http://kodaishinto.my.coocan.jp/page006.html 【東三河と徐福伝説】 より
----秦の徐福は東三河に定住していた!?---- 前田 豊
要約
「徐福」東渡で、到着した地と言われる場所は、日本の各地にあるが、「本当に定着した地」は、決着していない。
古史古伝・「富士古文献・宮下文書」に記載されるところでは、「徐福」が目指した地は「トヨアシハラミズホの国」であり、「ホウライ」と呼ばれていた。
愛知県の東三河は、古代「豊国」「ホの国」と呼ばれ、ホウライ(鳳来)という地名(町名)がある。 鳳来寺山は、古代の火山で、数千メートルの高さをもつ巨大な「不二山」であったと言われる。 東三河は、この不二山の南山麓に位置する。
そして、富士王宮と呼ばれたところが、豊橋市に3箇所(賀茂神社、浅間神社、椙本神社)確認された。つまり、東三河は、まぼろしの「富士王朝」と関係があるようだ。
豊川市牛久保の伝承「牛久保密談記」によれば、鳳来寺山の少し南の「本宮山」の麓には、紀州「古座」から移り住んだ徐福の子孫が繁栄し、秦氏を名乗っていたとの伝承がある。そして、その子孫は全て、三河に居住していた、とのことである。
秦氏の名前は、豊川市に幡多郷などとして、残っているが、中国名であることを嫌って、日本名に変えたといわれる。 そのため、現在の三河の居住者に「秦の氏名」は少ないが、羽田氏などの姓の有力者が住まわれている。
古代神都・東三河は、「徐福」の求めてきた、「平原広沢の地」であった可能性が高い。
1.初めに
1.1. 徐福伝説とは
秦始皇帝の時代、方士「徐福」は、不老長生の霊薬を求めて東海の3神山に向けて船出したという。百工、童男童女を含む3000人を乗せた85隻の大船団は、弥生時代の日本を目指した先進文明を伝える福の神の一行であった。
その徐福一行が目指したところは、蓬莱、方丈、えい州と呼ばれる蓬莱の国・3神山の地である。蓬莱がどこにあったかは、各種異論があり、台湾、韓国、日本、はたまたアメリカ大陸という説まである。そして、中国、韓国、日本には徐福伝説をもつ地が多数散在しており、徐福の歴史的実在性は、疑えないものになってきている。
徐福伝説の存在する地は、日本に数十個所もあり、中には紀伊半島熊野や、富士山北麓吉田のように、徐福の墓と呼ばれるものまでが残っている。
しかし、いずれも伝説の彼方からもたらされたかすかな情報に基づくものであって、確たる史実とは言い難い。 筆者は、1996年に「古代神都・東三河-日本の源流!? 」なる書籍を彩流社から発行しているが、その論の根拠の一つは、徐福伝承と多数の徐福ゆかりの痕跡の存在であった。
徐福は、世界の大元祖の国・蓬莱を目指して渡来し、平原、広沢を見つけてそこに、王となって留まったという。そして、その地は、不二高天原・豊葦原瑞穂の国と呼ばれたという。それこそ、日本の原点、いや、世界の原点とも呼ぶべきところであろう。
果たして、不二高天原は何処に存在したのであろうか。そして、その地は現代の人々にとってどのような意味をもつ地なのであろうか。 本報告では、その徐福の探し求めた「蓬莱の国」・不二高天原の真実に迫ろう。
2.富士古文献・宮下文書・徐福文献
富士古文献は、富士吉田市に住む宮下家に保管されていることから宮下文書とか、東渡した秦の方士・徐福が編纂したという伝承から徐福文献と呼ばれている。宮下家は富士山北麓吉田に所在し、記録された文献の内容は、富士山南麓の不二高天原における、日本の超古代史の事が記載されているという。
しかし、該当する不二高天原の古代遺跡から、ここに古代王朝が存在したという根拠は見いだされていない。ただ、古代遺跡は富士火山の爆発と溶岩流によって埋もれてしまい、消滅してしまったのだろうとされている。一方、富士山北麓には、富士古文献で述べられているような、大掛かりな湖沼、神都が存在するという遺跡の存在が感知されない。このことから、富士古文献自体が偽書であり、根も葉もない虚偽の古代史であるという意見もあり、アカデミズムの世界からは無視されているのが、実情のようだ。
しかし、富士古文献は徐福文献ともいわれ、徐福が蓬莱の国に渡来し、その栄光の歴史に感激し、木片や木の葉に古代だんべい文字で書かれた文書を、漢字で書き記したものともいわれている。(注、ちなみに、参遠地方の浜名湖を航行する古代船は、だんべい船と呼ばれていた。)
もし、徐福が実在の人物であったとすれば、徐福文献自身も歴史的に実在した可能性は極めて高く、その内容の信憑性もおおいにあると言うべきであろう。筆者は、徐福文献とも言われる富士古文献の実物がどのようなものか、大いに関心をもっていたが、最近、八幡書店から富士古文献の写真版が発行されていることを知り、大枚をはたいて購入した。この文献を見る限り、富士高天原の存在したことはまず疑えないと思われる。ただ、その所在地が現在の富士山北麓と設定しているところに、問題があるように見受けられた。
私見では、富士古文献は、富士山北麓の史実ではなく、東海の3神山の地、即ち東三河から奥三河の地で展開された、日本の神々の歴史が記された文献であると推定される。その結論に到達した過程を以下に述べていきたい。
2.1. 富士古文献「宮下文書」の由来
まず、富士古文献「宮下文書」とはどのような由来をもつものかについて紹介しよう。宮下文書は、阿祖山大神宮(富士太神宮)の宮司を代々務めてきた宮下家に保存されていたためこの名があり、天竺真郡国から渡来した神皇農作比古神が富士山に高天原朝を開いたという伝承に始まる。ウガヤ朝になって九州霧島に移行し、51代の天皇が続いた後、神武天皇の神倭朝になったという内容である。「徐福文献」といわれるのは、木片や石面などに神代文字で記されていた文書を、不老不死の霊薬を求めて富士に渡来した徐福が、この史伝に注目し、漢字に書き直したという伝承によるものである。
また、「宮下文書」は「寒川文書」とも呼ばれるが、これは延歴19年(800年)4月、富士山が大爆発を起こし、噴火が35日も続いたことがあった。この大噴火は「日本紀略」にも記されているが、伝承によると高天原は壊滅し、阿祖山大神宮も消失した。
そこで、神宮関係者は、相模国に移住し、相模川の河口近くの高座郡に、高天原を流れていた川の名にちなんで寒川神社を創建し、伝来の文書を保管したという。
このため「寒川文書」なる名称が付けられたという。現在の文書は、小室浅間神社の宮司・宮下源太夫義仁が、寒川神社を訪れた際、文書の重大性に仰天して、その全文を筆写し、浅間神社に伝えたものだという。
寒川神社は、弘安5年(1282)に起こった大洪水のため、社屋が流出するという被害をこうむり、文書も消失した。しかしその内容は、宮下源太夫が筆写したために残存した。
2.2. 富士古文献「宮下文書」の内容
富士古文献「宮下文書」には、徐福が秦の始皇帝に、東海の三神山に霊薬を求めて旅立ちたいと進言する様子が、詳しく記されている。
「徐福、すなわち上書して曰く、東海の蓬莱、方丈、えい州の三神山は、世界の大元祖にして、大元祖の神仙の止まれるあり、かつ不老不死の良薬あり。もしこれを服せば、千万歳の寿命を保持することを得べし。 臣、まさに童男童女5百人と海に入り、これを索めんと請う」と。
