病からの気づき

Facebook・工藤清敏さん投稿記事  病気の法則

1. 病気は否定的な思考から生まれる

2. 病気は生きる意味を失っている状況で生まれる

3. 病気は否定的な感情から生まれる

4. 病気は愛や思いやりや感謝の不足から生まれる

5. 病気は親、妻、夫、子供、家族、仕事の関係者など身近な人との関係から生まれる

6. 病気はミネラル不足、塩不足、野菜・果物不足、光、酸素不足、食べ過ぎ、化学物質添加物、クスリから生まれる

7. 病気は思い込み、刷り込みから生まれる

8. 病気は自然から離れてたために生まれた。

このような状態が、肉体に結果をつくる。

悪い菌がついたから、病気になったわけではない。

病気になって、身体の振動が変わったので、その振動に共鳴する菌がやってきただけ。

このような結果、悪玉活性酸素が遺伝子を傷つけて、酸化と体温低下が起きただけ。

まず、最初は、だるさ 痛み 吐き気

細胞さんと常在菌さんは訴える。

なぜ、病気の部位は人それぞれ違うのか?

それは、否定的思考、否定的感情の種類によって違います。

部位には、それぞれの周波数があります。その周波数と共鳴する思考と感情があります。

病気になるというのは、自然が持つ周波数とは違う周波数をその人が思考や感情でつくっているということです。

それはあたかも、快適な音楽と騒音のようなものです。

主人は知らず知らずに、不協和音の、釘でガラスを傷つけて出すような音をしょっちゅう細胞さんや常在菌さんに聞かせるようなことをしてしまうのです。

心配や不安は99%必要ありません。

怒りも悲しみも90%は自己中、エゴ。

自分の能力、才能不足も自分で自分を洗脳した結果。

できると信じて自分の才能を引き出す、100回上手くいかなくてもやるだけ。

あれが危険、これが危険 という意識にとらわれない。

添加物が悪い 砂糖が悪い 農薬が悪い クスリが悪い 放射能が悪い 菌が悪い

危険だとか悪いという言葉で生きない。

それ以外にいいものはあり、安心なものがある。

安心でいいものを選んで幸せな感謝の念で生きる。

そんな世界を自分の心の中につくる。

病気になる人は、いつの間にか、まるで わざと 否定的な世界に突っ込んでいく 笑

その波動の中でグルグルと否定的思考を巡らせ、否定的感情に包まれている。

まあ、過去の否定的体験が邪魔してるんだが。

まあ、病気もたまにはいいもんです。笑

それで気づくこと多いですから。

否定的思考に突っ込んだ自分が懐かしく感じるはず。

ああ、僕の思考もグルグルしてきたみたいです。笑


Facebook・清水 友邦さん投稿記事 「病気にはどのような意味があるのか」

「病気は学びであって魂が成長をとげる為に必要なレッスンなのだ。」というニューエイジ的な考えがあります。

しかし、病気の原因を精神的な側面にだけ還元してしまうと、行き過ぎた自己批判をもたらすことがあります。病気になったことで自分を責めてしまう人がいるのです。

たしかに病気の原因には感情的、精神的な側面もあるでしょう。ですが、それは数多くある神話の一つにすぎません。

病気にどのような意味があるのか単純に決めつける事はできません。

以下、ケンウィルバーの「グレース&グリット」から引用

1.キリスト教原理主義

病気は基本的に、何らかの罪にたいして神の下したもうた罰である。病気がひどいものであるほど、その罪は言語道断なものということになる。

2、ニューエイジ

病気は学びだ。あなたが病気になったのは、あなた自身の霊的成長と進化を続けるために、そこから学ばねばならぬ重要なことが何かしらあるからだ。精神だけが病気を起こす。それを癒せるのも精神だけだ。

3、西洋医学

病気とは基本的に、生物物理学的要因によって生じる生物物理学的混乱である(ウイルスからトラウマ、遺伝的傾向や環境における引き金となる要因まで)。あらかたの病気では、心理的または霊的な治療について悩む必要はない。なぜならそういった非正統的療法は、通常役に立たないし、実際、適正な医学的治療から患者を遠ざけることにもなりかねないからだ。

4、カルマ理論

病気は悪いカルマの結果である。つまり過去世での何らかの非道徳的な行為が、現世において病気という形となって実ったのだ。病気は過去の悪行のあらわれとしては「悪い」ものだが、病気のプロセスそのものが、過去の罪を燃やし尽くし、きれいにするという点では「いい」ものだ。つまりこれは浄化なのだ。

5、心理学

ウッディ・アレンいわく、「怒ったりなんかしないさ。そのかわりガンになるんだ」。これは、少なくともポップ心理学においては、抑圧された感情が病気を引き起こすということを意味している。つきつめると、病気は死の願望ということになる。

