丹後の伝承|伝説・伝承に彩られる丹後半島

https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/06_vol_107/feature01.html 【丹後の伝承|伝説・伝承に彩られる丹後半島】 より

天橋立は山上から眺めるのが一番よい。波静かな外海の宮津湾と内海の阿蘇海を二つに割いて、白砂青松が延びる。和泉式部の娘、小式部内侍[こしきぶのないし]が『小倉百人一首』のなかで、この地へはまだ行ったことがないと憧憬を込めて詠み、江戸の頃より日本三景の一つとして名高い。その姿は、北側の傘松公園から股覗きをすると天に舞う白い架け橋に見え、南側からは飛龍観といい天に昇る龍の姿にたとえられるが、『丹後國風土記』逸文によると「伊射奈藝命[いざなぎのみこと]が天と地を往来するための梯子で、伊射奈藝命が寝ている間に倒れて天橋立になった」という。

丹後半島一円には神話や伝承が数多く残る。丹後半島の西に間人[たいざ]という町がある。聖徳太子の生母で穴穂部間人[あなほべのはしひと]皇后は、蘇我・物部の戦を避けてこの地に逃れ、後に大和に戻られたので「退座」と呼ばれるようになったという伝承や、聖徳太子の異母弟である麻呂子王[まろこおう]の三鬼の退治にまつわる話も伝わっている。二鬼を成敗し、一鬼を間人近くの「立岩[たていわ]」に封じ込めたという。

また、小野小町と静御前はこの地の出身であるとされ、「丹後七姫」に数えられる。『山椒大夫』の安寿と厨子王や大江山の酒呑童子など、史実もとりまぜて枚挙に暇がない。そして、昔話で親しまれる「浦島太郎」や「天女の羽衣伝説」は、ここ丹後がルーツであるともいわれる。

天橋立を有する宮津市の北、舟屋で有名な伊根町の新井崎[にいざき]には「徐福伝説」が伝わる。地名のイネは稲に通じ、古代に大陸から稲作がもたらされた言い伝えにちなむと伊根町誌に記されている。地形は急峻で幾段にも棚田が築かれている。海を望む切り立った断崖上にその徐福を祀る新井崎神社があった。足元はゴツゴツとした大きな黒い火山岩が重なる海岸だ。町の郷土史家、石倉昭重さんは「ここ新井崎が徐福上陸の地です」と語る。

秦の時代、司馬遷によって著された中国の正史『史記』では、徐福は「斉の国(現在の山東半島の南)の人で、身分は秦の始皇帝に仕える方士[ほうし]」となっている。方士とは呪術や占術、医薬、天文など森羅万象、諸学に通じた者で、なかでも徐福は始皇帝の信頼がもっとも厚かった。始皇帝の命により不老長寿の薬を求めて「童男童女三千人、五穀の種子、百工(さまざまな技術)」を伴い、不老長寿を体得した神仙(仙人)が住む、遥か東方海上にあるという三神山をめざし、船出したという。紀元前219年のことだ。

大陸から海流に乗って徐福一行が辿り着いたのが新井崎だ。「このとき徐福がもたらしたのが稲作技術や鋳鉄の技術、漢方医学や神仙思想です。ここから東方の海に浮かぶ冠島[かんむりじま]と沓島[くつじま]は神仙思想の仙人が住む島です」と石倉さんはいう。そして、『史記』は徐福のその後をこう記している。「…(その地で)王となり帰って来なかった」と。

徐福が実際に新井崎に上陸したかどうかは定かではなく、伝説も日本各地に残るが、石倉さんが強調するのは、徐福が渡来したとされる時期が丹後半島の文化の黎明期(弥生時代)と重なる点だ。丹後半島には、日本海側で最大級の遺跡や、王墓を想像させる古墳が次々に発見されている。網野銚子山[あみのちょうしやま]古墳や神明山[しんめいやま]古墳は「他地域と比べても傑出したもの」という。

