http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_191.html 【秦の方士 徐福伝説と物部氏の正体(前編)】より
前回の「七夕の謎⑥~七夕の伝播経路と秦の正体~」では、イスラエルから秦の国までの
イスラエル人の移動経路・七夕の風習の伝播経路について解説しました。
そこで、ここからは中国から舞台を移して、日本国内の七夕伝説についても触れていこうと思っているのですが・・・
その前に、どうしても徐福と言う人物について、触れざるを得ません。
そこで、「七夕の謎」というテーマから少し離れ、2回に分けて、徐福伝説についてまとめてみたいと思います。
秦の始皇帝と徐福
前回、紀元前221年に中国の統一を成し遂げた秦の始皇帝は、ペルシャ経由のユダヤ人の可能性がある・・・という事を論じました。
▼紀元前210年の秦の版図
▼秦の始皇帝 政
実は、その秦の始皇帝の時代において、日本の歴史上、超重要な人物が日本に来訪しています。その人物こそが、、、あの徐福(じょふく)なのです!
古代日本に渡来した徐福伝説
徐福(じょふく)とは、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士です。
▼徐福像(新宮市徐福公園内)
彼は、秦の始皇帝に、不老不死の妙薬が東の海の三神山にあると吹聴し、始皇帝の命を受け三千人の若い男女と多くの技術者とともに、古代の日本にやって来たとされている人物です。ここで、徐福について詳しく知らない人のためにも、"中国の歴史書にある徐福伝説"を紹介しておきます。
<史記 「秦始皇本紀」に書かれた徐福伝説>
司馬遷(しばせん)が紀元前91年ごろ完成させた『史記』の秦始皇本紀に、徐福に関する有名な話が記載されている。
それによれば、中国全土を支配し、望むものすべてを手に入れた始皇帝が、不老不死の仙薬を求めていると聞いて、徐市(じょふつ)は「海中に三神山あり、蓬莱・方丈・瀛洲といい、仙人がこれに居る。童男女と之を求むることを得ん」と願い出たという。
(※『史記』では、徐福を徐市の名で表わしている)
そこで、始皇帝は徐市に童男童女数千人をつけて海上に送りだし仙薬を求めさせた。
始皇28年(B.C.219)のことである。
しかし、それから9年を経過した始皇37年(B.C.210)、徐市は莫大な資金を費やして旅立ったにもかかわらず、得るものなく帰国した。
始皇帝は「徐市ら費すこと、巨万を以って計うるも、終に薬を得ず」と大いに怒った。
叱責を恐れて、徐市は始皇帝に対し、「大鮫に邪魔されてたどり着くことができないので、射手を用意していただきたい」と偽りの奏上をしたとされている。
<史記 「准南衡山列伝」に書かれた徐福伝説>
『史記』の准南衡山列伝では、別の話を載せている。
仙薬を求めさせた徐市は帰還すると、「海中の大神は始皇帝の礼が薄いという理由で延年益寿の薬を取ることを許さない。良家の童男童女とさまざまな分野の技術者を連れてくれば叶うと言っている」と報告した。
不老不死の薬を得たい始皇帝はおおいに喜んで、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐市に託して旅立たせた。
徐市は、平原広沢を手に入れ、そこに留まって王となり、二度と帰らなかったという。
上記説明文は「方士・徐福(じょふく)の渡来伝説」より引用
上記の伝説に見られるように、徐福は、都合2回、船出している事が分かります。
二度目の航海以後、徐福がどうなったのかは中国の歴史書には触れられていませんが、
一説には、秦の始皇帝が死んだ事を知り徐福は戻らなかったとも言われてます
さて、一度目の渡航では、莫大な費用を費やしたにも関わらず、徐福は、不老不死の妙薬どころか、何も得ずに帰ってきています。
しかも、言い訳に、「大鮫に邪魔された」とか、とても信用できる話ではありません。
普通なら、首を斬られてもおかしくない状況です。
しかし、秦の始皇帝は、そんな徐福に対して叱責はしたものの、なぜか何の罰をも与えることなく、徐福に二度目の出向を許可しているのです。
いったい、なぜでしょうか?
また、なぜ、始皇帝は、そこまで徐福を信用できたのでしょうか?