「宮下文書」によると、徐福一行の富士到着までの様子は次の通りである。
東海の蓬莱山を目指して出航した徐福船団は、東の水平線上に秀麗な山様を認め、これこそ蓬莱山であると全員で遥拝した。しかし、やがてその姿を見失い、海上をさまよったが、陸地と大きな山があったので、その裾野の小さな湾に船を着けて上陸した。
しかし、近づいてみると、船上で遥拝した霊山とは違い、一行が上陸したのは。木日国(紀伊国)木立野の大山であった。
徐福が、熊野那智山を眺めていると、白衣の老翁が姿を現して、那智山は不二(富士)山ではなく、不二蓬莱山は、東方にあると告げた。
一行は三年間を費やし探索してついに富士山を発見した。一行は航海十余日で、住留家の宇記島原に上陸し、松岡宿から水久保宿を越え、富士山麓の阿祖谷家基津に到着した。 この一帯は、高天原と呼ばれて、日本最初の首都の跡だった。
徐福は一族とともにこの地に止まり、一行全員を大室、中室、小室に分散居住させて、専門分野ごとに、開墾、農作、製紙、機織り、養蚕などを行わせたという。
徐福は、書巻約3千巻と、印度留学から持ち帰った薬師如来像を、小室高座山に建設した宝蔵に収め、阿祖大神宮の宝物にしたという。
徐福が死んだのは、孝元天皇7年(前208)の2月8日、場所は富士中室とされている。遺体は中室の麻呂山に埋葬されたが、相次ぐ富士山の噴火によって、多くの遺跡とともに埋没してしまったという。
徐福の子孫は、その後も当地に止まって、福のつく苗字を残した。現在、富士周辺に残る徐福の事跡としては、富士吉田市の太神社に徐福の墓がある。
和歌山県の熊野新宮にも、徐福伝説は多く、徐福の第2子・福万によって、「久真野」と名付けられた。 新宮というのは、富士山の本拠点を「本宮」と考えて付けられたもので、その後、長期間にわたって、相互の交流が図られたという。
宮下文書については、古代史作家の佐治芳彦氏による次のような文章もある。 「宮下文書は秦の方士徐福が、富士の阿祖山太神宮の神官が語った古代史を聞き、その深さに感嘆するとともに、その貴重な記録の散逸するのをおそれ、改めて漢字で筆録したものとされている。 とすれば、ほぼ紀元前200 年頃までに成立したことになり、日本最古の史書と云うことになる。 もちろん膨大な伝承のすべてを、徐福一代で筆録したとは考えられない。 恐らく漢字をよく知る徐福の子孫なり従者が、その作業を継承したものと考えたほうが自然だろう。 だが、これはあくまで徐福が渡来し、富士山麓に永住したと云う伝承を前提とした推定である。
一方、徐福筆録説とは別にこの文書は、第8代孝元天皇が自ら選録し、徐福はその勅命で筆録したものという説もある。 暦代記他数編は孝元天皇がみずから編集した古代実録であり、それを"書き作り記し置"いたのが徐福である旨を、宮下原太夫義仁によって"謹書"されている。この孝元天皇というのは、津田左右吉博士の記紀批判以来架空の存在とされているが、一部の古史古伝の研究者のあいだでは、神武系とは別系の孝昭王朝(孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化の各天皇)の、いわば後期の天皇であり、また戦後、史学会のほぼ通説とされているハツクニシラススメラミコトである、祟神系王朝によって滅亡させられた、日本列島の原・先住民系の王朝の天皇と考えられている。」
等々・・
2.3. 徐福に関するその他の情報
さらに佐治氏は、司馬遷の書いた"史記"秦の始皇帝記に、伝わる徐福のことを要約して、次のように述べておられる。
「秦の始皇帝が中国の統一を果たし、東方の郡県をめぐって、山東省の浪邪山に滞在したときのこと、方士(方術を行う人、道士)徐福が皇帝に次のように奏上した。
'東海に蓬莱、方丈、えい州という三つの神山があり、そこには仙人が住んでおります。 我々は、陛下の不老長寿のため、斎戒して身を潔め、汚れなき童男、童女とともに、その神山の麓に参って、仙人に会い、霊薬を求めたいと思います、'と。
そこで始皇帝は、徐福に命じ、童男、童女数千人を連れて、東海の彼方の仙人の住む霊山をめざして、出航させた。 始皇帝28(BC219)年のことである。
ところが、始皇帝37年(BC210)、揚子江から東支那海に沿って、北上し浪邪を再び訪れた始皇と徐福は、再会したのである。
徐福は海路、霊山を求めたが数年経っても霊薬など入手できず、要した費用は莫大なものになる。 そこで、始皇帝に、詐(イツワ) って次のように奏上した。
'蓬莱島の霊薬は手に入ります。 しかし、いつも大鮫魚が現れ、島にたどりつく事ができません。 そこで、弓の名手を乗船させて下さい。 そして大鮫魚が出てきたら、弓を連発して退治して貰います。'
そこで皇帝自ら弓をもち、東海へ向かった。 皇帝は浪邪から山東省の芝不に到ったところで、大魚を射止めたが、その後間もなく病没してしまった」という。
史記の別の個所ー準南衡山列伝ーには、つぎのような異説が伝えられている。
「始皇帝は良家の童男童女、三千人を派遣するにあたり、これに五穀の種をも
たせ、諸諸の工人をつけて出発させた。 しかし、徐福は平原と広沢を手に入れると、その地にとどまり、王となって再び中国に帰ることはなかった。」と。
徐福が仙薬を求めた島とはどこか、平原、広沢を手にいれて、王となったところはどこか。日本には違いない。さらに焦点を絞って行こう。
2.4. 元日本徐福会理事長・飯野孝宥氏の徐福説 故飯野氏は、1993年当時日本徐福会理事長をされており、「弥生の日輪」という著書をだされた。 そこで、秦の徐福の蓬莱の国、日本来訪について詳しく述べられているが、その由来は「史記」「宮下文書」と最近の諸研究成果によっている。 飯野孝宥氏の"弥生の日輪"の第一章には、史記の作成された背景が記され、徐福の事跡に対する考え方が出されている。「中国では徐福村の実在が明らかにされ、その大陸でのいきさつと不可解な出航までは、"弥生の虹桟"に記されている。 徐福は邪馬台国の450年も前(BC210年) に突然日本の古代に姿を現し、その船団の渡来伝説を伝える遺跡は、中国に十数か所、日本に40数か所、朝鮮、韓国に数か所、合わせて60数か所もがアジアの地図上にあるという。
しかし、徐福のことは日本の官選の古事記、日本書紀にはなんら記録がない。 三千人もの渡来人が忽然と消えてしまうのはおかしな話で、事実が歪曲されているのは明らかだ。 だが、日本の古文献に、記録は実在していたのだ。 それは正確にしかも詳細に。縄文以来の火の国の歴史を書いた"宮下富士古文書"いわゆる"徐福古問書"と呼ばれる一群の古書である。 しかしこれらの古典はなぜか伝説として葬られ、日本の古代史家は避けて通ってきた。 だが、多くの郷土史研究家は早くからこれに着目し、蘊蓄を傾け立派な研究を残してきた。
結論から云えば、司馬遷の"史記"の船団出発は、到着した日本での記録と完全に符合する。それだけでなく、日本に住み着き帰らなかった理由までもが記されている。 これはその船に乗っていた者以外には書き記す事が出来ない内容である。 まるで本人の徐福自身が作者ではないか。