峰山町の大田南5号古墳からは、「青龍三年」の紀年銘のある日本最古の鏡が出土している。青龍三年は魏の年号で西暦235年のこと。邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の国に使節を遣わす4年前、つまり邪馬台国以前に丹後国は大陸と交流していた可能性が考えられるという。鉄器やガラス製品など中国大陸の遺物も大量に出土し、丹後国に強大な勢力があったことを示している。

こうして徐福伝説の神仙思想や、丹後半島の歴史をひも解けば、この地に残る伝承との関係が見えてくる。

新井崎は地形が急峻で、僅かな平地に集落があり、千枚田といわれる棚田の景観が広がる。この美しい棚田は徐福がもたらしたという稲作技術の恩恵だろうか。沖には冠島と沓島が浮かぶ。

与謝野町の施薬寺には与謝蕪村の『方士求不死薬図[ほうしふしやくをもとめるず]』が残されている。蕪村が丹後に遊んだ折、徐福伝説を聞き描いたものとされる。

『方士求不死薬図』は六曲屏風一双で、左隻には銭をくくりつけた棒を担ぐ共の者を従えた徐福が描かれ、右隻には網が掛けられた貴重な壼の傍らに座る神仙(仙人)が描かれている。

丹後半島は国内でも有数の古墳・古代遺跡が点在し、伝説や伝承が数多く残る。

(1)和泉式部隠棲地  (2)穴穂部間人皇后伝説  (3)麻呂子王鬼退治伝説

(4)小野小町隠棲地  (5)静御前生誕地とされる  (6)安寿と厨子王伝承

(7)細川ガラシャ幽閉の地  (8)酒呑童子伝説   (9)浦島太郎伝説

(10)天女伝説   (11)徐福伝説

〈丹後七姫とは、穴穂部間人皇后・小野小町・静御前・安寿・細川ガラシャ・乙姫・天女の七人をいう〉

不老不死の仙薬を求めて、東方の海上に船出した徐福一行が漂着したとされる「ハコ岩」と呼ばれる新井崎の海岸。


丹後半島の北端、断崖の経ケ岬から東方の海上に浮かぶ冠島(かんむりじま:右)と沓島(くつじま:左)。ともに神聖な島で、伝説では不老不死の仙境を求めた中国の神仙思想でいう「はるか東方の海上にある蓬莱の国(島)」ではないかとされる。

宇良神社に室町時代から伝わる『浦嶋明神縁起』。宇良神社の由来を解説した絵巻で、浦嶋子が一人舟で釣りをしていると五色の亀が釣れ、亀が美女に変身した。その美女が蓬莱山(常世=不老不死の理想郷=龍宮城)へ浦嶋子をいざなっている場面。


伊根の海岸から望む2つの小島、冠島と沓島は神聖な島。天然記念物オオミズナギドリの繁殖地としても知られる冠島は、伊勢の大神が最初に天降りした場所とされ、伊勢の大神が天に昇っていく時、被っていた冠を残したのが冠島で、靴を残したのが沓島だと言い伝えられている。

二つの島を眺め、海岸沿いに北へしばらく行くと本庄浜という浜に出る。雲龍山[うんりゅうざん]が背後に聳え、筒川という小さな川が流れ込んでいる。それを遡るとのどかな田園風景のなかに宇良[うら]神社(浦嶋神社)の社がやがて見えてくる。昔話の浦島太郎はこの本庄の浜から龍宮城へと旅立ったといわれ、玉手箱や『浦嶋明神縁起』も神社に伝え残されている。

“むかしむかし 浦島は 助けた亀に連れられて りゅうぐう城へ来てみれば 絵にもかけない美しさ”と、童謡や昔話でお馴染みの浦島太郎。神社に古くから伝わるのは、そのルーツとなる浦嶋子[うらしまこ]伝説である。浦島太郎の話は室町時代に成立した御伽草子で、また明治になって巌谷小波[いわやさざなみ]が『日本昔噺』にまとめた。さらに小学校の教科書に掲載され、文部省唱歌や童話となって日本中で親しまれるようになる。物語も時代を経て変化し、教科書や童話のそれは教育的な配慮で、いじめられていた亀を助けたり、礼に報いる感謝の気持ちなどの徳育を折り込んだ内容になっている。

