https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20050804 【蕪村と子規】 より
正岡子規の句集(岩波文庫)を読んでいるが、与謝蕪村の影響を強く感じる。子規は芭蕉より蕪村を高く評価したので当然のことかもしれない。例えば、初句切れに例をとると、
蕪村の句
しら梅や北野の茶店(ちゃや)にすまひ取
春雨やものがたりゆく蓑と傘
山吹や井手(ゐで)を流るる鉋屑
子規の句
口紅や四十の顔も松の内
薮入や思ひは同じ姉妹
五月雨やともし火もるる藪の家
といった具合。同様な例は二句切れについてもある。
ただし、俳句は五七五の短い形式なので、これだけでは皆同じ作りになってしまう。両者が似ているのは内容であり取り合わせからくる物語性であろう。子規は大方が病臥の人生であったせいか、蕪村に比べて視点が繊細な印象である。俳句の表現技法は、多分開拓されつくしているのであろうから、結局のところ、内容と言葉の斡旋が残された工夫のしどころであり勝負ところであろう。
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20060622 【蕪村俳句(2)】 より
蕪村と芭蕉が同じ素材を詠んだ句を二、三取り出してみる。
海くれて鴨のこゑほのかに白し 芭蕉
更衣野路の人はつかに白し 蕪村
*両方とも五五七の形式。
また、ほのかに/はつかに「白し」が共通。
五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉
さみだれや大河を前に家二軒 蕪村
*芭蕉と蕪村の俳句の違いがよくわかる
田一枚植て立ち去る柳かな 芭蕉
柳散清水涸石処々 蕪村
*西行の遊行柳
象潟や雨に西施がねぶの花 芭蕉
青梅に眉あつめたる美人哉 蕪村
*越の美女・西施が話題
https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/20060630【蕪村俳句(3)】より
蕪村の俳句にも難解な作品が多い。時代特有の文化のために現代では理解できなくなっている事情を考慮してもなお分らないのは、あながち読者の無知のせいばかりとは言えまい。『蕪村句集』冬之部から例をとってみよう。
時雨るるや蓑買ふ人のまことより
*「まことより」が意味不明。藤原定家の歌「偽りのなき世なりけり神無月たが誠よりしぐれそめけむ」を本歌としているというが。蓑買ふ人の誠意が通じて時雨れた?面白くもなんともない。初冬お旅に備えて 蓑を買う芭蕉の姿を詠んだというが。
居眠りて我にかくれん冬ごもり
*居眠りして自分自身の中に閉じこもってしまおう、冬ごもりとして、という意味か。全句集の解説では、眠りの世界に入り自分自身からも隠れようとする冬籠りの心境、となっている。
冬ごもり壁をこころの山に倚(よる)
*全句集の解説によると、壁を心の中で山と観じ、身をもたせ冬ごもりをすることだ、とある。芭蕉の句「冬ごもりまた寄り添はんこの柱」は大変わかりやすいのだが。
息(いき)杖(づゑ)に石の火を見る枯野哉
*息杖は、駕籠などの重荷をかつぐ者の杖のことだとわかっても、石の火がわからない。息杖の先が鉄にでもなっていて、それが枯野の石に当たって火が飛んだ、とでも言うのだろうか。どうやらそうらしい。
漁(ぎよ)家(か)寒し酒に頭(かしら)の雪を焼(たく)
*全句集の解説によると、酒を温めようと老漁師が白髪頭を傾けて火をおこす様子、を詠んだというが、とても無理だ。「雪の頭が酒を焼(たく)」ならまだしも。
https://hammererix.exblog.jp/23116514/ 【与謝蕪村〜その境地〜】 より
与謝蕪村の‘十宜帖・宜秋’(国宝 川端康成記念会)
これが国宝なのかぁ?で始まりました。
日本絵画の星 18 与謝蕪村(1716-1783/江戸中・後期)
与謝蕪村。江戸時代の俳人として名前こそよく知っていますが、有名な句は?と問われても、、出てきません。芭蕉、一茶、蕪村の三大俳人なのに。汗。
また画人としても評価されていますが、一枚たりとも絵が思い浮かびません。汗。
そして、ネット画像や画集を見て与謝蕪村の作品に触れてみましたが、それでもまだ実態がよく捉えらません。
それは何がいいのかがわからないからです。「蕪村とは?」そのうち禅の公案のように感じてきました。
3週間あまり、与謝蕪村について調べていてもすとんと落ちるような感じの理解には
なかなかなれませんでした。
夜色楼台図
これは最も有名な蕪村の名作と言われているものです。晩年の作。