宮下文書では、徐福来朝は神武天皇建国の日本国第7代孝霊天皇の時(BC218)、不二高天原の神都に辿り着く。 蚕製糸、織物を業としその地にとどまる)とある。」
そのいきさつは以下の通りである、と飯野氏は要約してくれている。
「敬神祟祖の念が熱い孝霊天皇は、朝夕治国平安を感謝して、皇祖大神を拝していた。徐福は始皇帝を欺き、新造した大船12艘に金銀、五穀の食料の他、諸口と品々を積み、老若男女500余人を率いて、不二山を目印に東海へ航すが、本嶋の南海で不二山を見失う。紀伊熊野に迷い着き、しばらくこの地に留まったが、不二山を再び見付けてやってきた。その後3年後に、孝霊は娶る女人7人、男子12人、女子8人を残し崩御された。 寿齢128才、片岡馬坂の陵に葬る。 この孝霊天皇の没後約100年後に中国で、司馬遷が"史記"を書き残しているのである。
さて更に、徐福は八代孝元天皇の世に大きな足跡を記録しているので、日本での記録を引用する。'人皇七代孝霊の世に、徐福は秦の始皇帝へ、東海の蓬莱、方丈、えい州の三神山は全世界の大元祖にして大元祖の神仙がとどまれり、その山上に長生不死の薬草あり。我はその薬草を探り、君に奉らん。 さすれば万々歳、寿令久しく帝運いよいよ盛んなるべし。'と奏上する。
始皇は大いに悦び、派遣に同意した。 徐福は更に'その薬草を採りますには、まず南天竺より薬師如来を求め迎え、老若男女500余人を従えて貢ぎ、働いてもらいます。帰るには早くて15年、延びれば25年いや30年はかかります。 金銀 米、塩、味噌、五穀、砂金、銅並びに油、500人以上の食料30年分を見積り、大船85艘を要します。'と始皇を欺き、トヨアシハラミズホノクニ(富世明波羅御住火久仁)へ旅立つ。
そして、筑紫(九州)、南島(四国)を尋ね回り、紀伊国大山に昇り、実に3年3ケ月の長きにわたり滞在し、高天原の大室、中室に永住することになった。
当時渡来した558人は、秦徐福、一男福永、二男徐方、三男福寿、一女天正女、二女寿安女、三女安正安、四女次正女、孫一丸、福正女、自蓮女 以上12名
男壱人:徐永、得正、藤光、件光、円光、円方、他 計35名
老人女分:清日女、美目女、目永女、貞流女、他 計45名
妻有人男(夫婦者):利益、忠時、要領、能佐、活梢、経京、済明、天雲、光敬、陸
清、 慶山、金明、銀山、鉄山、鉄人、光宝、光清、伝保、清水、孝徳、田主、国
正、信正 吾作、頼光、明仁、一保、二保、正道、玉志 他 計138名
夫有人女(夫婦者):竜永女、天竜女、明永女、小泉女、阿志女、宇志女 他計11
5人若人男(未婚):元定、信永、福元、徳成、健保、彦古、他 計 41名
若人女:阿根女、貞目女、佐加女、要日女、利佐女、湯和女、他 計43名
童男 :真彦、千丸、大丸、忠子、源太、千丸、豊丸、金根子、銀坊、等計51名
童女 :比売女、比久女、与黒女、玉江女、美比女、等48名
合計588名となっているが、数があわない。(528名)」ということでる。
3.富士古文献「宮下文書」の内容解釈への批判
富士山北麓の現実を見るに、徐福に関連した確かな史跡はどうも乏しい。そこ
で、宮下文書の記述の信憑性が少ないといわれている。 筆者は、徐福一行が列
島に到着したことは事実だと思うし、富士古文献も全くの偽書とは思われない。従
って、富士古文献の内容、比定場所の解釈をやり直す必要があると感じていた。
3.1. 火山噴火の影響
たとえば、延暦の噴火によって天都を焼いたとされる溶岩は、寄生火山から噴出した剣丸尾(けんまるび)ではないかといわれているが、これを調べた人がある。(富士山よもやま話、1989.7静岡岡新聞社発、遠藤秀男著)
この溶岩は標高2900メートルの山腹割れ目から流れ出して、スバルライン2合目と丸山との間を流下し、富士急ハイランドの敷地を経て、下吉田の赤坂で止まっている。その溶岩下から縄文式土器や古銭が出土しているので、かなり長期にわたる人間の居住が確かめられたが、町田洋氏はこの丸尾を延暦または貞観の噴火の産物ではないかと推定している。
しかし、その流れは帯状に長く、青木ケ原を埋めた溶岩のような広大さはないので、天都絶滅説は怪しくなるのである、と。
3.2. 富士高天原伝説は幻か
要するに、この地を研究している地質学者にとっては、かつての帝都の存在「高天原伝説」は語る必要もない「異次元の世界」なのであった。
ただ、「高天原伝説」を夢として語るならば、壮大でこの上なくすぐれた叙事詩であり、文学の世界での存在価値があるという。だからこそ「幻の帝都富士山高天原」でもある、という。
4.古代神都・東三河の出現
筆者は幻を追うつもりはない。現実的な史実を追っていると思っている。つまり、結論的には、富士古文献は、富士山北麓の史実を表しているのではなく、場所の設定が間違っている。というより、意図的すり替えが行われたと考えられるのである。
それでは、本当の天都・高天原はどこだったのろうか。 たぶんそれは、宮下文書に出てくる地名を共有する他の地域にあるはずである。そこで、徐福伝説をもつ東海の三神山の地、東三河から奥三河の地という線があぶり出されてくる。
従って、富士古文献は、東三河の地で展開された日本の神々の真実の歴史が記された文献であると推定できる。
4.1. 牛川・石巻山の謎の遺跡
東三河には、神々の来訪伝承が沢山あるが、中でも興味深いのは、石巻山である。愛知県豊橋市の東北に位置する牛川町と石巻山には、不思議な謎がかくされていた。 謎の一つは、牛川稲荷神社(浪ノ上稲荷)の境内に立つ20に及ぶ立石である。
そこに刻まれている文字は、今まで見聞きしたことのない謎の"大神"の名であり、"地神"と刻まれた石巻山遥拝石である。 また、蓬莱島を模した弁天島と、浪ノ上1号という発生期の古墳がある。そこから、中国将官用環頭の両刃の剣が出土している。国宝級の品物といわれる。 この真相は何か。謎は解かれなければならない。
謎を解く鍵は、意外なことに偽書と云われた古史古伝、"宮下文書(富士古文献)"にあった。それは、忽然として現れた"弥生の日輪"ー秦徐福伝説と古代天皇家ー(飯野孝宥氏著、新人物往来社、1993.9)との出会いに始まる。
4.2. 東海の三神山
東三河には、神と崇められた霊山(ピラミッド型山)が多い。 その中でも石巻山と本宮山、更に内陸にある鳳来寺山(蓬莱山を連想させる)は、日本古来の有名な神山で、仙人(修験者)の住む処であった。 まさしく、東海の三神山なのである。
宮下文書で云う徐福渡来が史実であり、最終目標である蓬莱の国が、日本であり、しかも3神山を目指していたと云うのであれば、それは徐福伝説をもつ、東海地方の三神山を目指していたとしか考えられない。 即ち、筆者の仮定した神山で囲まれる地(東三河のダイヤモンドゾーン)が、徐福が仙薬を求め、平原、広沢を手に入れて、王となった地ということになる。 そうであるとすれば、徐福一行は豊橋に上陸したはずであり、その証拠があるはずである。
4.3. 徐福定着地に関する仮説
筆者は、徐福定着地を実証するため、二つの仮定を設けた。
仮定1)秦の徐福日本渡来の伝説は史実であった。
