記紀神話:古事記と日本書紀

https://blog.goo.ne.jp/sansui-ou/e/dba42fcd5b1ce3fa694a9d15fe3583cd 【記紀神話:古事記と日本書紀】 より

続いて記紀神話を読み解いてみたいと思います。

「記紀」とは言うまでもなく『古事記』と『日本書紀』を指し、どちらも奈良時代に成立した我が国の史書の原点であり、神話に始まるこの国の歴史を今に伝えます。

記紀共にその原典となっているのは、両書以前に存在したとされる帝紀及び旧辞という史伝で、一般に帝紀は天皇の系譜や妻子の名前、在位中の主な業績、宮殿や陵墓の場所等を、旧辞は神話や様々な逸話等を伝えていたと解説されますが、その辺りの整合性については不明な点も多く、どちらも原文は早くに散逸しているため、後世の我々は記紀を通してその面影を探るしかありません。

尤もかつて『東観漢記』が『後漢書』に再編されることで滅失してしまったように、帝紀と旧辞もまた『古事記』と『日本書紀』に姿を変えただけのことなので、記紀の内容こそが帝紀と旧辞そのものだとも言えます。

この帝紀と旧辞という日本最古の史伝が、果していつ頃に作られたのかという点に関しては、それに言及するような史料も見当たらないので、今もって定説は得られていません。

ただ大陸で統一国家隋が興り、日本もその周辺諸国の一員として外交に加わるようになると、かつて魏や南朝へ遣使していた頃とは異なり、否応なしに国際社会における自国の立場というものを再認識せざるを得なくなります。

そこで隋や各国の関係者とも交わるうちに、自国の歴史について尋ねられる機会もあった筈で、当時の漢字文化圏の常識として、史書も持たないような国は文明国とは見做されませんでしたから、遅くとも遣隋使が派遣され始めた頃には、帝紀と旧辞の原型となる史書の作成は試みられていたものと思われます。

従って両書の起源を聖徳太子や蘇我氏に求める仮説は、時代背景から見ても理に適っている訳です。

現存する我が国最古の史書である『古事記』が編纂された経緯については、編者である太安万侶が同書の序文で説明していて、天武帝が詔して言うには「朕聞く、諸家の賷る帝紀及び本辞(旧辞)、既に正実に違い、多く虚偽を加うと。今の時に当りて、其の失を改めずば、未だ幾年を経ずして、その旨滅びなむとす。これ乃ち邦家の経緯、王化の鴻基なり。故これ、帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽を削り実を定めて、後葉に流えむと欲す。」と。

要約すると、諸家に伝わっている帝紀と旧辞には、各々史実と異なる箇所が見受けられるので、今その過ちを改めなければ、何年も経たないうちに本旨が失われてしまう。

そこでそれ等の中から「偽を削り実を定めて」、正史だけを後世に伝えたいということです。

前述の通り帝紀と旧辞の原型が作られた時期は不明ですが、その後に加筆や写植を繰り返して行く中で、次第に異なる内容が伝えられるようになって行ったのでしょう。

ただ氏祖が皇室から枝分れした王族(皇別)や、神話の時代から皇室に仕えている豪族(神別)は、皇室との関りや祖先の功績等について、それぞれ独自の伝承を有していたので、そもそも諸家に伝わる帝紀や旧辞の内容が同一である筈もありませんでした。

しかし大陸の王朝と同じように、民族共有の財産としての国史を確立しようとするならば、諸豪族に家伝が存在すること自体はともかく、正史は正史として国内で統一する必要があります。

そして天武帝が、その作業は自身の在位中にやり遂げるべきことであり、子孫の代では不可能だと判断したのは正しかったでしょう。

では諸家に併存していた帝紀と旧辞は、宮中のいかなる部署で、誰の手によって『古事記』の原型として纏められたのでしょうか。

不思議なことに天武帝の勅旨によって始められた作業でありながら、編修の過程や主要な関係者等を明記した史料は見当たりません。

但し複数の異伝の中から一個の正史を選別する上で、(ましてそれが以後永久的にこの国の歴史となるならば猶更のこと)その基準として天武帝の意向が最優先されたことは間違いないでしょう。

尤も諸家に伝わるものを「既に正実に違い、多く虚偽を加う」と断じているように、初めから皇室伝来のものを唯一の国史に定めることが目的だった可能性もありますが。

従ってそうした主旨の下で成立した『古事記』は、『日本書紀』のように本文中に異伝を設けることなく、天地開闢から推古女帝に至るまでの歴史が一個の物語として完成されており、その編修姿勢は司馬遷の『史記』にも通ずるものがあります。