ここに、古代史の大きな謎が隠されている訳です。
そうした謎を解くためにも、一度、徐福の出自から細かく見ていきましょう^^
謎の多い徐福の出自
史記の記述には、徐福は、斉の国出身であったと記されています。
斉の国は、山東半島のつけ根の部分に位置する国で、紀元前284年に燕・趙・韓・魏・楚の5カ国連合軍に負けるまで、「東の斉・西の秦」と謡われたほどの大国でした。
紀元前221年に秦が中国を統一するまで、最後まで残ったのも斉の国です。
▼戦国時代
この斉の国は、中国全土から学者文士を招聘(稷下の学士と呼ばれる)して、学府として栄えるほど、学問が盛んな土地柄だったようです。
徐福が、方士(方術に秀でた者・学者・呪術師)であったのも、斉の国の土地柄が影響しているように思います。
この頃の斉の文化としては、上記のようなお国柄であったせいか、意外と、中央アジア方面由来の文化も見られます。
<斉の文化について>
斉は、秦と比べるとかなり東に位置しますが、ペルシャでよく見られる樹木双獣文(騎馬文)のデザインの瓦が見つかっています。
【写真は「国立中央博物館 収蔵品データベース」より引用】
このように、中国の戦国時代において、ユダヤ人の一部が、既に中国東沿岸部まで進出していた可能性は十分考えられます。
それで、史記では、徐福は斉国の琅邪(ろうや)の出身であると書かれています。
この琅邪が何処かと言えば、、、越の国との国境あたりに海沿いの街です。
ところが・・・
最近になって、琅邪のさらに南、、、現在の江蘇省連運港市カン楡県あたり。
昔の国名で言えば、越の国に「徐福村」が存在する事が分かってきました。
この村には、徐福の親族の子孫も存在し、村には碑もあります。
▼「徐福村」の碑 (江蘇省連運港市カン楡県)
▼「徐福の故郷」の碑 (江蘇省連運港市カン楡県)
こうなると、徐福は斉の国出身ではなく、越の国出身である可能性が高そうです。
(ただし、紀元前473年に越が呉を滅ぼすまで、この地は呉の国でもあった)
越の文化と稲作の起源
ここで、斉から離れて、徐福が生まれた可能性の高い、越の国の文化について考えてみたいと思います。
実は、この越の国、、、ある意味、昔の日本と非常に似ているんです。
例えば、「荘子」によると、当時の越の人々は頭は断髪で、上半身は裸で、入れ墨を施していたと書かれています。(下図参照)
▼越人像(浙江省博物館蔵)
実は、この像に見られるような入れ墨は、魏志倭人伝の倭人条に見られる"鯨面文身"と全く同じです。
<魏志倭人伝 倭人条>
男子は大人も子供も区別なく皆が顔と体に文様を描いている(「鯨面文身」)。
夏王朝の小康がこのようにして蛟龍の害を防いだ。
文身は巨大な魚や水に棲む怪物を寄せ付けないためである。
諸国の文身はそれぞれに異なる。
要するに、越人=海人族であった訳ですね。
それ以外にも、越の国と日本で似ている点は多々ありますが、稲作もその一つです。
越の国は、古代中国においてはちょっと特殊で、稲作や銅の生成で栄えた国です。
古代中国の稲作について考えて見ると、長江中・下流域がその発祥地であり、他の地域では、それほど盛んではありませんでした。
それは、ジャポニカ米の原産地が長江中流~下流域だったことに由来します。
イネの栽培種にはアフリカイネ とアジアイネがあり、アジアイネはさらに生態型によってインディカおよびジャポニカに分類されます。
ジャポニカはさらに、陸稲の熱帯ジャポニカと、現在の水稲の温帯ジャポニカとの2つの種類に分けられます。
それで、佐藤洋一郎静岡大学農学部助教授は、その著書「稲のきた道」で、イネのDNA調査の結果から、以下の結論を導いています。
★「縄文の要素」
イネと稲作は、縄文時代前期の終わり頃はじめて日本列島に渡来した。
当時のイネと稲作は現代とは違い、焼き畑式の耕作スタイルに、熱帯ジャポニカと言われる陸稲だった。
何処から渡来したかについては明確でないが、柳田国男以来の「海上の道」である可能性が濃厚である。
★「弥生の要素」
中国大陸長江流域で生まれたであろう水稲(温帯ジャポニカ)は、水田稲作の技術とセットになって、縄文時代晩期の終わり頃日本列島にやってきた。
【画像は「DNAが語る稲作文明―起源と展開 (NHKブックス)」より引用】
★「弥生の要素」には2つのルートがあった。
1つは朝鮮半島経由で、稲作技術とともに渡来した。
もう一つは中国大陸からのもので他の文化とともに東シナ海を渡って日本列島に達した。(b遺伝子を持つ温帯ジャポニカ)
★2つの「弥生の要素」は、日本列島で再び一つになって日本列島を東進する。
その過程で、池上曽根・唐古鍵遺跡にもb遺伝子を持つイネが栽培されており、
東進の一局面ととらえられる。
★東進の多くの局面で、「縄文の要素」と「弥生の要素」は併用されていたものと思われる。
すなわち、「弥生の要素」は来たものの、温帯ジャポニカはそんなに大量にはやってこなかった。
