https://pianix.exblog.jp/4473312/ 【セキヤノアキチョウジ(関屋の秋丁字)】 より
セキヤノアキチョウジ(関屋の秋丁字)は、シソ科ヤマハッカ属の多年草です。本州の関東や中部地方平洋側に分布する在来種です。名の由来は、丁字形に花冠をつけ、秋咲きである事から。関屋とは、関所の番小屋の事で、関守のいる家。箱根に多く自生していた事から、ここでは箱根の関屋を指しています。英名は、日本語のsekiya-no-akichoujiと呼ばれます。
シソ科(Lamiaceae Martinov (1820))は、北半球の地中海沿岸や中央アジアを中心に約250属7000種が分布します。日本には約28属90種があります。保留名である新エングラー体系でのシソ科の学名Labiataeは、Labea(唇)に基づいた名称で、戦前は唇形科とされていました。英名ではMint familyと言われるように、香気を持つものが多くあります。ヤマハッカ属(Isodon (Schrader ex Bentham) Spach, 1840)は、日本、中国、ヒマラヤ、東南アジアにかけて96種が分布します。Plectranthus*)やRabdosiaの属名が使われる事があります。
山地の木陰に生える多年草です。茎は細く、四角柱状で無毛か微軟毛があります。枝分かれして高さ30~90cmになります。葉は対生します。長さ5~15cm、幅2~5cmの長楕円形で基部と先の両端で尖鋭形。鋸歯があり、葉裏に細毛、葉柄は0.5~2cm。
花期は、9月~10月。枝先や葉腋から10~20cmの円錐花序を出し、多数の花を付けます。花柄は細く、長さ10~25mmで無毛。花は青紫色で、花冠長は12~18mm。長い管状の唇形で、上唇は4裂、下唇は浅く2裂し舟形になります。文字の丁のような花の付き方をします。小包葉に小斑点があります。萼は5裂し裂片は尖ります。雄しべ4個で、二長雄しべ。果実は小堅果で、長さ1.5mmの球形。
同属のアキチョウジ(秋丁字)は、岐阜県以西に分布し、萼の先が尖らず、花柄に細毛があって10mm以下であることがセキヤノアキチョウジと異なる点です。他に、白花品種のシロバナセキヤノアキチョウジ(白花関屋の秋丁字)Isodon effusus (Maxim.) H.Hara f. leucanthus (Honda) H.Hara があります。
https://kotobank.jp/word/%E9%96%A2%E5%B1%8B-547454 【関屋(読み)セキヤ】
デジタル大辞泉の解説
関所の番小屋。
「人住まぬ不破の―の板びさし荒れにし後はただ秋の風」〈新古今・雑中〉
源氏物語第16巻の巻名。光源氏、29歳。源氏が石山寺へ参詣の途中、逢坂(おうさか)の関で空蝉(うつせみ)と行きあい、往時をしのぶことなどを描く。
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大辞林 第三版の解説
①関所の番小屋。関守のいる家。 「 -よりさとくづれ出でたる旅姿どもの/源氏 関屋」
②源氏物語の巻名。第一六帖。
姓氏の一。
出典 三省堂大辞林 第三版について 情報
精選版 日本国語大辞典の解説
[1] 〘名〙 関守(せきもり)の住む家。関守の番小屋。また、関所の建物。
※蜻蛉(974頃)上「逢坂のせき屋なになりちかけれどこえわびぬればなげきてぞふる」
※義経記(室町中か)七「愛発(あらち)の山のせき屋を拵へて、夜三百人、昼三百人の関守を据ゑて」
[2]
[一] 「源氏物語」第一六帖の名。光源氏二九歳の九月末前後。源氏は石山寺へ参詣の途中、逢坂の関屋付近で、夫常陸介(ひたちのすけ)について上洛する空蝉(うつせみ)の一行と行きちがい、往時を思う。やがて常陸介は死に、空蝉は出家する。
