一種である「調」として納められていたのです。今日の熨斗(のし)飽(アワビ)=長飽(のし)として今日も続けられていますが、その昔(今でも)神饌(しんせん)として、鰹(かつお)や若布(わまめ)と共に三種の神饌に入る重要なお供え物なのです。その他にお供えとしては塩・鮭・鯛・烏賊(いか)などの季節の海産物が神へお供えされます。そのお供え物を神様から戴くのが神下(みさげ)で「みやげ」になり土産と表記しているのです。神様に供えると神様は一瞬のうちに頂かれます。新鮮なうちに神下(みさげ)されたものを我々下々は有り難く頂戴し宴席を設けます。

酒肴(しゅこう)の席で頂くその「酒」は穀物の代表格であり、肴(さかな)は酒菜(さかな)とも申しまして副食物の総称であります。酒菜(さかな)の「な」は魚と同意語で海産物の総称だそうです。これらは漁労と農耕が平行して行われ。中でも日本列島では加工食や発酵食として、古代でも産地から都市部に運ばれ貴重な食材であり、現在にも受け継がれているのです。

熨斗鰒(のしあわび)は現在も伊勢神宮に献上され、作業工程から献上までの一連の行事は三重県の重要無形文化財に指定され今に伝わっています。簡単に製法を述べておきます。

アワビの生肉(殻や臓物を取り除いたもの)を、干瓢(かんぴょう)を剥ぐように小刀(熨斗鎌)で薄く細長く条状(すじじょう)に剥ぎ、干し場に並んだ竿に掛けて干し、生乾きの時に竹筒を転がして引き伸ばし適当な寸法と形に整える。

この干鰒(ほしあわび)は、今日でも最高の贈答品で中世から始まった伊勢神宮だけでなく神社への供祭物(ぐさいもつ)も最高の祝品であります。

先史時代の約2500年の昔の生活が飛躍的に発展したのは、東アジアをまたに掛けて活躍した海人族=倭族=安曇族の存在が大きな役割を果たしました。今日我々の生活の隅々に、生き残っていることを学びました。そうした技術・伝統・風習の文化を大切に引き継ぎ後世に残したいものです。 

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