与謝蕪村筆《奥の細道図》とその制作背景について

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【与謝蕪村筆《奥の細道図》とその制作背景について】 より

はじめに

与謝蕪村(1716-1783年)は、安永から天明期、50代後半~60代にかけて10数点の《奥の細道図》を制作したと考えられている1)。この時期を同じくして芭蕉回帰を理想とする「蕉風復興運動」が盛行し、蕪村がこの《奥の細道図》を制作したきっかけは、尊敬する芭蕉への想いからだったといわれている。それではなぜ、画巻や屏風だったのだろうか。芭蕉への想いは俳諧の世界で示せばいいわけで、画巻でなくてはならない明確な理由がない。手間のかかる画巻を描き上げたのは芭蕉の奥の細道を後世へ伝えたい一念のあらわれという意見2)もあるが、画巻でなくても掛軸でも摺り物でもいいわけである。これは単純に需要があったからではないか、という疑問をここで提示したい。この論文では、蕪村がこの作品類を町絵師として生活費を稼ぐために制作した、という可能性について考察する。

蕉風復興運動と具体的にどう蕪村が関わり、どういう態度をとっていたのか。果たして尊敬

する芭蕉への想いだけだったのか。また、奥の細道図が俳画確立のきっかけとなったと一般的にいわれているが、どのように変化したのかを明確に論証したい。

この内容について考察することにより、蕪村の描いた奥の細道図をただ素晴らしい、俳画を

大成したというだけでなく、当時の蕪村の生活状況や交友関係を考慮し、なぜ描いたのかを明らかにすることで、蕪村絵画史全体からこの作品を位置づけることを狙う。また、ただ俳画を大成したというだけでは明確な評価ができないため、制作の背景を明らかにすることで、この作品についてさらなる研究が進むことを目指すものである。

この論文の中では、混同をさけるため松尾芭蕉の俳文を述べるときは『おくのほそ道』(芭蕉が原稿の清書の表紙中央に『おくのほそ道』と題したことより)とし、蕪村筆の作品を述べるときは《奥の細道図》(作品の奥書が漢字で書かれているため3))とする。また《奥の細道図》の中でも、画巻について述べるときは《奥の細道図巻》とし、屏風については《奥の細道図屏風》とする。

1) 岡田彰子「蕪村筆奥の細道画巻について」『サピエンチア』、22号、英知大学論叢、1988年、248頁。

2) 岡田利兵衛『岡田利兵衛著作集Ⅱ 蕪村と俳画』八木書店、1997年、100頁。

3) ただし蕪村の書簡では「おくのほそみち」とひらがなであったり、「奥の細道」、「おくの細道」と書かれていたりする。この論文では統一して「奥の細道」とする。


一、書簡からみる暮らしぶり

実際、蕪村はどのような暮らしをしていたのか、蕪村の書簡から読み解いてみる。まずは画

用に関する書簡を紹介していく。

延享・寛延年間(1744-1751)  2 月22日 無宛名

然ば其節御約束之(槌図)幷大黒天、旧年甲子夜子刻ニ相認候内、槌者多認候得共、大

黒天は三、四枚計御座候。(略)今日大安日ニ候得者、右之画、為福差上候。楠公も一両日

ニ者出来仕候。4)