秦の始皇の方士徐福は、3000余の童男、童女を引き連れ大船団を組んで、日本にやってきた。 しかし、船団は分裂し日本各地に上陸した。 その本隊は愛知県御津に上陸し、真の三神山である石巻山、本宮山、鳳来寺山を見いだし、この地域に住み着いて、その後の日本の基礎を築いた。牛川稲荷の石碑に刻まれた大神は、神とされた徐福一行の記念名簿である。
仮定2)宮下文書の内容の多くは真実であるが、その場所設定が間違っている。
富士山麓は分岐船団、徐市の一行が到着したのであるが、東三河とのその後の交流もあって東三河での史実が、富士山麓の史実にすり変わってしまった。 宮下文書記載の内容は富士山の爆発にも影響されず、現実は東三河に残っている。
逆に、この仮定が証明されれば、宮下文書の信憑(シンピョウ)性がより確実なものとなり、日本の古代史、超古代史を明確に知ることが出来るようになる。
4.4.仮説の検証
既述の宮下文書内容を、上記2つの仮定に照らして検討して見よう。
まず、不二山の比定であるが、飯野氏は無条件に、現在日本の象徴となっている富士山を考えておられるが、筆者の考えはこれと異なる。 それは参州と云われた地にある不二山、即ち、石巻山、本宮山、鳳来寺山のことで、事実三河では石巻山のことを三河富士とも呼ぶのである。(注、神社を中心としたる宝飯郡史の213 頁には菱木野天神社の鎮座地について、「東北を望めば三河富士の称ある石巻の連峰は北に走り」とある。)
駿河の富士山は、東海地方のどこにいても目に付くほど高く聳えているのであるから、見失うことはまずないはずである。 また山上には不老不死の薬草も生えることができない。 その点三河富士の方は、太平洋に船出すると見失い易い。 また頂上付近にはこの地特有の薬草植物が群生し、天然記念物と指定されている。
次に、徐福一行の人名であるが、これらの名は牛川稲荷社の石碑に刻まれた、謎の大神の名と極めてよく似ているのである。 中には同一名もある。 私が最初に石碑の大神の字を見いだしたときは、これだけ大勢の大神を刻む牛川稲荷とはとんでもないところだ、と思ったのだが、その謎がここに来て、ようやく解けて来たのである。
つまり「徐福一行は、蓬莱の地に辿り着き、産業を起こし、定着し、その功を讃え、神としてあがめられた」、という表現が事実であったのではないか、いうことに思い到ったからである。
4.5. 牛川稲荷の謎の大神
牛川稲荷神社の石碑に刻まれた、謎の大神の名をつぎに記す。 なお、これには徐福一行以外の大神がはいっていると思うが、明快に分離出来ないのですべてを記すこととする。
1)地神、御嶽大神、稲荷大神 3神
2)保一大神、霊悠大神、◎保福大神、玉広大神、八汐大神、白鷹大神、世秀大神、松里大神、役保大神、徳保大神、榊丸大神、太田大神、国光大神、豊信大神、 白地丸大神、清能大神、豊広大神、豊一大神、保照大神、豊光大神、安薙大神、榊天大神、豊繁大神、光盛大神、清繁大神、大芳大神、玉光大神、玉繁大神、玉房大神、菊一大神、豊徳大神、玉芳大神 国榊大神、宝珠大神、豊川大神、徳王大神、伊代大神、白崎大神、三鈎大神、豊高大神、光繁大神、玉吉大神、光国大神、光清大神、長明大神、年春大神、高市大神、玄馬大神、孤八大神、 宝弁大神、笹勝大神、松富大神 52神
3)白崎坊大神、三笠山通坊大神、人丸姫大神、白山坊大神、天徳大王大神日光坊大神、白峰坊大神、三笠山大神、瑠璃坊大神、太郎坊大神、次郎坊大神、大僧坊大神、秋葉坊大神、18神
4)鈴木、服部、酒井、石上、松本、牧井、天井、彦坂、花川 (霊神、信者氏子)
次に、牛川稲荷社の東側に、蓬莱山を模した弁天島がある。 そこにはつぎの神と童児が鎮座している。
筑嶋大神、筆硯童児、稲籾童児、飯鑓童児、金財童児、計升童児、衣裳童児、馬童児、善財童児、菅箒童児、生命童児、鶴皇童児、稲酒童児、船車童児、愛敬童児、従者童児15童児
これは、概念的役割を持たせた架空の童児かも知れないが、童子は、徐福一行の重要な随行者である。
因みに、蓬莱山を模した弁天島を境内にもつ神社が東三河に数社ある。 豊橋船町の湊町神明社及び、豊川稲荷社東の三明寺が該当する。
また、豊橋近くの吉田神社祢宜屋敷には薬草園があって、百花園と呼ばれていた。仙薬の栽培を連想させる。 いずれも、徐福の目指した蓬莱の国を彷彿とさせる事跡である。
牛川稲荷の石碑の中に、徐福の名がないのを残念に思っていたところ、かつてのメモを見ると、徐福と見える字があるではないか。 よく見るとそれは保福であった。 しかし、徐福と保福の手がきの字は、ほとんど同じに見える。 石碑の彫刻の際間違えた可能性がおおいにある。 保を徐に読み替えると、豊橋牛川には徐一(徐市)、徐福、役徐、徳徐、徐照等徐一家が来豊していたことが明快になる。
尚、牛川稲荷の祢宜である鈴木氏に、石碑の由来を尋ねに行ったところ、この石碑は氏子のひとの守護神を祭ったものだと云われた。 牛川稲荷の社殿ができたのは意外に新しく、以前は石碑群と古墳があっただけであるようだ。 石碑群も大正時代に整頓されたそうで、内容も分からず台石に、字を彫り込めたものを、逆さに積んだりしたものもある。 しかしその古さは確かなものであり、彫刻された字が風化して、読み取り難いものも多い。
その後の調査で、この地域の住人は、これら石碑の大神の子孫であることが判明した。徐福一行がこの地の先祖であれば守護神として祭られるのも納得できる次第である。 4.6. 徐福一行持参の文物とトヨアシハラミズホの国
ところで、宮下文書では、「徐福一行は高天原の大室、中室に留まり、まず女子は蚕子として、繭の糸をひかせ、機織りをさせた。 男には農夫、大工、壁塗り、狩人、紙師カミスキ、傘張り、楽人、仙人、衣類仕上加工、酒造夫、油製造夫、鍛冶工、鋳物師、諸細工師、医師、石工、塩製造夫、その他百工をそれぞれの下に就かせた、という。
積載してきたものは、南天竺国より求めてきた薬師如来像、文書48通り360件、孔子著作の諸物1850巻、支那の諸学書1800巻、等であった。
この書はのちに不二山元宮阿祖山神社に宝物として収められたが、延暦19年福知山の大噴火の折りにその大半が消失した。 来朝した一行は徐福をはじめ一同天神を嵩敬しており、小室の高座山に保蔵を建て、薬師如来を納め祭った。
徐福は渡来の途すがら、3年3ケ月紀伊国大山に滞在したことを記念して、かの地へ、二男徐方(後に福島)にけん族50人の百工を付けて派遣し、その地を開くことを命じた。 不二山を見失いさまよった山ゆえに、その山々を久真野山と名づけ、高天原に祀った宮を本宮、彼の地を新宮と称し、相互に交流することになった」とある。
さて、不二山が三河富士(石巻山)を含む三神山を指すと考え直すと、東三河一宮の後背地に神奈備型の本宮山があること、また、昔より東三河と熊野は、修験者の交流があったことが意味を持ってくる。 牛川稲荷の西200mほどのところに、熊野神社の古社があり、熊野の山伏が豊橋にきて、殺生沙汰を起こし、山伏塚に葬られたりしている。 今でも、熊野地方から豊橋への人の流れはあるのである。