また浦島伝説も日本各地に数多く残る。そのなかでも伊根の地の伝承が発祥とされるのは、『古事記』や『日本書紀』『万葉集』にも登場し、とくに和銅年間に書かれた『丹後國風土記』(713~715年成立)の記述が浦島伝承の最古とされるからだ。『丹後國風土記』は現存しないが、鎌倉時代中期に書き写された逸文には、「与謝の郡、日置の里、此の里に筒川の村あり。この人夫[たみ]、日下部首等が先祖、名を筒川嶼子と云ひき。為人、姿容秀美しく、風流なること類いなかりき。斯は謂はゆる水の江の浦嶼子という者なり…」と記されている。

逸文を現代訳で要約すると、時代は雄略天皇22年(神代478年)の時、雲龍山の麓、筒川庄水の江の里に住む青年、浦嶋子は一人舟で釣りに出て、3日3晩の後に五色の亀を釣りあげる。青年がうたた寝をしている間に亀は絶世の美女に変身し、嶋子は誘われるままに常世へと連れられる。美女の名は亀姫。嶋子は常世で姫と結婚し夢のような3年間を過ごすが、やがて望郷の念にかられて一人帰郷する。亀姫はその別れ際に、決して開けてはならないと注意して玉櫛笥[たまくしげ]を渡す。嶋子が戻ったのはなんと300年後。すでに知る人もなく呆然としてつい玉手箱を開けると、若々しい肉体は瞬く間に天空に飛び散った…。この話を耳にした淳和天皇(在位823~833年)が勅使に命じて嶋子を祀ったのが宇良神社という。

室町時代の『浦嶋明神縁起』の掛幅と南北朝時代から伝わる絵巻で、宇良神社の宮嶋宮司が絵解きをした浦嶋子伝承は、やはり今日的な昔話と多くの点で異なり現実的だ。それは、浦嶋子の祖先と記された日下部首[くさかべのおびと]とは、古代、丹後半島の海岸部を治め、大きな勢力を持っていたとされる海人[かいじん]で、日下部[くさかべ]一族を指す。海人とは漁労だけでなく、海を介して農業や養蚕、鉄などを扱うのに欠かせないさまざまな技術や文化を大陸と交流していた民と考えられている。

そして、宮嶋宮司は伝承の根底に流れるのは「中国の神仙思想です」と指摘する。神仙思想は日本固有のものでなく、不老不死を求める中国の道教の思想である。その理想郷とされるのが遥か東方海上に存在するといわれる常世の国、つまり蓬莱山(龍宮城)である。亀は中国では四霊の一つとして国と国とをつなぐ海神の使いであり、亀姫を仙界に住む神…と置き換えてみると、単なる昔話ではなく、古代の丹後半島と大陸との関係を少なからず読み取ることができるのではないだろうか。

浦嶋子が釣り上げたのは5色の亀。舟に引き上げ、複雑な面持ちの浦嶋子。すぐ上空を舞う鵜は、蓬莱の使者で吉兆を表す。

蓬莱山へとやってきた浦嶋子は蓬莱宮の中へと案内される。上空には天女が舞い、美しい装束をまとった女官が描かれている。この後、浦嶋子は美女の父母に認められ結婚する。

望郷の念にかられ、浦嶋子は故郷へ帰ってくる。あまりの変わりように驚き、洗濯をしている老婆に尋ねる。ついに玉櫛笥を開け、白い煙が出るとともに老人となってしまった。

浦嶋子は筒川大明神として祀られ、遷宮の賑やかなようすが描かれている。参道では田楽が舞われ、広場では相撲が行われている。

(後略)