http://yahantei.starfree.jp/2019/01/31/%e8%95%aa%e6%9d%91%e3%81%a8%e8%8b%a5%e5%86%b2%ef%bc%88%e4%ba%8c%e9%a1%8c%ef%bc%89/
【若冲と蕪村の「蝦蟇・鉄拐図」】 より
若冲は「名遂(と)げぬ。事畢(おわ)りぬ」(「碣銘」)の、「釈迦三尊像」(三幅)そして「動植綵絵」(三十幅)完成以後の五十代、六十代の作品は多く残らない。
明和七年(一七七〇)十月、父の三十三回忌に当たり、その三尊(三幅)および綵絵(三十幅)の寄進の全てが終わる(「位牌銘」)前年(明和六年=一七六九)六月十七日の相国寺の「閣懺(かくせん)」(相国寺三門で行われる儀式)に合わせ、これらの全てが方丈に掛けられ、一般の人々も、その全貌を知るに至ったのである。
この年(明和六年=一七六九)に、これが若冲の作なのかと疑うほどに、何とも奇妙奇天烈な、ユーモアに溢れた水墨画の「蝦蟇・鉄拐図」(双幅)を制作している。
この若冲の「蝦蟇・鉄拐図」は、光琳の「蹴鞠布袋図」に想を得たのではないかとされている(「日本の美術9(NO.256)伊藤若冲(佐藤康宏稿)」)。
この「蝦蟇図」の月遷浄潭の賛は、「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」、「鉄拐図」の寂照の賛は、「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙。泉南叟書」。
月遷浄潭(じょうだん)は、海雲山法蔵寺住持(黄檗僧)で、この明和六年(一七六九)に没している。また、泉南(せんなん)叟は、「平安人物志」(明和五年版)に出て来る「学者・書家」の「釈寂照(号)・泉南(字)」で、若冲と親交があったのであろう。
「蝦蟇図」の蝦蟇仙人(劉海蟾=りゅうかいせん)、そして、「鉄拐図」の鉄拐仙人(李鉄拐=りてっかい)は、中国の仙人で、不老不死の術を修めた、超人的な能力を持つ人々である。
蝦蟇仙人は、三本足の白いカエルと共に描かれ、このカエルは「青蛙神(せいあじん)」との別名で、この青蛙神が訪れると幸運・金運に恵まれるなどの伝承がある。
一方、鉄拐仙人は、物乞いの体を借りて蘇ったことから、破れた衣を着て、鉄の杖を持ち、その口元をすぼめて、自分の分身を吹き出しているポーズなどで描かれている。
さて、若冲が描く右双の「鉄拐仙人」は、実に奇妙奇天烈なポーズで、「杖を両手で握りしめ、顔らしき『顎と目玉二つと鼻ならず口と顎髯』とが、天を仰いで、その天に何やら、その分身の杖を持っている河童らしきものが描かれている」。これに賛する「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」。この「泉南叟書」とは、「泉南叟=釈寂照」の「書(賛)」で、この「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」とは、「この何とも表現できないような図画の、この気を吐いている仙人は、『獨楽窩(どくらくか)』と自称しているアトリエで、『丹青不知老将至(たんせいまさにおいのいたるをしらず)』なるものを遊印として使用している『若冲居士(仙人)』さんさながらですね」というような意が込められているのかも知れない。
そして、若冲が描く左双の「蝦蟇仙人」は、三本足の「青蛙神」を河童の頭のような禿げ頭に乗せて、その「青蛙神」が天を仰いでいる。その仰いでいる方向に、「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」が書かれている。