徐福の目指した三神山に比定できる石巻山、本宮山、鳳来寺山のいずれにも、中腹または山麓に薬師如来を祀る寺が多い。 石巻山麓では、持統上皇ゆかりの薬師如来像が鎮座する浪ノ上正円寺、や牛川薬師町の薬師寺が、本宮山麓では真言、天台の密教系寺院に薬師瑠璃光如来を本尊とするところが多く、曹洞宗、臨済宗などの寺も薬師如来を本尊とする。 これらの寺は当地に数多く建立されている。 また鳳来寺山の中心である本堂は薬師堂である。
また、天神信仰に関しては、牛川稲荷東方約100mのところに、かつて天神山遺跡があった。
次に、高天原であるが、豊橋北部賀茂町には"間川"という川が流れていて、その上流は石巻中山町を源流とする小さな川"安川"である。
神代の時代、神々は高間ケ原の安川原で談合した、という設定場がそのものずばり、現実に地名として残っているのである。 間川近くの高台これが私の推定する高天原(高間原)である。
大室は大野町上吉田(賀茂町の北)にあるし、この地区には牟呂用水が流れており、牟呂(室)の名の付くところは多い。小室は、鳳来寺山門谷に比定できる。
賀茂神社のもと境内社に富士王宮と称された富士神社があったという。(神社を中心としたる宝飯郡史、PP371) 祭神は木花咲耶姫命である。当地方には富士社と称するものが更に3社(富士霊社、富士浅間社、藤社権現)があり、富士山との関係は極めて強い。
ところで、トヨアシハラミズホノクニとは東三河の昔の国名そのものである。 つまり豊橋、豊川、豊津、豊島という豊の地で、当時は葦のしげる湿原が広がっていたであろう。
豊橋市の中央東部には芦原町や葦毛湿原などの地名が残っている。 瑞穂の國の穂は、国造時代の東三河は"穂の國"といわれていたことから、自明である。現在も豊川市の中心部の地名は"穂の原"である。
ホの國は現在も、宝飯郡として名を引き継がれている。 ホの國は国名を漢字2字で表すべしとの律令時代の方針に沿って、宝飯(ほお)から宝飯(ほい)郡に変音してきたのだ。 つまり、トヨアシハラミズホノクニは、昔葦原であった平原で、豊かな瑞々しい稲穂のゆれる東三河の國を指していたのであった。
以上、諸々の事が宮下文書の内容とぴったり合致しており、徐福伝説、宮下文書と、東三河高天原・蓬莱説の三者が、ともに史実を表わしている事が証明される。
ただ、富士山爆発に関することは、富士山麓に辿り着いた別部隊の事跡が語られているようで、宮下文書に一部混乱がある可能性がある。 それも後代の人の書き込みによって起こったと思われるが。
5.東三河の徐福に関する伝承
5.1. 豊橋地方の伝承
"国史より観たる豊橋地方"(大口喜六)によれば、「東三河に於いて、宝飯、渥美両郡は極めて秦人に関する伝説の多い処である。特に宝飯郡の御津地方には、秦の徐福が始皇帝の命を受け、不老不死の薬を求むるにあたり、木の国から転じて、三河湾に入り、ここから上陸せしものと伝へられて居る。 元来 徐福が長生不死の薬を求めて、蓬莱島に到ったといふ説は、独り我が国のみならず、支那に於いても頗る古くから伝わって居る。 さうして宋の欧陽修の日本刀歌にもそのことは言われて居る。 我が国では最初徐福が来航したのは紀伊国の熊野であると伝へ、今も新宮にはその墓と称するものがある。
ただこの伝説は頗る汎く、且つ古いにも拘らず、何ら拠るべきものがない。 併し、我が宝飯、渥美両郡から、多くの銅鐸を発見せられたることは事実である。 秦人の伝説と銅鐸、この関係は結局離るべからざるやうに思はれる。」とある。 これは非常に貴重な証言である。
5.2. 義楚六帖
志茂田景樹氏の"ついに明かされた徐福王朝の秘密・・謎の邪馬台国"(H4.11,日本文芸社) によれば、義楚六帖に徐福に関する記述があり、つぎの通り。
「日本国伝愈伽大教弘順大師賜紫寛輔なるものありて又言う。 " 本国の都城の南五百余里に金峰山あり。" " また東北千余里に富士と名付け、また蓬莱と名付く。その山峻にして三面これ海。一だ上に聳えて頂きに火煙あり、日中は上に諸々の宝ありて流下し、夜はすなわち却って上がる。常に音楽を聞く。徐福はここに止まりて、蓬莱といえり。今に至るも皆秦氏と言う。" 」
これは後周時代、日本で言えば平安時代の史書であり、留学僧弘順が中国に行って話したことである。 志茂田氏は富士山麓を蓬莱と名付けたとされているが、この場合妥当と云えず、この文章を解明することによって、東三河が蓬莱であることは、明確になる。
すなわち、都城の位置は、高天原が、賀茂町" 間川" ほとりの高台であり、いまの賀茂神社の前身が都城ということにすると(一宮町上長山、野田豊島の線も排除出来ないが、いずれも近い)、これを基点に南五百余里( 昔の短里=90m、を仮定して約45Km南) には田原蔵王山があり、これはピラミッドの金字山、金峰山である。( 因みに、役小角(エンノオズヌ) が蔵王権現を感得した峰を金峰山と称し、熊野の蔵王堂のある大峰山も金峰山という。) この金峰山から、東北千余里(約90Km) は鳳来町の鳳来寺山( 蓬来とも呼ぶ) に当たる。 これを、その音名の通り蓬莱と名付けたことは明白であろう。
徐福の来朝されたBC200年頃は、石巻山麓まで海が近づいており、地名にも浜とかなぎ江といった、海にちなんだものが残されている。 三面海とは三河湾、太平洋、浜名湖をさす。
三神山(石巻山、本宮山、鳳来寺山)はいずれも急峻で、富士の名をつけるに値する山であることは言うまでもない。 本宮山麓の上長山には宝川があり、流下している。 一だ上に聳えて火煙ありとは、鳳来寺山がその昔煙巌山と言われていた所以を思い浮かべれば明白である。
愛知県郷土誌料刊行会発行の"三州鳳来寺山文献集成"(S52.12) によると先代旧事本紀鳳来寺略縁紀に「煙巌山は本堂より西に当たれり。峰を隔てて聳えり。此処は、利修仙人護摩を修せる煙、常に巌に立ち登る。故に煙巌山と名付く。仙人住居峰多けれども、殊に此の名を以て当寺の山号とせり」とある。
即ち、弘順大師が頂きに火煙ありと言ったのは、この護摩をたく煙の事であり、常に音楽を聞くとは、開山利修仙人が鳳凰にのり、笛を吹きながら空を飛んだという、言い伝えを反映したものである。尚利修仙人のことを笛楽仙人ともいう。
要するに、宮下文書を解説される方々は、富士山麓を徐福の定着の地とされるのであるが、上述の通り、はっきりと三神山を比定出来、文書類と対応が可能な東三河こそ徐福定着の地であったとするべきであろう。
5.3. 宮下文書
宮下文書の人皇七代孝霊天皇紀は、徐福直系の七代嫡流秦福寿が謹書して遺し、山宮二所大神大宮司宮下源太夫義仁建久三年三月(AC1192)に写本したとある。
石巻山を囲む周辺の連峰に、峰の坊があり、その南には浅間社奥の院( 頭社) 、浅間原川社( 腹社) 富士神社( 足社) があり、この峰から東の方に富士山が眺められる。 富士山と石巻山は古代から交流があったことが考えられ、宮下文書に富士山で営まれた歴史を組み入れることは可能で有ったろう。 いや、宮下文書の原本は、天皇家の書庫に所在し、写本が富士に分けもたれたとも聞く。 前者は蘇我氏滅亡のとき、蘇我蝦夷により火をかけられ、焼亡してしまった。
