ちょっと足をのばして 出流 魅惑のワンダーランド

http://tochigi-edo.jp/article/%E9%AD%85%E6%83%91%E3%81%AE%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E5%87%BA%E6%B5%81 【ちょっと足をのばして出流 魅惑のワンダーランド】 より

栃木市内から30分ほど車を走らせると、切り立った岩山群が見えてきます。道は真っ白。このエリアは江戸時代から石灰の産地として知られ、石灰工場が点在しているためです。そして、そこを抜けると、市民に愛されるそば処「出流地域」があります。

出流そばは、出流山満願寺の門前蕎麦として発展しました。出流山満願寺は日光輪王寺を開いた勝道上人によって765年に開山されたと伝えられる名刹で、古くから参拝者で賑わいました。今も山道沿いには7軒の蕎麦屋が並び、こだわりの蕎麦でお客さんをもてなしています。

また、出流山満願寺の禅体験や滝行など、他では味わえない和の体験プログラムも人気です。 「魅惑のワンダーランド・出流」は、ちょっとディープな人気上昇中のスポットです。.

一升そば

「一升そば」や「五合打ち」は、伝統的な江戸そばを受け継ぐスタイル。盆ざるに豪快に盛られた蕎麦を5~6名で楽しもう。(出流観光会/全店で提供)

古江戸そば

御膳味噌と鰹節の旨味を煮出した、江戸の垂れ味噌で味わうそば。くるみ、味噌、かつお節を混ぜて焼いた焼き味噌を溶かしながら食べるのも美味。(福寿屋)

そばしるこ

そばまんじゅうのお汁粉。もっちりとした食感で、そば湯とつぶあんのハーモニーが絶品。(いづるや)

出流そばはまさに伝統的な江戸そばです

そばのルーツは、寺や神社にあります。江戸前期(1600年代)までは、そばは寺社で僧侶や貴族が食べるもので、当時の汁はまだ垂れ味噌でした。それが江戸中期(1700年代)になると、出汁やしょうゆの技術が進歩し、砂糖も流通して、「つゆ」が生まれ、町人がそば屋で食べるものに発展をとげました。これがいわゆる「江戸そば」です。深大寺、戸隠、出雲といった有名な寺社がある地域にそばが発展したのは、そうした歴史と無関係ではありません。出流の満願寺も同じで、寺の周辺においしいそば屋が並んでいるのは江戸時代からの伝統なのです。しかも、冷たいそばをざるに盛った「盆ざる」、大ざるに盛った「一升そば」といった出流そばの特徴は、まさに昔のそばの名残といえるでしょう。いにしえのそばを味わいに、出流に旅するというのも、なかなか趣深いのではないでしょうか。


蕎麦咲いて空に接するところかな 五島高資

蕎麦咲いて空へ連なるところかな  高資


Twitterの投稿記事と重なりました。

記事のように在ると「空」に出会うのかもしれません。 

ケン ウィルバーbot @KenWilber_botJP

あなたの深い「自己」は、善も悪も受容する。したがって、起こることはすべて受容せよ。善も悪も平等に抱擁するのだ。こうすることによって、あなたはエゴを超える。(p.310)


五島高資  二項対立を超える空ですね!!


http://bb-asuka.jp/sub-12.htm 【Zazen】

鎌倉時代より伝わる禅宗の一派です。

坐禅は「天地吾と同根万物吾と一体」の境地を理想としています。己を取り巻く環境と自分自身の深い心とは根源的につながっているという自覚を得ることにより、生きがいのある人生を送れるのだと主張します。坐禅の実践をすればそのことが体感できます。

禅語に「一心生ぜざれば万法咎無し」と言う。元来、人間と大宇宙は一体 のものであるが、人間に自己という意識が生じたときから、この世界は迷いの 相対世界となった。この意識のために主観と客観が分かれ、自己と世界が対立 する事になる。これが迷いの根本であり、ここに立脚したすべての思想は果て し無い迷路に陥る事になる。そして人間は、直接的に世界に対することをせ ず、言葉(概念)を通して世界に接するようになったため、元々は何の矛盾も ない世界が、人間には苦しみや不安に満ちたものとして見える。そこには生と 死の対立があり、そのため私たちは死後の魂の有無に迷うことになる。又、言 葉を通して観た世界には自己と世界、禅と悪、苦と楽、迷い悟り、男と女、有 無、上下、左右・・・・・と無限の対立した事象が成立する。しかし、本当は この世界のどこにもそのような区別はない。ちょうど地球上のどこにも国境線 など無く、ただ地図上にだけそれが書かれているように、それらは人間の心の なかに言葉(概念)としてだけ存在する。

坐禅とは、この言葉の渦巻く心を静めて自己と世界の元来の一体性を取り戻し、本当の自己に出合うための行為である。

もしかしてそれ故に客観描写を 大事にする俳句の立場があり 一人一宇宙といわれるほど異なりユニークな存在としての吾に客観描写など不可能とする立場が生まれるのでしょうか?

二つの立場の相克を埋めるためのキーは集合無意識へのアクセスと言えるのかもしれません。

吾と集合無意識をできるだけ一致させるほどに 独りよがりのエゴから解放されることになるのでしょうか?

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