とあるように、初期の頃(29-36歳頃)から絵画で収入を得ていたことがわかる。また、丹後滞在期には、宝暦 6 年(1757) 4 月 6 日 嘯山宛

当春中決帰洛候処、少々画用相襲、且例之遊歓ニ費日候。

京都に帰ろうとしたところ、画用が相次いだため、滞在が延びると書いている。その他、明

和 9 年(1772) 7 月の賀瑞宛書簡に中元の祝儀についてのお礼と、画用で忙しくしている内容が述べられている。その他にも、弟子から句を乞われたところ、

安永 3 年(1774)11月 2 日 大魯宛

此節画用のみニ取かゝり候而、絶諧ニ而一句も得不申候。しかれ共愚句なくてはならぬ

との御あふせ故、無理ニうめき出候句を書付候。

画用のみ取りかかり、俳諧は絶っていたが、私の句がなくてはならないと仰るので、無理に

うめき出して句を書き付けます、いった書簡も遺っている。蕪村は明和 5 年(1968) 3 月・安永 4 年(1775)11月・天明 2 年(1782) 7 月の『平安人物志』画家の部に掲載されるようになり、画用で忙しいというような内容が書簡にも増えていく。安永 5 年(1776) 4 月15日の霞夫宛書簡のなかでは、具体的に依頼された画幅・屏風のことや、画料送金の依頼について記されているため以下に引用する。

一、先達より被仰聞候画幅之内

      右 寒山茅屋  山水

  三幅対 中 宗全仙人採芝之図

      左 深林転路 山水

4) 尾形仂・中野沙惠校注「蕪村全集 第五巻 書簡」講談社、2008年、168-169頁。これ以降の書簡についても、ここから引用した。

右は有橘君御たのみ

  二幅対 梅ニはゝ鳥

    是は華人の物数奇ニ、双幅ヲ掛テ一幅ノ画ニ見ル法也。

   右は誰人のたのみにや。二幅対ニ而大体成画と、御注文ニしたがひ候。

右五幅、此たび相下候。御落手早〻それ 御達可被下候。

 一、弐十五匁八厘   有橘君絹地料

 一、十八匁七分五厘  二幅対はゝ鳥絹地代

(略)

 右之外ニ、

   三幅対   二通

   極彩花鳥  一幅

   芭蕉翁   一幅

右之分も不日ニ揮毫、相下可申候。長病後故、画ニせめられ候。先づ貴境之分より相片付

申つもりニしたゝめ申候。

(略)

一、先達乙総子たのみの画屏山水、揮毫いたし、相下候。定而相達候半と存候。画料など

も貴子おすゝめ被下、五月節前ニ御登せ被下候様ニ御心を被付可被下候。御両子方へは

返納之物も有之候而、心頭ニかゝり候へ共、右長病家内之困窮、言語道断ニ候。御察被

下候而、きぬ地画料等も御取集、早〻御登被下度候。是は他へは云われぬ事ニ候。貴子

は格別故、覆蔵なしに申進候。乙ふさ子へもくれ 御取持、御ことばを被添可被下候。

扨もくるしき世の中にて候。

この書簡より当時蕪村がどのような画題の依頼を受けていたのか、またどれくらいの画料を得ていたのかが把握できる。まず、有橘の絹地料は現在の価格で、おおよそ 5 万円前後。二幅対のはゝ鳥絹地代は 4 万円弱程度の価格となる5)。同時代で比較すると、池大雅の掛幅で一枚二匁、伊藤若冲の水墨画一幅で米一斗(六匁)となっている6)。各画家共に依頼主によって相場は変わるだろうが、蕪村も決して安くはない画料をもらっていたと推測できる。また書簡の乙総依頼の屏風については、五月節における支払いがあること、病気で家庭内が困窮していることから早く送金してほしいと記し、このことは他の人には言わないでほしい、あなたは特別だから隠すことなく言います、と述べている7)。病気だったにせよ、この文面をみると蕪村の営業感を持った一面を垣間見ることができる。

5) 石井明『江戸の風俗事典』東京堂出版、2016年、100頁。金一両=銀60匁=12万 8 千円で概算。

6) 安村敏信『江戸の絵師 暮らしと稼ぎ』小学館、2008年、84・88頁。

7) 安永 5 年(1776) 8 月11日几董宛書簡のなかでも、「他人には申さぬ事に候、貴子ゆへ内意かくさず候」とあり、蕪村がよく使用する言い回しだったと考えられる。