6、グノーシス派

病気は幻影だ。現象宇宙は夢であり影であり、幻影の世界から自由になるとき、人ははじめて病気からも自由になれる。それは夢からの目覚めであり、幻影の宇宙を超越した「ひとつ」のリアリティを探すときでもある。〈スピリット〉だけがリアリティであり、〈スピリット〉の中に幻はない。

7、実存主義

病気それ自体には何の意味もない。したがって、それに付与する意味は個人が自由に選ぶことができ、当人はそうした自らの選択に責任を負えばいいだけだ。人は有限にして死すべき存在であり、病気を自らの有限性の一部として受け入れることだけが、正しい態度だ。たとえその病気に個人的な意味を付与しているさなかにあっても。

8、ホリスティック医学

 病気は身体的、感情的、精神的、そして霊的な要因から成り立っている。そのいずれも分けて扱うことはできないし、無視することもできない。治療には、これらすべての次元が含まれるべきである(だが実際には、これがしばしば「オーソドックスな治療の回避」と読み替えられる。たとえそれが助けになるかもしれないとしても)

9、魔術

病気は報いである。「わたしは病気になって当然だ。なぜなら誰それが死ねばいいと思ったからだ」「あまり優秀であってはいけない、きっと何か悪いことが起こるぞ」などなど。

10、仏教

病気はこの現象界にあって、回避しがたい出来事だ。なぜ病気があるのかを問いかけるのは、なぜ空気があるのか問いかけるようなものだ。生、老、病、死はこの世の現象である。これらの現象はみな移ろい行くもの(無常)であり、苦であり、また誰にでも公平に訪れるものとして位置づけられる。悟り、すなわち涅槃を純粋に覚醒することによってのみ、病気は究極的に乗り.越えられる。なぜならそのとき、この現象界そのものもまた超越されるからだ。

11、現代科学

病気が何であれ、それには特別のひとつ、ないしいくつかの理由がある。それらのうちのいくつかは必然的であり、その他はランダムないし純粋な偶然による。どちらにしても病気には何の「意味」もない。あるのは偶然と必然だけだ。

引用終わり 

 病気になると自分になにか落ち度があったと、自分をせめることがあります。

しかしあらゆる生物が病気になります。

病気になった動物や植物も心がけがわるかったのでしょうか?

仏典によるとゴータマ仏陀は鍛冶屋のチュンダに出されたスーカラ・マッダヴァという料理を食べてから、酷い下痢に悩まされました。

「スーカラ」は野豚「マッダヴァ」は柔らかいと訳されるところから仏典を文字通りに受け取れば、仏陀は豚肉を食べて食中毒になったようです。

仏陀が豚肉の食中毒で死んだのでは体裁が悪いです。「スーカラ・マッダヴァ」がキノコだとする説も有力ですが二千五百年前の昔のことなので定かではありません。

いずれにしても仏陀は神通力で回避したり、たちどころに病を回復させたりはしませんでした。

結局、ゴータマ仏陀はクシナガラで痛みと苦しみの中で息絶えたのです。

 聖ラーマクリシュナは、喉の激しい痛みのある喉頭癌で死去しました。ラマナ・マハリシは夜間、村中に響く声をあげて苦しみ、それが続いたのち胃癌で亡くなりました。同じくインドの覚者ニサルガダッタ・マハラジも癌で死去しています。

 聖フランチェスコは血を吐き、痛みとひどい苦しみの中で息絶えました。聖ベルナデッタはルルドの泉を掘り当てましたが自身の病気に奇跡は起きませんでした。最後は骨の癌か結核により35歳で亡くなっています。

 クリシュナムルティは膵臓癌でこの世を去りました。癌と知ったとき「私はどんな悪い事をしたのだろう」と彼は呟きました。 クリシュナムルティは病院でモルヒネと点滴を受けながら一人の人間としてこの世を去りました。

 病気で亡くなった聖人は山ほどいます。

中には聖人が罪人と同じ病気で死んでは困ると考える人々もいました。そこで、解釈も山ほどあります。

いわく「前世で犯した罪やカルマを相殺したのだ」

「まわりの人のカルマを引き受けたのだ」

まるで聖人はカルマを吸うスポンジのようです。

「苦痛の中でも神を失わないことを教えるために方便として病気になった」

「最後に自我を焼き尽くす為にわざと病気になったのだ」

「病気で死んだのは彼らは真の聖人ではなかったからだ」などなど

 解釈はともかく「こころがリラックスしていれば病気にならない」

「病気になるのは心に問題があるからだ」など病気の原因を心の問題に特定してしまうのは、かならずしも正しい考え方とはいえないでしょう。

何れにしても、悟った聖者もそうでない人も物理的な肉体は例外なく公平に朽ちていくのです。