七代嫡流秦福寿は更に記している。「徐福に従い参れる人々の子孫は、不二山や近くの山々、沢沢の住人の三分の一の多きに達した、と。 古問場に保管されていた孝元天皇の文書古記録文献は、全文21万6千字の膨大なものであり、原文は万葉仮名で、これだけの文章が書け、中国古代史に精通していた人物は、徐福一行以外に考えられない。 彼らは上陸地域で争いを始めるどころか、神として祀られることになった。」と。
牛川稲荷の石碑に示される大神の一群はその証左で有ったのだ。
織物産業の発祥地生衣(ウブギヌ)神社が三ケ日にあり、機織りを行う服部神社や環繰(ワクグリ)神社が一宮にあるのは、彼らが五穀、百工の先進技術をもたらした地を証明するものである。 彼らの船団は西から黒潮に乗って、海を押し渡って来た。 前代未聞の宝船であり、米俵と金銀財宝の御利益を弥生の神都にもたらした七福神であった。
5.4. 徐福の後裔について
史記より後に書かれた正史"三国志"の呉書孫権伝に徐福が辿り着いた地についてさらに具体的な記述がある。
「呉の孫権は将軍衛温と諸萬直を派遣し、武装兵1万を率いて海を渡り夷州と檀州(センシュウ) へ向かわせた。檀州は大海の中にあって、老人達が言い伝えるところでは、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、童児と童女数千人を引き連れて、海を渡り蓬莱の神山とそこにある仙薬とを捜させたとき、徐福達はこの島に留まって帰って来なかった。 今では代々その子孫が伝わって数万戸にもなり、その州に住む者が時々会稽にやってきて、布を商ったり、逆に会稽郡に住む者が大風にあって漂流し、檀州に着く場合もあるという。 しかし此の州ははるかな遠方にあって、結局捜しあてることができず、ただ夷州の数千の住民をつれて帰っただけだった。」徐福が上陸した地は檀州であるという。 檀州(センシュウ) は参州が聞き間違えられたものであろう。 また、三河御津は船洲とよばれていた。 つまり、徐福が上陸したところは参州三河のことであったと推定される。
尾参郷土史の孝霊天皇の項には、「天皇之72年に秦人の徐福が木の国牛間戸の湊に来り、転じて参河の宝飯郡海辺御津浜の六本松と称する所に上陸す。 其の風景の美、肥沃の地なるを喜び居館を築く。 徐福は秦始皇帝を欺き玉布、金銀、童男、童女を具し官位は古座侍郎の高官たれば、三河に来たりても富み栄え、我が民族もこれを尊敬し恵を蒙ること多く、其の随行の童男女、成長して居民となり、秦氏を称す。 これ東参に秦氏の多き所以なり。 この民族は長山神社を建て天長地久を祈り、・・・中略・・・随行の童男女は、悉く三河に居住せしも、移民を隠さんとして、遂にその家系を失うに至れり」、とあった。
参考
牛窪記(抜粋):東三河豊川市・牛久保熊野神社の徐福伝説
著者未詳。牛久保牧野氏を中心とする合戦及び社寺の記録。
成立年代未詳。神宮文庫所蔵。
牛久保の熊野神社の由来は、徐福伝説とイザナミ神がもととなっている。
徐福と徐市が別人となっており、徐福は熊野に、徐市は富士に、徐福の孫である古座侍郎が、紀州古座から東三河に移り住んだと伝えている。
しかし、三河一宮本宮山の伝承では、熊野を移すとし、熊野本宮と呼ばれたとの記述がある。つまり、徐福自身が移り住んだ可能性を秘めている。
1)「ココニ東海道三河国宝飯郡牛久保之庄者、往昔秦氏 熊野権現ヲ常左府長山之郷ニ勧請ス。崇神天皇御宇ニ、紀州手間戸之湊ヨリ、徐氏古座侍郎舟ヲ浮ベテ、コノ国沖ノ六本松ト云ウ浜ニ来ル。礒山続キ、前ハ晴、後者深シ。得一種産百物地ナリトテ、御館ヲ築キ給フ。民屋之族 尊敬シテ恵ミ蒙ラシムルコト甚多シ。徐氏者秦国ノ姓、コノ子孫以秦為氏。
長山之神者 常天地久キ護リ給フ。故ニ庄ノ名モ常左府トイエリ。」
2)故説事 熊野三所大権現之事
「家秘ノ旧記ニ 伊ザナミノ尊 火ノ神ヲ産ミ給ヒテ カン去リ給フトアレバ、是熊野山ノ本主也。」
3)証誠殿相伝ノ事ニ付テ 密義有り。
「一座者 秦国徐氏之霊也。東海扶桑国者神仙ノ嗣系、蓬莱郡彙ノ宮城也ト聞キテ、薬求メン為ニ 艤スルト偽ッテ、ヒソカニ聖典百家ノ書、種々ノ財ヲ数船ニツンデ徐氏一族 併蘭姿伶節ノ童男児女五百人ヲ乗セ、勅ニヨッテ海ヲ渡ル トイヒテ我ガ日本ニ来ル。
徐市ハ 不尽山ニメデ、駿州ニ到リ、徐明ハ 金峯山ニ入ル。徐林ハ 肥前金立山ニ住シ徐福ハ 着岸ノ津 紀州古座ニ止リ 後熊野山ニ入ル。
徐福ガ孫 古座侍郎 三州ニ移リ来ル故ニ、本宮山下秦氏之者多シ。金山権現ハ 牛窪ノ鬼門ニアリ。是モ秦氏ノ祖神 肥前金立山権現ノ同社也。」
6.鳳来寺山と宮下文書の響鳴
蓬莱と考えるべき鳳来寺山の薬師堂には、「薬師如来と、神農、大国主」の3体の木像が保管されているという。(鳳来寺山文献集成)しかも、その由来は不明というから、古代文明を伝える伝承はなくなっても、実証物件だけは、残されて来たようだ。
それだけではない。鳳来寺山の上り口・門谷の渓谷西辺には、子守神社(小室神社の訛伝と考えられる)があり、その御祭神は「国狭槌尊」である。
国狭槌尊は、「宮下文書」によれば、神農比古と一緒に、西アジアから神仙の国蓬莱をめざして渡来してきた皇祖の一行の主宰神である。
国狭槌尊は、神農比古と共に、陸路で先行した国常立尊を追って、海路で蓬莱の国を目指した。佐渡島、富山、若狭、丹波、播磨を巡って、再び北陸地方に戻り、飛騨から美濃、尾張、三河を通って、ついに蓬莱に到着した。
立ち寄ったところをスルガといい、湧き水があって、食料が豊富であった。更に行くとおお海、があり、カキ津の小室に留まり、そこを拠点として国を治めた。
湯あり、湧き水あり、絶好の地である。国狭槌尊らは、この地を雅に称して高天原と呼んだ。不二蓬莱高天原である。この辺りを阿祖谷といい、住んだ処を小室とも言った。
そこへ、陸路を先行していた国常立尊が淡路島に辿り着き、西国を治めていたが、ようやく、蓬莱の地を発見し、再会した。このとき彼らの親神である神農比古は神去っていた。
国常立尊と国狭槌尊は日本を、東西二つに分けて統治することにした。国常立尊は、丹後の桑田に移り西国を治め、国狭槌尊は、高天原と東国を治めることにした。
これらの皇祖神から、代を経て、いざなぎ・いざなみ神が生まれ、更に、天照大神、月読神、スサノオ神が生まれる。そして、天照大神の孫神のニニギ尊から、ヒコホホデミ尊、ウガヤフキアエズ尊を経て、神武天皇という初代天皇家につながって行くわけである。
6.1. 富士古文献の高天原を東三河の地に比定
まず、富士古文献に記されている高天原の存在した阿祖谷のことであるが、古代の名称は、音で考えるべきで、漢字は単なる当て字であることを考慮しなければならない。
「あそ」は、阿祖や浅間とか阿蘇とか記されることがあるが、「阿蘇」は、噴火口を意味すると解釈されている。これは超古代「カタカムナ」文明をとく楢崎皐月氏の解釈するところでもある。
九州の阿蘇山も巨大な噴火口である。しかし、「あそ」が噴火口を意味するのであれば、あそ谷は、火山に関係した地の谷として解釈できる。富士山の麓の谷々もあそ谷と呼んで差し支えないであろうが、日本の各地にある火山の麓の谷々もあそ谷と呼んで全く差し支えない訳である。