この「失魄無依附餓莩尸。元非其質」は、鉄拐仙人にかかわる故事の、「魂を失うて依るべき所なし、一餓莩(ウヒ)の尸(シカバネ)を起し之に附す。元(以前の)其の質(カタチ=肉体)に非ず」(「鉄拐一日老君と約して華山に赴かんとす、即ち其徒に約して曰く我が魂此に在り、若し游魂七日にして返らずんば汝吾が魂と化すべしと、徒母疾あるを以く迅く帰り、六日にして之に化す、鉄拐七日に至りて帰るも已に魂を失うて依るべき所なし、一餓莩の尸を起し之に附して起つという、形跛悪なる是れがためなり)に因っているのであろう。
この若冲の「蝦蟇・鉄拐図」の「鉄拐図」(右双)の基になっているという、尾形光琳の「蹴鞠布袋図」の「布袋」は、日本の「七福神」(恵比寿・大黒天・毘沙門天・弁財天・寿老人・布袋)の一柱で、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれるのが通例である。それを光琳は、その大きな袋を放り投げて、蹴鞠に夢中になっている布袋で、その布袋が、頭上高く舞い上がっている蹴鞠を仰いで構図である。
その日本の「七福神」の一柱の「布袋」を、中国の「八仙人」(呂洞寶=ろどうひん、李鉄拐=りてっかい、鐘離権=しょうりけん、張果老=ちょうかろう、藍菜和=らんさいか、曹国舅=そうこくきゅう、何仙姑=かせんこ)の一柱の「(李)鉄拐」に転回しているのである
その「鉄拐図」(右双)の「鉄拐(仙人)」が吐き出す霊気の中の「分身」が、光琳の「蹴鞠布袋図」の宙に浮いている「蹴鞠」の見立てで、今度は、その「蹴鞠」の如き「鉄拐(仙人)」の「分身」は、「蝦蟇図」(左双)の「蝦蟇仙人」(河童頭のみ表示されている)と転回し、その「蝦蟇(仙人)」が連れ歩く「青蛙神」(三本足の蝦蟇)が、「蝦蟇仙人」の頭上で、天を仰いで、光琳の「蹴鞠」ならず、月遷浄潭の賛の「失魄無依附餓莩尸。元非其質。人争得知。海雲山人形賛書」を仰いているのである。
これは、光琳の「蹴鞠布袋図」と若冲の「蝦蟇・鉄拐図」との見事な連携プレーで、蕪村の俳諧の世界でするならば、見事な「付け合い」ということになる。
さらに、この若冲の「鉄拐図」(右双)の、若冲の「図」とそれに賛する寂照の賛「露形遙至無為境。吐気獨遊不老仙」とは、俳諧(連句)の世界でするならば、発句(若冲「図」)に対する、脇句(その発句を受けての挨拶句の趣)の「賛」という雰囲気である。
そして、この若冲の「蝦蟇図」(左双)は、右双の「若冲図・寂照賛の『鉄拐図賛』」に対して、その「鉄拐図賛(若冲図と寂照賛)」に比しての、「蝦蟇図賛(若冲図と月遷浄潭の賛)」の、この「青蛙神」(三本足の蝦蟇)が見上げている、月遷浄潭の賛の「失魄無依附餓莩尸。元非其質」(魂ヲ失イテ依ルトコロ無シ、餓死シタル屍ニ附ク、元、其ノ質ニ非ズ)という、この月遷浄潭の賛こそ、これら一連の図と賛との「結句」のように思われる。
それは、「肉体は無になっても、魂は無にならない」というようなことを暗示していて、これらのことを、光琳の「蹴鞠布袋図」と若冲の「蝦蟇・鉄拐図」との関連に当て嵌めて見ると、「光琳の『蹴鞠布袋図』の魂は、若冲の『蝦蟇・鉄拐図』において、その形状は消えていても、その魂は生き続けている」ということになる。
事実、若冲は、天明九年、改元して、寛政二年(一七九〇)の、七十五歳の晩年に於いて、光琳が得意とする金壁障屛画の如き「仙人掌群鶏図(さぼてんぐんけいず)」(襖六面・紙本金地着色・各一七七.二×九二.二cm)として結実して来る。
(若冲「仙人掌群鶏図」)