[二] 隅田川の左岸にあった古村名。現在の東京都足立区千住関屋町の一帯にあたる
https://www.rekimin-sekigahara.jp/main/fuwa_no_seki/about/ 【不破関とは】
不破関は672年壬申の乱後、律令体制の整備に伴って(8世紀初め)に設置されました。東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに古代三関の1つとされています。
関の機能については畿内(滋賀県からは大和政権の支配下)に入る侵入者を阻止する目的であると考えがちですが、壬申の乱で大海人皇子が美濃・尾張で兵力を蓄えたことなどから、謀反者などが畿内から東国に逃れるのを防ぐ機能があったと考えられています。
北限の土塁跡の写真北限の土塁跡
不破関の構造については、昭和49年から52年に掛けて岐阜県教育委員会が実施した発掘調査により明らかになっています。西側は藤古川を利用し、三方を土塁で囲んだ約12haが関の範囲になっており北側の土塁は現存しています。
また、東山道に接する形で掘立柱建物群が確認されており、その構造や規模は判明しませんでしたが、この付近に多くの瓦が出土することから、関の中心施設はここに位置していたと考えられています。
不破関は延暦8年(789)年に関の機能が停止されましたが、その後、鎌倉時代には通行料(関銭)を取っていたことも明らかになっています。江戸時代にかけては、歌に詠まれることが多くなり、松尾芭蕉は野ざらし紀行の中で「秋風や藪も畠も不破関」という句を残しています。
http://saigyo.sakura.ne.jp/fuwanoseki.html 【不破の関(岐阜県関ケ原町)】より
メジャーな歌枕
不破の関は、美濃国と近江国の国境にあった東山道の関所で、古代の三関の一つ。壬申の乱の激戦地でもあった。
え~と、結論から言うと、
・延暦八年(789)に不破の関は廃止され、
・関屋は廃屋となり、
・その後、屋根や廂などが荒んできて、
・雨どころか、月の光までが漏れるようになった。
こんな荒涼とした関屋が「不破の関」の代表的な情景となった。
歌はこんな感じで詠まれた
人住まぬ不破の関屋の板庇荒れにしのちはただ秋の風 藤原良経(新古今集)
ひま多き不破の関屋はこの程の時雨も月もいかにもるらん 阿仏尼(十六夜日記)
あられもる不破の関屋に旅寝して夢をもえこそとほさざりけれ 大中臣親守(千載集)
http://blog.livedoor.jp/rh1-manyo/archives/31180631.html 【人住まぬ 不破の関屋の 板廂 ・・・ 他俳句】 より
西暦672年8月3日(旧暦7月2日)、この日、亡き天智天皇の弟大海人皇子(天武天皇)の軍と、大友皇子(弘文天皇)の軍が戦端を開きました。すなわち壬申の乱の勃発した日です。この戦の舞台となった不破の道は現在の岐阜県不破郡関ヶ原町。関ヶ原は古代にも東軍と西軍が相まみえる天下分け目の決戦場になっていたわけです。
人住まぬ 不破の関屋の 板廂《いたひさし》
荒れにし後は ただ秋の風
~藤原良経 『新古今和歌集』 巻17-1601 雑歌中
もう関守が住まなくなった不破の関の番小屋の板廂
荒れ果ててしまったあとは秋風が吹き抜けるばかりだ
藤原(九条)良経は平安末期から鎌倉初期にかけて太政大臣を務めた歌人です。不破の関屋は壬申の乱から3年後の675年に開設され、789(延暦8)年には廃止されてしまいました。荒廃してしまった関所のありさまに歴史の変転をみつめた一首です。さらに、時が下って江戸時代に入ると、松尾芭蕉もここを訪れ、九条良経の詠んだこの歌を踏まえた俳句を残しました。
秋風や藪も畠も不破の関 ~芭蕉 『野ざらし紀行』
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