Facebook・船木 威徳さん投稿記事【 東京大学・医学部生への私の授業 】
私は、都内の小さなクリニックを経営するどうということもない普通の街の医師にすぎません。
そんな私も、縁あって、東京大学医学部の最終学年である6年生の臨床実習の指導を担当させていただいております。(担当は地域医療、特に在宅医療に関して)
毎年100名弱しか入学できない最難関に合格しもちろん、私より、知識も、思考力も忍耐力もはるかに優れたみなさんに何かを伝えるのは正直言って、相当骨が折れることです。
しかし、いまは、私だけでなく私のクリニックの他の医師も、学生さんたちが実習に来るのを楽しみにしています。
私が、学生さんひとりずつに時間をとって教えていることを、特別に、その一部だけ公開いたします。
授業の要点は、「人間の苦しみとはなにか?」ということです。人間の数だけ、人間の痛み、悩みがあるでしょう。ですから、その結果として生まれる「苦しみ」を、端的に定義するのは、難しいことです。
難しいから方法もなく、多くの人たちが、「人に話してもどうしようもないこと」と考えやすく「苦しみとは主観的なもので、医師は、目に見えることしか変えられない。
患者の主観的なものは家族に、なんとかしてもらうしかない。」などと最初から、自分の仕事を控えめにしてしまっているようにも感じます。
スライドにも挙げましたが、私は、つまるところ「苦しみとは、患者の客観(起きている事実)と、患者の主観(想い、願い、価値観など)の隔たり、ギャップから生まれるもの」だと考えます。
患者の客観、例えば、「私は、末期癌だ」というひとつの事実と、その時点での主観「どうしよう、悲しい、助かる見込みはないのか、医者がうそをついているかもしれない、どこかに名医がいるはずだから、なんとかしてもらおう・・・」が、大きく異なるので、そのギャップが大きければ大きいほど、苦しみ、痛みや悩みも大きくなります。
私たち医師や他の医療職は、まず、患者の客観、すなわちありのままの現実を患者の主観に近づけようとします。
早期のガンならそれを取り去ってしまう、骨の変形が神経を圧迫して痛みを生じているなら、そこを削って、神経に触らないようにする。
高血圧症や糖尿病の患者に薬を処方し血圧や血糖を正常範囲に近づけるのもこの「客観を変え、患者の主観に近づける」という行為に含まれるでしょう。
これら、「客観を主観に近づけて隔たりを少なく」する行為を総称して「治療(キュア)」と呼んでいると、私は考えるのです。しかしながら、「キュア」には限界があります。
先に例に挙げた「末期癌」の患者でいうなら客観(事実)は、もはや手術はできない、
抗癌剤も効果は見込めない、数か月のうちに食事も摂れなくなり、事実上の寝たきりになりかねない「だろう」と、評価されていることと言えましょう。
この際、それで、もう苦しみを軽減する、つまり患者の主観・客観のギャップを埋める
方法がまったくないかと言うと、そうではありません。「患者の主観」すなわち、患者の
想い、願い、価値観が変わることをサポートすることで、客観を受け入れやすくしてあげる
という道があるのです。
これを「Care(ケア)」と呼ぶのだと教える研究者がおり、私もその考えを伝えています。
「病気のためにいろいろと失ったものもあるけれどできること、これからリハビリによって、改善しうる力もたくさんあるはず。みんなで、必要なことを教えてあげますし、みんなで支えてゆくから、あきらめないで、~さんのこの目標をまず達成しましょう。」と丹念に伝え患者の主観がゆっくりと変化してゆくのを一緒に寄り添いながら支援してゆくのがつまり「ケア」です。
特に、私が尊敬する「医師」は、この、「キュア」と「ケア」を同時進行で、こなします。
そうはいっても、それがすべての医師にできるわけではない大きな理由のひとつが、「医師は、学校や臨床研修の過程で、『キュア』についてしか教えられておらず、『ケア』に関しては、自己流で学び、自分のものにしてゆくしかないというのが現状である」というものだと私は考えています。
「キュア」のために習得すべき最低限の知識や技術は膨大なものになっています。
私も、主に日本で医学教育を受け、国内の医療機関で研鑽を続けてきた身で言わせて
もらうなら、こなすべき仕事量がどんどん増加する一方で、患者側からの訴訟リスクも
高くなっているなか、いったいどうしたらいいのか?と問いたくなることがしばしばあります。
学生さんたちと話すなかで、「では、『キュア』に並行して、この『ケア』の知識を身につけてゆくにはどうしたらいいのか?」を私はたびたび彼らに問います。
もちろん、ケアに関する研究や教科書もたくさんあることはあります。
ただ、医師同士の「ケアに関しては、ここまでできるようになって当然だね、という『ここまで』というだいたいのコンセンサスさえないのです。
私にも、これが模範解答だ、という答えはいまだありません。
ですが、私が彼らに伝えていることがあります。
「私たちが、生きている以上、常に、苦しみがあるはず。はっきり言って、この地球に生まれてきたこと自体が苦しみだと言えます。
それでも人は、苦しむだけではなく、『考える』ことができます。『考える』力を持っているのです。だれもが、小さなこと、大きなことに悩み、苦しみを感じながら、『考えて』『考え続けて』、そのひとつひとつの苦しみを乗り越えてきたはず。
患者さんも同じです。
患者さんひとりひとりが、自分の苦しみを乗り越えるために、不安や恐れを伴っても『自分自身の主観を変える』ためには、その患者さんが、自分だけで、自分の責任で『考え』なければなりません。
非常につらいことかも知れませんが、自分で『決める』ためには、相当な時間、『考え』なければなりません。
医師として、私たちは、自分のやったこともないことを人に勧めてもなんの力も効果もありません。
『ケア』の力をつけるのに、最も大切なのは私たちが、医師である前に、自分の『苦しみ』から逃げないで、『考え』続けることではないでしょうか。
そして、私たちが『苦しみ』を乗り越えるために、自身の主観を変える上で、最も大切なのは『ひとりで、考えて』、自分の答えにひとりだけで責任を持つ、ことだと私は考えています。」考えてみれば、人が生きている以上、私たちの主観と客観、つまり、自分の「想いと現実」は永遠に完全一致することなどないはずです。
その「想いと現実」のギャップ、すなわち、苦しみを、それぞれの得意な分野で、たがいに減らしてあげ合うのが、「仕事」だと言えるでしょう。
東大医学部を卒業しても、医師ではなく、ほかの職業についたり、会社を興したりするひとも多いと聞きます。
私が、能力と未来の希望に満ちた若い人たちにどうしても伝えたいのは、どんな分野の、
どんな場所にあっても、自分の能力を、存分に「人のために使ってあげてほしい」ということ。
自分の取るに足らない満足や小さな享楽にせっかくの能力を浪費するなど、ほんとうに残念なことでしょう。
苦しみに満ちた、矛盾に満ちた人生を心の底から楽しめる時間に変えられるとするなら自分の力を、他者のために使うよりほかに方法はないから、と私は確信しています。
そして、より多くの力を他者のために使えるようになるためには、『 ひとりで考え続ける 』 ことだと断言します。
私の、かわいい学生さんたちへの授業は以上になります。
~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり
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