さて、蕪村には「蝦蟇・鉄拐図」と題する作品はない。ただ、蕪村の丹後時代(宝暦四年=一七五四~同七年=一七五五)の作「十二神仙図」(六曲一双)の一扇(面)に、「蝦蟇(仙人)・鉄拐(仙人)」を描いたらしきものが残っている。
これらの各扇(面)の「押絵貼(おしえばり)」で描かれた人物の特定は難しいが、その右隻の第三扇(面)は、「右側は足が悪いながら魂を自在に離脱させた李鉄拐(りてっかい=鉄拐仙人)、その隣は左手に桃を持ち右手に銭差しらしき紐を握ることから劉海蟾(りゅうかいせん=蝦蟇仙人)」と鑑賞しているものもある(『与謝蕪村―翔けめぐる創意(MIHO MUSEUM編)』図録所収「作品解説」)。
(蕪村「十二神仙図屏風」、右隻=六扇、その第三扇=「鉄拐仙人(右)・蝦蟇仙人(左)」)
この「十二神仙図」の右隻の第三扇(右から三番目)、これが蕪村の「「鉄拐仙人(右)・蝦蟇仙人(左)」である。鉄誘仙人の口から吐き出される霊気の中には、その分身は描かれていない。それは、おそらく、その分身が戻るべき肉体が焼かれて、飢え死にした肉体に宿って再生したということを暗示しているのであろう。
また、蝦蟇仙人には、三本足の「青蛙神」は居らず、代わりに、不老不死や邪気を払う蟠桃(ばんとう)と金運を象徴する銭差しを持っている。これらも中国または日本の版本(絵手本など)から示唆を受けたものなのであろうが、蕪村の趣向というのが窺える。
ちなみに、この「十二神仙図」は、享保五年(一七二〇)に刊行それた大岡春卜の『画本手鑑』に掲載されている図と類似するものがあるとの指摘がある(『南画鑑賞(八―十、一九三九年)所収「蕪村の画系を訪ねて(人見少華稿)」)。
この大岡春卜は、若冲の最初の師とされ、若冲も、この大岡春卜の版本などから多くのものを学んでのであろう。若冲自身は、「狩野氏ノ技ヲ為ス者ニ従ヒテ」と、春卜その人の名を明らかにはしていないが、続いて、若冲は、「不如舎(舎=捨テルニ如カズ)」と、全てを断ち切り、「周(アマネ)ク草木ノ英(エイ)、羽毛虫魚ノ品(ヒン)、ニ及ンデゾ貌(カタチ)ヲ悉(ツク)シ、ソノ「神」ニ会シ、心得テ手応ズ」と「物」を「写実」することを基本に据える。
一方、蕪村は、「吾に師なし、古今の名書画をもって師と為す」と、画道において終生師として仰ぐものを持たなかった。ただ、目標としていた画と俳(俳諧)との二道の面において、当時、京都在住の、その先駆的な一方の雄であった彭城百川を慕って、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、十年余に及ぶ関東遊歴時代に終止符を打って上洛して来たという事実は紛れもないことであろう。しかし、その百川は、蕪村が上洛した翌年(宝暦二年=一七五二)八月二十五日に、その五十六年の生涯を閉じてしまうのである。
この百川の逝去が一つの動機となっているのだろうか、その逝去の二年後、宝暦四年(一七五四)の春か夏の頃、百川も嘗て足を止めていた丹後の宮津へ移住し、百川が標榜していた「売画自給」(画業で自立する)の実践の途を決行することになる。この時、蕪村、不惑の齢の一年前、三十九歳であった。
上記の「十二神仙図屏風」は、蕪村が不惑の齢を迎えた、その翌年(宝暦五年=一七五五)の頃の作であろうか。この掲出の右隻の第四扇と第六扇とに、杜甫の詩に由来する「丹青不知老(将)至」(丹青=画ハ将ニ老イノ至ルヲ不知=知ラズ)の遊印(好みの語句などを彫った印)を捺している。
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