https://omouhana.com/2018/01/25/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%EF%BC%9A%E5%85%AB%E9%9B%B2%E3%83%8B%E6%95%A3%E3%83%AB%E8%8A%B1%E3%80%80%E7%95%AA%E5%A4%96/ 【高天原:八雲ニ散ル花 番外】
『日本書紀』神武天皇記に曰く、「高尾張邑に土蜘蛛がいたので殺害し葛城邑に改めた」
奈良県御所市の葛城地区に、神々が住まう天上界「高天原」(タカマガハラ)と呼ばれる場所があります。
神話好きなら、高天原と聞いただけで気分が高まります。
その高天原と呼ばれる場所を訪ねてみると、高鴨家の聖地「高鴨神社」から高台に向かった、金剛山の中腹に広がる高原台地にありました。
そこは大和盆地を一望できる標高の高い場所で、神が大和の民を見下ろすのに相応しい雰囲気を持っています。
高天原を目指して山道を進むと、「高天彦神社」(たかまひこじんじゃ)が見えてきます。
鬱蒼とした森の先にある聖地・高天彦神社。
樹齢数百年と云われる杉の並木道が参道を作り出しています。
高天彦神社の主祭神は「高皇産霊」(タカミムスビ)です。
社名の「高天彦」は「高皇産霊」の別名と云われています。が、高皇産霊は男神ではありませんでした。
高皇産霊は葛城氏の祖神で、天地創造の時、高天原に出現した神だとも伝わっていますが、それも違います。
高皇産霊は別名を「高木神」と呼ばれていますが、彼女の名前は「栲幡千々姫」(タクハタチヂヒメ)と言います。記紀では両者は母娘とされていますが、同一の人物のことです。
参道脇には末社の「三十八神社」がありました。葛城王朝の歴代の王を祀っているそうです。
栲幡千々姫は日本に渡来した「徐福」の母親の日本名であると云います。
徐福の父親は徐猛といい、記紀では「押穂根」(オシホネ)と書かれています。
徐福は二度来日していますが、最初の渡来地、「出雲」から「丹波・丹後」地区にかけての「海家」の地盤には、高皇産霊・高木神を祀る神社はほとんど見られません。
逆に二度目の渡来地である筑後平野一帯には、高木神を祀る神社が数多く鎮座します。
つまり、その高皇産霊を祀る当社は、東征で大和入りした物部族が祀ったということになるのだと思います。
日向神話で語られる「高天原」が、のちに大和に伝わったのでしょう。
境内には明治天皇と神武天皇の遥拝所が設けてあります。
神武は二度の物部東征を一つにまとめ、神話化した創作上の人物です。
社殿の左脇に、うっかり見落としそうになる石碑がありました。
「蜘蛛塚」と呼ばれているそうですが、案内板など何もありません。
土蜘蛛とは日本の先住民で朝廷に従わなかった人々のことです。
日本書記によれば、神武天皇の皇軍は葛のつるで網を作り、 それを覆いかぶせて反抗する土蜘蛛を捕らえて殺したそうで、それでこのあたりを葛城と呼ぶようになったと伝えています。
境内の外に出ると、「鶯宿梅」(おうしゅくばい)と呼ばれる梅の古木があります。
その昔、高天寺で修行をしていた小僧が若くして亡くなります。
師は小僧の死を嘆き悲しんでいたところ、梅の木に鶯がきてホーホケキョではなく、
「初春のあした毎にはくれども あはでぞかえるもとのすみかに」と鳴いたと伝わります。
鶯宿梅からあぜ道のような道を歩いた先にも土蜘蛛に関連した「蜘蛛窟」があるといいます。
ここで左に曲がらなくてはならなかったのですが、僕はまっすぐ進んでしまいました。
柵のようなものがありますが、先に進めます。
小道を進みます。
なんかありました。
「蜘蛛窟」か、と思いましたが、なんだか違います。
ちょっと気味悪くなり、これはいかんと来た道を戻りました。
戻って先ほどの道を曲がると、小さな標識がありました。
しかしその先も、道というか、獣道のようなものがあるばかり。
勇気を出して進むと、ありました。「蜘蛛窟」です。
「そのひととなり、身短くして手足長し。しゅじゅと相類す」
「恒に穴の中に居り。故、賤しき号を賜いて土蛛と日う」
近いところで「葛城一言主神社」境内にも土蜘蛛塚があります。
葛城の笛吹の村で育った大彦は「長髄彦」(ナガスネヒコ)と蔑称で呼ばれました。
葛城で土蜘蛛と呼ばれたのは、大彦の一族や尾張族だったのではないでしょうか。
葛城にある数々の蜘蛛塚は、物部の大和制圧の痕跡だったのです。
高天彦神社帰り際に気づきました。「幸せを呼ぶカエル石」とあります。
天然石に無理やりつけた感のある目が安っぽく感じましたが、慣れてくると意外に可愛い、カエル様でした。