『古事記』の序文によると、天武帝の舎人に稗田阿礼という特に聡明な者がおり、目にしたものは全て言葉に表すことができ、耳にしたことは心に留めて忘れないほどだったため、帝は阿礼に「帝皇日継(帝紀)と先代旧辞(旧辞)を誦習せよ」と命じたといいます。

そして阿礼が誦習したものを太安万侶が筆記し、更にそれを通史に編纂して元明女帝に献上したのが『古事記』です。

稗田阿礼という人物については、その実在性も含めて古来様々な議論が交されていますが、ここでは立ち入りません。

また後発の官撰史書である『日本書紀』には、恐らく諸家に伝わっていたものと思われる異説が「一書に曰く」という形で収録されているので、諸家伝来の帝紀と旧辞は『古事記』成立後もどこかで保管されていたようです。

世界のいかなる民族であれ、その最初の歴史は例外なく口伝によって後世に渡されます。

そしてその伝承者としての役割を担うのは、専ら稗田阿礼のように部族内でも特に聡明な者であり、彼等の多くは代を重ねる毎に増加して行く民族の歴史を一語一句違えることなく暗唱でき、その脅威の記憶力は世界各地で多くの事例によって証明されています。

しかし天武帝の時代ともなると、既に紙の製法と漢字が輸入されて久しく、敢て誦習という手法を選択した理由についてはよく分かりません。

また天武帝の勅宣によって始業されていながら、ようやく活字化されたのが元明女帝の代というのも些か間が空きすぎていますし、編修が公表されていたかどうかも定かではありません。

ただ『日本書紀』の筆記法が漢文であるのに対して、『古事記』では変体漢文とも呼ばれる一種独特な筆記法が用いられており、或いは未だ天武帝の時代には、日本語を活字化する手法が確立されていなかったのかも知れません。

六国史の第一である『日本書紀』は、『古事記』と違ってその編纂の経緯が巻内に記されていないので、官撰史書でありながら成立の過程に関しては不明な点も多くあります。

ただ後に成立した『続日本紀』の中で触れられている箇所があり、そこには養老四年(西暦七二〇年)の時事として「先是一品舎人親王、勅を奉じて日本紀を修む。至是功成して紀三十巻系図一巻を奏上す」とあります。

要約すると、以前から舎人親王(天武帝の皇子)は勅命により日本紀を編修していたが、ようやく完成したので紀三十巻と系図一巻を時の元正女帝に献上したということです。

ここで言う勅が誰の発したものなのかは明らかにされていませんが、そもそも日本紀編修の発端は天武帝が川嶋皇子(帝の第二皇子)以下十二人に『帝紀』と『上古の諸事』の編纂を命じたことに始まるとされており、『古事記』と並んで『日本書紀』もまた天武帝の勅旨によって世に生み出された訳です。

『古事記』と『日本書紀』という全く性質を異にする二つの史書が、なぜ同時進行のような形で編纂されるに至ったのかについては、両書の伝達方法がまるで異なっていたからだというのが、その理由になると思われます。

『古事記』は「ふることふみ」とも読むように、古来より伝わる帝紀や旧辞といった民族の足跡を、なるべくその形を変えずに生きた日本語で後世に遺そうと試みた史書であり、それが稗田阿礼による誦習という前時代的な記録と、変体漢文や当て字による筆記という独自の編纂方法となって現れています。

一方の『日本書紀』は、初めから当時の世界基準である漢文による筆記を基本とし、日本人のみならず他国人が手に取っても差し支えない史書となっており、(実際に閲覧を許すかどうかは別にして)むしろそれが同書編纂の目的の一つであるとさえ言えました。

要は当時の国際情勢下にあって、大陸の先進文化を導入しながらも、日本独自の文化を継承して行かなければならない中で、そのどちらの文化も否定しない形で記紀両書を作り上げたことは、『古事記』の持つ学術的な価値を考えても、後世の我々に贈る天武帝の英断だったと言えるでしょう。

そして前述の通り『日本書紀』は漢文でありながら、「一書に曰く」という形で複数の異伝を収録しており、恐らくそれこそが諸家に伝えられていた帝紀と旧辞の内容そのものだと思われます。

しかし『漢書』を始めとする大陸の史書を範とした『日本書紀』が、なぜ漢籍に余り例を見ない異伝の併記などという述法を採用したのかについては、未だ万人の納得する定説を得られていません。

ただ『古事記』のように異伝を排除するのではなく、敢て併録することにより却って国史を一本化させたのは事実で、むしろ『日本書紀』に吸収されることで家伝の帝紀と旧辞がその役割を終え、同書が全ての日本人にとって唯一の国史となる地位を確立したのは間違いありません。

また『日本書紀』が上梓された奈良時代前期というのは、限られた有力豪族や皇族が太政官の重職を独占していた時代でしたから、同書の編者も諸豪族の家伝を無視できないという事情があったのかも知れません。