このような見方をする場合、愛知県鳳来寺周辺の谷々もあそ谷と呼ぶことは、全く不合理なことはない。というのは、鳳来寺山は、設楽火山の南主峰であり、煙岩山とも呼ばれた。また、三河国総国風土記には、その東南の谷「宇連川=三輪川」には軽石が流れたという記述もあり、油谷温泉という温泉もある。すなわち、設楽火山群は、1600万年前の火山地帯とされているが、実情は、紀元後かなりの時代まで、どこかで熱水噴火を繰り返す、火山地帯だったと考えられる。
宇連川の下流の豊川中流には、麻生田(あそうだ)という地名もあり、作手から鳳来町に流れる巴川流域には「麻生島(あそうじま)」というところもある。「あそ」の地の名残を残している。
この地方の地名で、門谷(かどや)があるが、この地は、鳳来寺山主峰の南麓を指しており、蓬莱寺の寺院群の存在したところであるが、この地こそ地形からみて「あそ谷」と称するに相応しいところであろう。
この門谷には上浦、中浦、下浦など、湖畔の浦に関する地名があり、古代のいつかの時代には、ここに「みず海」があったものと推察される。その北西の地には、杉風呂、森脇などの地名が残っている。この地名の意味するところは、すぎ室、むろ脇であると考えられるのである。しかも、その南辺に宮下という地名があり、そこに子守神社という名の神社がある。この子守神社は、小室神社がなまったものと考えられ、その御祭神が「国狭槌神」であることは、特に意義がある。すなわち、宮下文書に、天竺真郡国から里帰りした「国狭槌神」は、阿祖谷の小室に居を整えたと書かれているからである。しかも、その地は門谷の宮下の地とは、不思議な共鳴である。
なお、子守が小森と同様、小室を意味するということは、出雲の地の小森の由来でも述べられており、筆者の独断ではない。
富士古文書には、湖守りの役があったとされているが、この場合も門谷の湖を守っていたことと、兼ねられていたと解釈できるのである。
富士古文書では、不二山中央小室の穴宮のことが何度も出てくるが、これこそ、鳳来寺山麓の門谷の子守神社と考えられるではないか。
*参考 東三河の新城市は、鳳来寺山の南麓に位置し、出沢、浅谷などの大字があり、そこに、宮下という地名が在って、宮下川が流れている。藤沢の地名と藤原姓がある。
また、福田と言う地名があり、徐福の関連を彷彿させる。
6.2. 鳳来寺山は、太古の富士山か
ところで、鳳来寺山が不二山であるとの直接的な証拠はないものかと、調査を進めていたところ、2つの有力な関連情報が得られた。
一つは、鳳来町三河大野の地に、瑞穂稲荷「不二庵跡」を発見した。いま一つは、鳳来寺山南西を流れる寒狭川(豊川)流域に「布里」という村があり、その上流には、縄文時代の西向遺跡があり、更に、その付近の地名に「古社」「高宗」というところを発見したことである。
まず、三河大野の不二庵のことであるが、「不二庵」はその後、同大野町の名刹「月光山・淵竜寺」に移設されたようだ。この寺も由緒があり、南北朝時代のことが残っている。また、この寺の西辺に宇連川の渕湖があり、ここから竜(大蛇)が現れ、人々を苦しめたため、仏教の高僧が呪力で封じ込めたといういわれがある。
瑞穂稲荷の不二庵は、もっと古いものであったであろうが、その詳細は、不明である。ただ、瑞穂稲荷神社の軒下には、天女の彫像が貼り付けられているので、天女伝説に関係あると思われる。また、この神社の縁から、鳳来寺山の峰が眺められるのである。
それだけでなく、この三河大野には、不思議な地名、社寺、遺跡、地形が残っている。
1)琴森
古代中国の地誌書「山海経」で東経大荒外の章に、夏の舜帝が大荒で楽器を忘れたことを記しており、その楽器は琴と思われることだ。その大荒が鳳来町を表しているようなのだ。 また、仲哀天皇と神功皇后が筑紫に遠征していたとき、神功皇后が神がかって、新羅を攻めるよう神託があったのは、仲哀天皇が琴をひいていたときのことであった。つまり、琴という楽器が呪力をもつと考えられていた。そして、スサノオ命が大巳貴命に、伝授した三種の神宝の一つに、天詔琴(あめののりごと)がある。
琴森は、神社の名前にも付けられていて、鳳来町立東陽小学校の南山中腹に「琴森稲荷神社」がまつられている。琴森は、「このもり」と呼ばれており、「湖の守り」「こもり」「こむろ」に通ずるように思われる。なお、東陽小学校の「東陽」も宮下文書に出てくる原初の人類が分かれ住んだ「東陽」の地を暗示するようで、興味深い。
2)大野神社
大野神社の創立は、古昔となっていて、不詳である。御祭神は建速須佐之男命で、扶桑国三州八名郡大野村総社大明神ともいわれる。また、近隣五県の産土神とも、大野、井代、細川、貝津、下平の産土神・総社明神ともいわれる。
境内社には、服部神社があり、その御祭神はアメノタナバタ姫である。これは、少し下流にある赤引郷から移設合祀されたものといわれる。赤引の絹織物は、その品質の良さが抜群で、太一御用の幟旗を立てて、伊勢の天照大神に献上され「皇室行事で用いられるニギタエ」となるものである。
とすると、アメノタナバタ姫は、天照大神とともに機織りを行っていた織姫・若日女ではなかろうか。スサノオ命は、ウケイで勝ちさびて乱暴狼藉を働き、機屋の屋根を壊し、逆はぎした斑駒の皮を投げ込み、驚いた若日女は織機のヒでホトを突いてみまかった。
そこで、天照大神は、天之岩戸に隠れられ、高天原も葦原中津国も暗闇になってしまったという「古事記」に書かれた神話の舞台が、ここにあったという感触が得られるのである。
なお、スサノオ命がこのとき作っていた田の名前を、口樋田(くちとだ)と日本書記の一書に書かれているが、樋田とか樋野という地名が下流の新城市日吉等に残っている。
3)天橋
大野から赤引温泉に下る県道が、阿寺川を越えるところに、橋がかかっている。この橋の名前は、驚くべきことに「天橋(あまはし)」であった。まさに天竺(あまつくに)の橋を表している。阿の名をもつ地の高天原の一拠点であったのであろう。
出口王仁三郎の著書「霊界物語」の高天原は天教山(つまり日本の中央にあったという古代巨大富士山)に架かる橋の名前を天橋と呼んでいることから、鳳来町大野の天橋はこのことを表しているのかも知れない。
4)旧い家系
大野の旧家は65代続いた大橋家である。大橋という名も天橋を表しているように思われる。
徐福の関連で考えると、中国の徐福直系で現在64代目という家系があることから、大橋家が長寿家系であれば、徐福時代から続く家系である可能性もなしとしない。
5)大野神社のご祭神は国狭槌神
大野神社で併祭の御祭神には、六所大明神と八王子大権現、天王がある。六所大明神は猿田彦命、天王はスサノオ命と解釈されるが、八王子大権現とは、どのような神なのかわからなかった。それが、八名郡誌をみると載っていた。能登瀬(大野の上流の地)の諏訪神社の摂社に国狭槌命が祭られ、八王子権現は国狭槌尊のことと記されていた。つまり、宮下文書で述べられた「天竺真郡国」から里帰りした国狭槌尊が八王子権現であるというのだ。
しかし、宮下文書をみる限り、国狭槌尊は一人であるから、当時その後を継いだ八人の王子も国狭槌神と呼ばれたのかもしれない。