https://omouhana.com/2020/10/13/%e5%87%ba%e9%9b%b2%e3%81%a8%e8%98%87%e6%88%91%e7%8e%8b%e5%9b%bd/ 【古事記・日本書紀ではもう満足できないあなたへ 〜富王家伝承考察への誘い】 より
約700万年前にアフリカに誕生した人類の祖先は、6万年前アフリカを旅立ち、4・3万年前に日本に到達したと云われています。
そこから縄文期・弥生期を経て、今の「日本人」の礎が築かれていくわけですが、その過程で様々な渡来人の移住が行われており、今の僕らの遺伝子はむしろ、4万年前に到達した人類のそれよりも、のちの渡来人の影響の方が大きいと云うことです。
多くの外国人が憧れる日本。
彼らは日本の情景はもとより、質素で勤勉、労を惜しまず質にこだわり、自分に厳しく人に優しい「日本人」そのものに、好意を抱いてくれています。
日本人たる私たちのDNAはどこから生まれたのか。
私たちの根源を記すという「古事記」や「日本書紀」、はたまた「ホツマツタヱ」や「竹内文書」といった古史古伝においても、それに答えてはくれていませんでした。
そんな神代・古代の迷路に迷い込んでいた時、僕は一冊の本と出会いました。
斎木雲州著「出雲と蘇我王国」です。
そこには、神と呼ばれた人たちの、生々しい歴史が記されていました。
-伝承の日本史-
表題にはそう書かれています。
斎木雲州氏の著書は、「大元出版」という地方の出版会社が製作しています。
その大元出版から発売された「出雲と大和のあけぼの」という本は、氏が、各地の古老の伝承をまとめ、真の古代史を発見するという内容になっています。
しかしその根幹は、氏が受け継いだ、古代出雲王家の伝承・口伝が元となっていました。
僕は幸運にも目を通す機会を得られましたが、本書は残念ながら絶版となっており、入手がかなり困難になっています。
僕が最初に手にした、大元出版・斎木雲州氏の著書が「出雲と蘇我王国」です。
本書にて、初めて、氏が古代出雲王朝の東王家「富家」(向家)の伝える歴史の正当なる伝承者「富当雄」(とみまさお)氏の息子であることが告げられます。
当雄氏は死の間際、息子に「真実の出雲史を普及させてくれ」と遺言を残したそうです。
つまり、斎木雲州氏(もちろんペンネームですが)は、当雄氏が伝承してきた真に迫る古代史を受け継ぎ、それを世に広める責を負っているのです。
「出雲と大和のあけぼの」と「出雲と蘇我王国」の2書は互いに補完しあっており、これらを通じで正確に、富家の伝承を推し量ることができるのですが、現在まだ入手できる本書のみでも、かなり歴史の深淵に迫ることが可能です。
2017年に発行された「飛鳥文化と宗教争乱」は、「出雲と蘇我王国」に続く歴史、蘇我王朝からいわゆる聖徳太子の飛鳥時代に及ぶまでが記されています。
本書から装丁が立派になり、お値段も少し上がりました。
大元出版という会社自体も、富当雄氏の息子である斎木雲州氏が立ち上げたものです。
そこには遺言を受け継ぎ、「真実の古代史を普及させたい」という氏の気持ちが現れているのです。
大元出版の書は、斎木雲州氏の著書ばかりではありません。
「勝友彦」氏の「親魏和王の都」は、「魏書」などの中国の歴史書に照らし合わせ、富王家の伝承が正しいことを立証しています。
本書は冷静かつ客観的で、富王家伝承を補完・理解する上で有用な一冊となっています。
(当書は現在、「魏志和国の都」にタイトルが変更されています)
斎木雲州氏の「古事記の編集室」という本は、古事記・そして日本書紀がどういった経緯で書かれたかについて記されています。
日本に限らず、歴史とは常に勝者によって記されてきました。
滅ぼし、滅ぼされたにも、時の事情があるものです。
しかし一部の人たちの浅い名誉を守るために、未だ偽りの歴史を、「神話」という作り話で押し付けることはあってはなりません。
麗しい日本人の「大和の心」が失われつつある昨今、私たちがどのように生まれ、育まれてきたのか、魂の根幹を知らなくてはならない時に来たのではないでしょうか。
僕は富家の伝承地に足を運び、拙くも考察を重ねてきました。
するとそこには世界中の人が憧れる、麗しき日本の姿が目に浮かんできたのです。
今一度、大元出版本を読み返し、校正したのちに、下記にリンクを貼ります。
記紀では満足できなくなったあなたに、御一見いただけますと幸いです。
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