https://ameblo.jp/takatoshigoto/entry-12632205240.html 【俳句の未来】 より
「俳句の亡びない限り日本は亡びないと思うものである」という寺田寅彦の言葉がある。このことは即ち「俳句が亡べば日本は亡ぶ」ということである。
そう言われてみれば、かつて日本が世界第一位の経済大国に躍進した頃の内閣総理大臣・中曽根康弘氏は俳句に造詣が深かった。また、バブル経済破綻後における日本経済再生の糸口を掴みかけていた小渕恵三首相もまた俳句をものしていた。ところが、数々の失態を重ねて世論調査の支持率も二桁を割り、今や風前の灯火である現内閣の森喜朗首相が俳句を作るとは聞いたことがない(当時)。この文章が出るころにはもしかしたら森内閣は退陣しているかもしれない。(実際そうなった。その後の小泉純一郎首相も安倍晋三首相も自作の俳句を詠んでいる。いずれも長期政権となった。ちにみに、先日、菅義偉首相も自作の俳句を披露した。)それはともかく、寺田寅彦の予言は意味深長である。
もちろん、内閣総理大臣が俳句を作らなくてはならないと言っているのではない。しかし、古代歌謡から短歌を経て俳句へと受け継がれてきた和歌などをはじめとした日本文化の素養が国の最高指導者の人間性に資するところが大きかったことは疑いない。
「まこと」の復活
終身雇用神話の崩壊やリストラの嵐、さては凶悪犯罪の増加など、現在の日本を取り巻く状況はまさに乱世の様相を呈している。もちろん、それは今に限ったことではなく、古代から幾度となく太平と乱世は繰り返されてきた。その乱世の典型である戦国時代において、勇名を馳せた武将の一人である上杉謙信の生き様に私は現代を生き抜く貴重な示唆を見出す。
戦国時代では、血腥い戦闘が繰り広げられる一方で、武将らは、茶の湯、和歌、俳諧連歌などにいそしみ、「文武両道」の精神が重んじられた。そうした風流が貴ばれた背景には、何時死んでもおかしくない合戦を前にして、まさに「文」による精神修養による「生死」を超えた境地に至ることによって、敵と闘う前に自らに勝つ必要があったからなのではないだろうか。若くして真言密教を修し八宗兼学の徒と呼ばれた謙信もまた「文」を戦陣の間に好む教養高き「戦国武将」であった。書道、能楽、茶の湯を嗜み、時には琵琶を奏で、取り分け和歌や連歌には造詣が深かったという。謙信の筆になる五言対句「忠心懸日月(忠心は日月に懸かり)」「孝義重丘山(孝義は丘山より重し)」の双幅軸は、自らを毘沙門天の化身と見なした義将・謙信の高い精神的境地を示すものである。
つらかりし人こそあらめ祈るとて
神にもつくすわかこころかな 弾正少弼景虎
謙信は生涯、一人の妻妾をも持たなかった。毘沙門天に帰依してより、すでに「生死」を超えた謙信にとってジェンダーもまた超克されるべきものであったのかもしれない。このように人間を超えた謙信が軍神の異名を取る所以であろう。こうした和歌などの日本文化を通した精神修養によって私たちの祖先は幾多の苦難を乗り越えてきたのである。
目に見えぬ神の前にて恥ぢざるは人の心の誠なりけり
これは明治天皇の御製である。数年前に、福岡市内の古書店でたまたま見つけた『明治天皇御集』に収録されていたものである。これは大正十一年宮内省蔵版のものを文部省が発行したもので、四十五年の在位期間中に明治天皇が詠まれた一六八七首が収められている。明治三十七年には二八〇首、崩御の年である明治四十五年にも七十三首が詠まれており、いかに明治天皇が和歌に心を寄せていたかが判る。特に明治三十七年は日本の命運を賭けた日露戦争が勃発した年であり、戦争に関わる歌が多く詠まれている。<はからずも夜をふかしけりくにのため命をすてし人をかぞへて><たたかひに身をすつる人多きかなおいたる親を家にのこして>などでは国民を親身に思いやり、一方では<國のためあたなす仇はくだくともいつくしむべき事な忘れそ>と、敵に対しても慈悲の心を忘れなかった大御心こそ明治天皇の威徳であった。ゆえに『明治天皇御集』は単なる歌集に止まらず、五七調定型の力で以て広く国民の精神に仁徳を涵養するものであった。国家元首としての天皇は、大日本帝国憲法や教育勅語を発布するなど日本の近代国家建設に尽力しながらも、日常生活は質素を旨として日本独特の帝王哲学を実践した。近代日本が列強と肩を並べるほどの大国へ発展した陰には、天皇と国民を結んだ古代歌謡から連綿と受け継がれてきた日本の尊い精神文化があったのである。ところが時代は下って、先年のリクルート事件から最近のKSD汚職などにおける政治家や国民のモラルの低下は、まさに「目に見えぬ神」を蔑ろにした恥ずべき不誠実と言っていい。それは目に見えるものしか信じないという物質中心主義と、それを支えてきた主客二元論的固定観念に負うところ大きいと考えられる。
