https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282030 【三井楽(みみらくのしま) みいらく(みみらくのしま)】 より
五島列島の福(ふく)江島(えじま)の北西端から東シナ海へと突き出た三井楽半島には,新生代新成紀(第三紀)の終末期頃に楯状(たてじょう)火山の京(きょう)ノ(の)岳(たけ)(標高182m)から噴出した溶岩流が放射状に広がり,緩やかな傾斜面から成る円形の溶岩台地を形成している。
特に,台地の縁辺部には樹木の叢生(そうせい)しない平明な草地が広がり,波打ち際に沿って大小多様な固い黒褐色の玄武岩質(げんぶがんしつ)の溶岩(ようがん)礫(れき)が露出するなど,風光明媚な海浜及び海域の風致景観が展開する。かつて草地では牛馬の放牧が行われ,牧場(まきば)としての管理が行われていたが,現在では海岸砂丘の周辺に落葉低木及び海浜性草本などが散在している。
三井楽の地は,遣唐使が派遣された時代には日本の西のさいはてにあたり,東シナ海を横断する直前の最終寄港地として利用されてきた場所である。『肥前(ひぜんの)国(くに)風土記(ふどき)』には「美禰(みね)良(ら)久(く)之(の)埼(さき)」と記し,遣唐使船に飲料用水を供給した井戸との伝承を持つ「ふぜん河(がわ)」などのゆかりの場所が残されている。10世紀の『蜻蛉(かげろう)日記(にっき)』では「亡き人に逢える島―みみらくのしま―」として紹介され,後代には異国との境界にある島又は死者に逢える西方浄土の島として広く歌枕となった。その風致景観が持つ観賞上の価値及び学術上の価値は高い。
https://www.city.goto.nagasaki.jp/s014/010/040/080/030/20190321163830.html
【国指定名勝「三井楽(みみらくのしま)」】より
三井楽町の高崎鼻~柏崎~長崎鼻までの海岸域及び海域は、風致景観が持つ観賞上の価値・学術上の価値が高いことから、国の名勝に指定されています。
平成27年4月には、日本遺産にも認定されました。
三井楽町は、遣唐使船の最終寄港地でした。柏地区には、遣唐使船に飲料用水を供給していたと伝わる井戸「ふぜん河」など、遣唐使ゆかりの史跡が遺されています。
また、三井楽は「亡き人に逢えるみみらくのしま」として「万葉集」や「蜻蛉日記」などの古典文学にもたびたび登場しています。
みみらくのしまが登場する古典文学
万葉集 山上憶良/筑前国志賀島白水郎の歌十首
蜻蛉日記 藤原道綱母/亡き人に逢える島として紹介
散木奇歌集 源俊頼/亡き人に逢える島として詠う
国指定名勝とは
文化財のひとつで、学術上及び鑑賞上の価値が高い庭園や景勝地のこと
日本遺産とは
地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーとして、文化庁が認定するもの。
https://www.shizensou.net/essay/stroll/series-sakai-09.html 【死者に会える島】より
少し悲しい話をしよう。長崎県五島列島に三井楽(みいらく)というところがある。ここは平安朝の昔から死者に会えると伝えられたところです。下五島の福江市から、さらに西の果てにある三井楽の向うは、茫漠として東支那海が広がっていて、かつて遣唐使がここで船待ちしたと伝えられたところです。
この三井楽を有名にしたのは、11世紀の「かげろふ日記」(上巻)です。この作者の母親が亡くなったとき、念仏僧たちがこんな話をしていました。「どこかにみみらくというところがあって、そこに行けば死者に会うことができるそうだ。ただ、近くにその姿が見えるので、近づこうとすると消えてしまう。遠ざかるとまた現れる。そんな不思議なところだそうだ」。それを聞いた作者の兄が
いづことか音にのみきくみみらくの
しまがくれにし人をたづねん
という一首を残しています。これは幻でも良いから、噂に聞くみみらくという島まで行って、亡き人に会ってみたいというものです。みみらくの島はよほど有名だったとみえて、その後12世紀になって、藤原俊頼の「散木奇歌集」という本にも、「みみらくがわが日の本の島ならば、今日も御影にあはましものを」という歌が残されています。おそらく死者の魂の行く世界は、海の向うだったのかもしれないという、仏教以前の日本人の信仰がそこにあったと私は考えています。