人々は、水田耕作の技術や稲作道具は受け入れたが、焼き畑耕作の栽培方法は手放さなかった。
イネも多くが熱帯ジャポニカのままであった。
つまり弥生の人々は「縄文の要素」を脈々と受け継いだのである。
「縄文の要素」は中世末頃までは残存した。
★土地の全面が水田であるような平野の景観や、稲作中心の農村風景は、少なくとも近世に入るまでは存在していなかった
それで、上記の結論に見られるように、越のイネは、元々熱帯ジャポニカという種がだったと思われますが、その後、中国大陸長江流域で生まれたであろう温帯ジャポニカは、東シナ海を経て、日本の縄文晩期に入って来たと考えられています。
縄文末期から弥生時代に掛けての一番の変化は、稲作の普及と言われてますが・・・
奇しくも、徐福の生誕地である越と日本のイネの発祥地は同じです。
しかも、徐福の日本渡来は紀元前2世紀頃で、弥生文化が花開くのもこの年代です。
さらに、b遺伝子を持つ温帯ジャポニカが、朝鮮由来ではなく、東シナ海由来で
特に、九州に多く到達していることも、徐福が関わっている可能性を示唆しています。
※後述しますが、徐福は二度目の航海で北九州に到達したとされています
▼中国から日本へ稲作が直接伝来した裏付け「RM1-b 遺伝子の分布と伝播
日本の弥生文化の到来と、徐福の渡来・・・
ここに何か繋がりがあったとは、考えられないでしょうか。
もっと踏み込んで言えば、(あくまで管理人の推測ですが)
弥生時代の稲作のをもたらしたのは、徐福なのではないでしょうか?
史記では、徐福が二度目の航海において、五穀の種子を
中国から携えて船出したことも書かれており、稲も含まれていると考えられます。
さらに、稲作だけではありません。
弥生文化は青銅文化の発展した時期でもありますが、越も銅の生成で栄えた国です。
徐福は、渡来時に技術者をも一緒に連れてきており、
青銅文化をも一緒にもたらしたとは考えられないでしょうか。
そう考えると、徐福は、日本にとって弥生文化をもたらした人になりますし、二度目の航海でも、日本に無事渡った可能性が高い訳です。
<稲作の起源に関しての補足>
稲作の起源を考える上で色々調べると、遺跡から出土した米の放射線年代測定の結果から
稲作の起源を約3000~8000年前としているサイトや本を見かけます。
しかしながら、放射線年代測定の結果は、非常に誤差が大きいため、「どちらが古いか、新しいか?」の相対年代の比較はできても、「どれくらい古いか?」の絶対年代の測定結果は、あまり信頼することはできません。
実際、ドイツのアウトバーン沿いの現在生きている樹木を炭素14法で測定したところ、数千年前という測定結果が出たのは有名な話です。
聖書では、ノアの大洪水を紀元前2344年に比定する事が出来ますが、これは約4400年前に相当します。
したがって、聖書の年代を正しいとするならば、4400年以前に日本に稲作が伝わったとする説は、明らかにおかしいです。
徐福の日本の上陸地は何処だ?
さて、徐福の生誕地の越と、古代日本とは非常に似ていると言う事が分かりましたが、
徐福は、いったい日本の何処に到着したのでしょうか?
徐福の渡来伝説は、青森県から鹿児島県に至るまで、下記のように日本全国に残っている有様です。
これは、ひとえに徐福の率いた船団の大きさ(数の多さ)も関係しているんでしょうが、
ハッキリ言って、日本全国に散らばり過ぎていて、訳が分からない状態です。
しかしながら、徐福伝承で、地図的に最も密集しているのが北九州です。
特に、佐賀市金立町の金立神社の徐福伝承は、相当に具体的で、有力な候補地です。
他にも、京都府与謝郡伊根町や和歌山県新宮市なども、相当な徐福伝承があります。
さて、ここで考えて貰いたいのは、徐福の渡航は2回あったと言う事です。
つまり、徐福の上陸地は2箇所あるはずです。
そう考えると、管理人は、まず、2回目の渡航に関しては、佐賀市金立町などの北九州の地が上陸地の可能性が高いと思います。
なぜなら、仮に日本の弥生時代の稲作が、徐福がもたらしたものだとすると、東シナ海を渡ったb遺伝子のイネの分布と、徐福の北九州に残る伝説は、一致すると考えられるからです。
しかし、、、もう一か所、徐福の最初の日本上陸地点の方は、幾ら考えても、それ以上、確信できるような結論には至る事ができません。
「これは困った。。。」
そう思った時、ある一冊の本が、見事に、その疑問を晴らしてくれました。
その本とは、下記です。
▼飛鳥昭雄 失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎
実は、上記の本の中で著者の飛鳥昭雄氏は、とても非常識な方法(?)で、徐福の上陸地を、ずばり言いのけてしまっています。
その方法とは・・・
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