さて、「まこと」の第一は天意と心意の一致である。第二は心意と言行の一致である。この天意、心意、言行の一致があって初めて私たちは「まこと」の精神に立つことができるのである。神代では「明き」「浄き」「直き」の三心一体として「まこと」の精神を捉えていた。和歌や俳諧における有心や無心もまた、この「まこと」の精神に根ざすことによってこそ、その詩的真実が保証され得たのである。古来より天皇や武将が和歌や俳諧に親しんだのは、そこで培われる日本の伝統的精神修養を通して、人心を掌握する「まこと」の精神を獲得せんがためであったのだと思う。和歌や俳諧には、韻律を介して、「まこと」の精神は主客二元論的固定観念を超克する力が秘められていることを現代人もまたもう一度認識する必要があるのではないだろうか。寺田寅彦の予言よろしく、和歌や俳諧における「まこと」の復興が日本の未来に関わっていると言っても過言ではないだろう。
進化と俳句
話は飛ぶが、以前、岸本尚毅氏との対談のなかで、氏は俳句を「プリオン」のようなものだと述べた。プリオンとは、遺伝子であるDNAを持たない蛋白質でありながら、動物に感染して様々な病気を引き起こす。イギリスなどで騷がれている狂牛病やクロイツフェルト・ヤコブ病などもその例である。もともと正常な動物にもプリオンは存在するが、異常プリオンが侵入することにより、それが動物自身の遺伝子に働きかけて、異常なプリオンの増殖が起こり病気が発症すると考えられている。これを俳句に置き換えてみると次のようになる。まず俳句は私たちの目や耳を介して、その言語情報が脳で認識される。つまり、俳句の感染である。感染した俳句は、私たちの脳に作用することによって様々な連想を喚起し、私たちの情動に様々な影響を及ぼす。これが発症である。俳句に込められた作者の詩的創造性が高ければ高いほど発症率は高く、読者の精神に深く影響を及ぼすことになる。そして、その読者が俳人であったならば、感染した俳句によって影響を受けた脳によって再び俳句が創られる。そして、再び俳句は他者に伝播されていくということになる。
この岸本氏が考案した俳句プリオン説は、俳句という詩的創造が読者の連想に依拠する部分が大きいという特殊性をうまく捉えている。まさに、俳句という世界最短の定型詩は、その憶え易さという易感染性を武器にして多くの人々に伝播し、その精神に大きな影響を及ぼしうる恐るべき文芸であるということである。
ただ私は俳句が五七調という定型すなわち日本人の文化的遺伝子を辛うじて保持しているという点において、それはプリオンというよりは、ウイルスに近いのではないかと思っている。狂牛病のプリオンは、それに感染した牛を食することによって、動物種を超えて人間にも感染し脳症を発症することが報告されている。もちろん、ウイルスも異種の動物間において伝播することは知られているが、その場合でも、感染する対象に、そのウイルスに対する受容体がない限り感染は成立しない。例えばネコのエイズ・ウイルスがヒトに感染しないのは、ネコのエイズ・ウイルスに対する受容体がヒトのリンパ球に存在しないからである。
これと同様に俳句でも、それを鑑賞する側に詩的感受性がなければ感染し発症(感銘)しないのは明らかである。まして外国人ともなれば、俳句という日本語の特殊な定型詩に感染しにくいのは当たり前である。彼らは五七調という日本人特有の文化的遺伝子を持ち合わせていないからである。つまり、俳句は五七調という日本人特有の文化的遺伝子を有する最小の詩形式として、日本人に感染しやすいウイルスなのだと私は思う。(今は新型コロナウイルスが問題になっているが、感染される側の感受性あるいは免疫によって、やはりその症状も様々のようだ。)
俳句がプリオンだの、ウイルスだのと言うと何か印象が悪いように思われそうだが、一概にウイルスが悪者とばかりは言い切れない。ウイルスによる一定量の遺伝子の広汎な伝播が生物の劇的な進化に重要な役割を担っているとする学説もあるのである。もちろん、インフルエンザ・ウイルスのように人々を苦しめるウイルスもいるが、逆に遺伝子の運び屋というウイルスの性質を利用した遺伝子治療の開発も行われている。パーキンソン病という難病があるが、これは脳の黒質と言われる場所からドーパミンという神経伝達物質が作られなくなることにより、筋硬直、振戦、寡動などの神経症状を呈して、やがては寝たきりの状態に陥る恐ろしい病気である。私の恩師である小澤敬也教授をはじめとする自治医科大学遺伝子治療研究グループは、人工的にパーキンソン病を発症させたサルの脳に、ドーパミンを産生させる遺伝子を組み込んだウイルスを感染させることにより、ドーパミンを生成させて症状を改善させることに成功した。このようにウイルスは病気を引き起こすだけでなく、難病に対する最先端の治療にも利用されているのである。
さて、話はだいぶ脱線してしまったが、俳句プリオン説あるいは俳句ウイルス説は俳句の未来を考える上でとても重要な視座であると考える。五七調という日本人特有の文化的遺伝子を内在し、且つ短いが故に憶えやすい、つまり脳に感染しやすい俳句は広く私たちの精神に伝播することにより、日本人の精神的進化のカギを握っているのかもしれないのである。 初出 : 2001年「俳句の未来」『俳句界』に一部加筆
諸富祥彦@morotomiyoshi
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