三井楽の岬に立って沖を見ていると、なるほど水平線の向うに漂うものが、死者の幻なのか、カモメの舞なのか見間紛うほどに不思議を感じさせるのが、この三井楽の岬です。この岬には、迫害からのがれて来て、悲劇の生涯を終えたキリシタンたちの墓が、荒波を背にして立っているのも印象的です。
死者の面影を追い求めてくる人たち、世をのがれて寂しく眠る人たち、そのいろいろの人生が眠る感情の姥捨の海を思わせますが、かつて作家の三好達治は「海よ、僕らが使ふ文字では、お前の中に母がゐる」といいました。たしかに広さと深さで人々の心を包む海は、亡き人の憩い場所としては、いちばんふさわしいところかもしれません。
ごらんのように、かつての私たちの社会は、老いて果てた人たちに寄せる思いにも優しさがありました。今ではどうです。老人たちは、生きているときはホームに追いやっておいて、死んで墓に眠ってから、盆になると叩き起こして家につれて来て、やれ食え、やれ飲めだって。冗談じゃない。私だったら化けて出てやる。
https://www.solaseedair.jp/solatane/special01/201906/002.html 【詠み継がれる西方浄土 みみらくのしま】より
遥か大唐を目指した英才たちを偲ぶ
日本の西端に位置する五島列島は、長く日本と世界を繋ぐ玄関口として栄えた地だ。奈良・平安時代、最先端の文化や学問などを輸入することを目的に、当時繁栄を誇った唐に派遣された遣唐使とも関わりが深く、下五島にもゆかりのスポットがいくつも点在している。
『魚津ヶ崎(ぎょうがさき)公園』は、遣唐使船日本最後の寄泊地と伝わる。美しい白石湾を望む園内の一角には、『遣唐使船寄泊地の碑』が建立されていた。車を止めて少し歩き、岬に立って海風を浴びる。遣唐使たちもこうして順風を待ったのだろうか。
『魚津ヶ崎公園』をあとにし、西へと舵を取る。目的地は三井楽(みいらく)半島だ。道中立ち寄った『白良ヶ浜万葉(しららがはままんよう)公園』には色鮮やかな遣唐使船型の展望台があり、文字通り白い砂浜が美しい白良ヶ浜を一望できる。ここ三井楽は、平安女流日記文学の嚆矢(こうし)といわれる『蜻蛉(かげろう)日記』の中で「亡き人に逢える島、みみらくのしま」として詠まれるなど、多くの古典文学に登場し、歌枕として定着した地だ。そんな歴史的背景から、園内には万葉集の歌碑などが立ち、自然とともに日本文学に触れることができる。昔覚えた万葉歌を記憶の底から引っぱり出しながら、園内を散策。歌人になったつもりで季節の花々や景色を愛でるのも“いとをかし”である。
1 『魚津ヶ崎公園』から望む大海原。第16次遣唐使では、空海ほか、天台宗を開いた最澄も唐へと渡っている。彼らもこの景色を見たのだろうか。
遣唐使といえば、空海を忘れてはならないだろう。弘法大師の名でも知られる彼もまた、遣唐使として海を渡った一人。その功績は今さら説明するまでもないが、804年(延暦23年)に第16次遣唐使として入唐した空海は、密教を究めるとともに、文化、学問などを瞬く間に吸収。密教の習得に不可欠な中国語、サンスクリット語をわずか3か月でマスターし、20年の留学予定をわずか2年で切り上げるなど天才と呼ぶにふさわしい逸話も残されている。『肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)』に“美弥良久(みみらく)の崎”として登場する柏崎の『柏崎公園』には、そんな空海の偉徳を称える記念碑『辞本涯(じほんがい)の碑』が立つ。“辞本涯”とは、空海が残した名文で“日本の最果(さいは)ての地を去る”を意味するそうだ。
航海技術も未熟な当時、渡海はまさしく命がけ。日本の最果ての地を去る遣唐使たちの覚悟はいかばかりであったろうか。二度と帰れないかもしれない祖国、二度と会えないかもしれない家族や想い人との惜別を胸に、次第に遠く、小さくなる島影をまぶたに焼き付けたに違いない。
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