国狭槌神は、高天原から東国を治めたと記されているから、高天原の一部と考えられる三河大野に痕跡があることは納得できることである。更に、八王子の内の誰かは、関東まで来て、八王子市の祖神になったのかも知れない。
国狭槌尊の八王子の名前は、トホカミエヒタメ、と称され、祝詞で読み上げられている。そして、その内のカの神は、ホツマツタエの研究者などからは、古代中国の夏の皇帝になったといわれている。また、トの神は、三河一宮の砥鹿神社の神という説(砥鹿神社誌)もある。
また、安部晴明が保管したと言われる唐の玄宗から入手した「金烏玉兎集」の序に載る牛頭天王と蘇民将来伝説に現れる、南天竺の竜宮姫との間でうまれた子達も八王子と言われている。蘇民将来神社は小坂井の篠束神社の境内社としてあり、伊勢に竜宮があったという伝説もあることから、蘇民将来伝説は、三河高天原の伝承と重なるところがある。
すなわち、牛頭天王は、神農、国狭槌尊と重なるところがあり、それが八王子伝説につながり、日本全国とアジアに広がっていったような感触が得られるのである。
いずれにしても、国狭槌尊の痕跡は、鳳来寺山麓および周辺の地に、濃く広く残されていたのである。
6)貝津と甲斐の関係
大野神社の御祭神が、近隣村(国)の産土神であることを述べたが、その中に貝津という国があることを心に留めおきたい。貝津は「かいづ」「甲斐津」に通じ、宮下文書で、甲斐国の由来が記されているが、甲斐国の古代史としっくりこない問題点となっているのである。これが、三河大野近辺の「かい国」のことであると考えれば、実にしっくりくるのである。宇連川を挟んで、大野の対岸が、大貝津があり、その周辺には、上海津、下海津、東海津、外海津、正木海津、紺屋海津などがある。
海津村の神社は、大当峰神社であるが、そのご祭神は、天照大神とスサノオ神のウケイによって生まれた、三女神と五男神および金山比古と金山比売である。これらのご祭神もも高天原の関連を想像させるのである。
7)大野の遺跡と地形、人脈
大野神社の近くには、縄文時代の「榎下遺跡」がある。土器や石剣などが出土しており、古代からの住居地であったことが分かる。
筆者は1998年11月15日に、この地を訪れたが、大野神社では七五三の祝いの祭りでごったがえしていた。近くにいた人にこの神社のご祭神や由来を尋ねようとしたところ、歴史的なことは、あの人に聞けば良いと紹介してくれた。長老という程の人ではないが、話を聞くうちに確かに、この村の重要人物であると分かってきた。名は大橋さんという。本家は65代続いた旧家であるという。
「この辺りは、湿地だったんでしょうか」と尋ねると、確かに神社境内に池や泉があると、案内して見せてくれた。そして、泉の湧き出る沼地であったという。
「史記」に、徐福は「平原、広沢を得て、そこに王となって留まった」と書かれているのと符合している。
また、富士古文献には、皇祖・神農比古と農佐比古(国狭槌尊)は、湧水、温泉のある小室、中室「カキツ」に留まった、という。そこを雅に称して、不二蓬莱高天原と称した。また徐福の留まったところは、豊葦原瑞穂の国であったという。
つまり、三河大野には、「カキタ」という地があり、瑞穂稲荷神社があり、そこに不二庵があった。天橋と阿寺川が流れ、平原・広沢(広野)と湧水、湖沼、温泉(赤引温泉、油谷温泉)がある。まさに、史記、宮下文書でいう、小室、中室のあった居住地「カキツ」に比定できる。
6.3. 鳳来寺山の地形
鳳来町在住の地質学者・横山良哲氏著「奥三河1600万年の旅」(風媒社,1987.6)によると、鳳来寺山は、かつて、富士山に匹敵する(大きさの)活火山であった(1600万年前)。1999年2月20日に直に横山氏の話を聞くことができたのは、幸運である。
極めて興味深いことは、湯谷温泉辺りで1000メートルも沈下していたと言う。
このことは、既述した鳳来寺山=不二蓬莱山を彷彿とさせるものであった。
鳳来寺山(昭和6年、国指定 名勝天然記念物)の最高峰は、瑠璃山(標高695メートル)で、流紋岩、凝灰岩などから構成され、約2000万年前に激しい火山活動によって、噴き出し、その後の長い間の風化浸食作用によって、こんにちのように複雑で、険しい地形ができ上がったものである。
6.4. 鳳来町と徐福の痕跡
鳳来町を含む東三河が、古代の豊葦原瑞穂国の高天原であったとすると、もっと多く、高天原伝説や徐福の痕跡が残っているはずである。鳳来町宇連川周辺を探索すると、宇連川上流には、鳳来湖があり、鳳の島がある。鶴亀伝説の亀渕川が川合に流れ、そこには縄文時代の人の居住遺跡があった。三河川合には、丹野という地名があり、朱(水銀)の産出地があった。新城市有海から鳳来町の乗本にかけて、盆には放下踊りや「なべづる(つる)」の火送りの行事がある。今少し下流の賀茂町には鶴巻がある。
当地の「ひおんどり」などの、火踊り祭りは、徐福一行が持ち込んだと解釈できる。
富栄と長篠の境には、正福寺川が流れ、鳳寿山・正福寺がある。その一角には、招福稲荷神社があって、蓬莱山弁天島を模した池がある。正福(しょうふく)や招福(しょうふく)は、徐福の中国読みのシューフーに似た発音となる寺社である。
事実、小坂井町には徐福上陸の伝承があり、名社「菟足神社」には、「徐福」の人形を飾って「招福」との札を掛けているのを目撃している。招福稲荷は、徐福が稲を持ち込んだ福神として祭る古い神社であったと思われるのである。
赤塚山の麓からは、布目瓦が出土しているが、中国の徐福村の遺跡から、布目板瓦が出土したという。
また、奥三河に徐福の伝承があるとの記述が発見できた。即ち、神奈川県の神社誌(稲葉博著、神奈川県の古寺社縁起―知られざる伝承・霊験譚S63.4暁印書館発行)に、三河の奧に徐福伝説があるとの情報が見つかった。
6.5. 徐福は超能力者?
鳳来寺山が過去の巨大火山エネルギーを残し持っていたとしたら、中国から日本の蓬来山を「霊視」した超能力者は、鳳来寺山を富士山だと思っても、おかしくないのではないかと考える人もいる。
三河遠州には徐福霊会という会があって、気功の有段者などが会員になっているという。筆者の知らない不思議な話が、東三河にまだまだあるようである。
7.まとめ
東三河は、徐福伝説をもつ三神山を抱えた地であった。 そのうち、鳳来寺山は、古代の巨大火山である蓬莱の地であり、仙人伝説を持っていた。
徐福及びその子孫はこの地に来訪し、定住し、富士古文献を編集した可能性が高い。
つまり徐福一行の定着地であり、蓬莱の国の神都であったことは、確実といえよう。
牛川稲荷の、立石に刻まれた謎の大神の名は、徐福一行が日本で、神となるまで崇められ、後世、守護神として、子孫に祀られた証しであった。
浪ノ上1号古墳から出土した、弥生時代後期の遺物、中国将官用両刃の剣も、徐福一行(あるいは子孫、邪馬台国)に関連するものであったかもしれない。
また、宮下文書の内容は、現在の富士山山麓における史実より、鳳来寺山を含む三神山の地・東三河高天原の史実とよく対応しており、その信憑性が、以前に増して高まったといえる。
以上
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