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夜を描いたということが新しいのと、空を黒く描いて雪の白さと、街の灯りの温かさを表現したことに風情がある。
と解説を読んで、少しなるほどと思いましたが、、、
蕪村を理解するには幾つかのキーワードがあって、それは「文人画」「南宗(なんしゅう)画」「南画」「俳画」などです。
今まで全く理解しないでいましたね~。
というのも日本の「南画」と言われるものを見ても、まったくピンとこなかったからです。
その美がわからなかったというか、あの緩慢に見える絵と言葉のゆる~い関係が理解できなかったというか、好きではなかったのです。
いろいろ見ているうちに、この絵は今文化教室などではやりの「絵手紙」の大元なのではと気づいきました。
そしてその時少し蕪村の存在が遠くに確認できました。実際に「俳画」というジャンルを確立した人と認められています。
筏師画賛
そして、「文人」とは「南画」とはを調べていく内に、蕪村がどうゆうものを目指していたのかが少しずつわかってきたのです。
「文人」とは、中国の理想的世界観、人生観をもったある人達で、基本は「学問を修め、文章をよくする人」です。そして働かなくてはいい要人の層のことです。
彼らの意識の根底には雅俗認識を主な価値基準とする人間観・世界観があり、風雅を求め山紫水明を愛する気風が生じてくる。
と同時に、多芸多趣味・アマチュアリズム・反俗性・孤高性・養生・隠逸志向などの
多様な文人属性が数えられるようになる。
ということで、文人とは、生きる姿勢が脱世俗なのです。
拝金主義はもちろん、物質主義でもなく、何ものにもとらわれない精神をもとめた人達だと言えます。
「南宗」というのも中国の禅仏教の一派のことなので、その精神は禅思想に接近していると思われます。
いや、禅をもとめたのかな?
「文人」と「南宗」が少しわかったところで、蕪村の作品に接してみると、大分と距離が近い存在になってきました。
そして、皆に愛される蕪村を知りました。
これ!
「学問は尻からぬける蛍かな」
はは、学があってもそれを鼻にかけたり、ひけらかすばかりではいけません。
学問にも権威を持たせない姿勢、いいですね〜。
この絵も最晩年の傑作と紹介されていました。
「鳶鴉図」
よく見る鳥の絵だなぁ〜。
いえいえ、トビやカラスを描いたところに蕪村があったのです。
花鳥画といえば、鶴、鷹、鷲、孔雀といったみごとなルックスの鳥が描かれることが多かった時代に、暴風に飛ばされないよう堪え偲ぶ一匹のトビ、そして雪の中で肩よせあって寒さに耐えるカラス。これが対照的に描かれています。庶民感覚なんですね。
あと「墨」と「書」も理解のキーワードです。
西洋美術を体験した私たちには「墨」だけで描かれたスケッチ風の絵は古くさく感じてしまいなかなか入っていけませんが、「書」というものと近い絵が「俳画」だと思えば、その絵が「書」との調和を求めて、抽象性を帯びてくることも理解できました。
そして蕪村の筆法はほとんど筆圧を変化させないもので、「筆の腰を使わない。書でいう永字八法、止め、打ち込み、はねなどという筆圧が変わる要素がほとんどないらしい。
手首の力を抜いて、肘を起点にするような柔らかなすべらすような動きで、自由に楽々と線をひく。
日本美術の中でも珍しいもので、下手をすると締まりのない絵になりかねなくて、形態表現が難しいんです。」引用*芸術新潮2001・2月号
蕪村の絵と書の締まりない感じは、こだわりを棄てた境地の人のものなのかもしれません。
しかし、蕪村はその生涯においてはあらゆる絵の描き方を試し、エッジをしっかり作った絵も沢山描いています。
「寒林山水図屏風」
なので、晩年に至ったゆるい画風は、蕪村の求めた境地に限りなく近いものだったのでしょう。
「宜暁(あかつきがよろし)」田舎暮らしの良さを絵にした十題のひとつ。
明け方の空色が池に写り、それが白い土壁にちらちら煌めくのが見えます。というもの。
京都の銀閣寺に与謝蕪村の襖絵が残されています。
「飲中八仙図」
酔っぱらった仙人たちの絵。
もうひとつあります。
「棕櫚に叭叭鳥図」
さらにもうひとつ。
「山水人物図」
さて、蕪村が生まれたのは大阪淀川沿い、毛馬村。
去年偶然「蕪村生誕地」の石碑に出会ってました。
さて、最後は与謝蕪村の句で締めくくりましょう。
•春の海 終日のたりのたり哉
•菜の花や月は東に日は西に
•夏河を越すうれしさよ手に草履
これなら、私でも感じることができました。
俳人としての評価は明治になって正岡子規が取り上げたからだそうで、
それまでは埋もれた存在になっていたらしいです。
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