その他、蕪村の商売上手の印象を受けることができる書簡は、安永 7 年(1778)12月 7 日近藤求馬・大野屋嘉兵衛宛にもみられ、依頼されていた蜀桟道の図について、平安の豪族甚価を募り奪はんと欲するものおびたゞしく、価金千疋を以ていづれも望み候へども、先づ先年より御やくそく仕候義故貴家へ納め申候。価連城ニ思召候はゞ、早速御返却可被成候。少も不苦候。愚老是迄画料之義不申候へ共寒炉擔石空しく、殊更行先ニ節季といへる邪鬼をはらひ申術ニて候。御憐察可被下候。

他にも欲しがる人はいるけれど、まずは約束したあなたに納めます、高いと思ったなら返却

してください、少しも苦しくありません、と言って自信を窺わせ、その後、これまで画料のことは言わなかったけれども、今は生活が苦しく、さらに年末の借金取りを追い払いたい、と続けるのである。この交渉は上手くいったようで、安永 8 年(1779) 1 月 6 日午窻(大野屋嘉兵衛)宛書簡では、蜀桟道の図の謝儀として黄金三円二方を受け取った礼状を送っており、年末の借金取りを追い払い、おおいに喜んでいる内容を記している。

他にも蕪村の画料について記載されている書簡は遺っており、ここでは全て紹介できないが、蕪村の日常生活は画用で忙しくしており、前述の安永 3 年(1774)11月 2 日大魯宛書簡のように俳諧はその次だったようである。俳諧の経済面については、藤田真一氏が『蕪村余響―そののちいまだ年くれず』(岩波書店、2011年)のなかで述べており、それによると、安永 7 年(1778) 4 月29日維駒宛書簡を挙げて、「其ひまつぶしを画の方にて精を出し候へば、大に利益有之候事に御座候」という一節。

俳諧擦物のことをひまつぶしだと言う、その裏で、画作に励んでおれば、大いなる利益があがったはずだと本音を吐く。文脈からみて、「利益」は、ここでは精神的なことではなく、物質的・経済的なことを指している。俳事と画事、この両事について、蕪村の内なる棲み分けがあることが、はからずもこの書簡のうちにかたられている。図式化すると、俳諧=好物、絵画=利益、というふた色に分かれるだろうか。と考察しており、俳諧は利益というより蕪村の好物であり、生活費は画事で稼いでいたことを言及している。現存する書簡からみても、弟子からの祝儀や、月並料(月謝)、擦物などへの入句料を受け取っていたことがわかるが、先程あげた書簡からもわかるようにこれだけを生活の糧にしていたとは考えにくい。また、蕪村没後に改刻された寛政 4 年(1792)南山道人編『諸家人物誌』画家の部では、謝長庚姓ハ与謝、名ハ長庚、字ハ春星。三果ト号シ蕪村ト号ス。近時ノ能画ナリ。京師ニ住ス。旁ラ俳諧ヲ唱フニ夜半亭ヲ以テ行ル8)。

とあり、画のかたわら俳諧を唱える、と記述されている。『平安人物志』画家の部に掲載されていたことも含めて、俳諧よりも画の方が主であることが、当時の認識だったと推察できる。以上のことから、蕪村が画用によって生活費を稼いでいたことが明らかになったが、《奥の細道図》についてはどうだろうか。果たして芭蕉への想いからなのか、生活費を稼ぐためであったのか、これも書簡から考察していく。まずは、了川が天保 4 年(1784)に模写した蕪村安永6 年筆《奥の細道図巻》(柿衞文庫蔵)の原本について記した書簡、安永 6 年(1777) 9 月 4 日 希遊宛しかれば先達御もとめのおくのほそみち之卷、出来仕候に付呈覽仕候。御ものずき甚よろしく候而、したゝめ候にもこゝろよく大慶之至に候。

一、ケ様之巻物之画は、随分酒落ニ無之候而は、いやしく候て、見られぬ物に候。それ故

随分と風流酒楽を第一ニ揮毫仕候。

一、巻中二女武者之像二人有之候。是は文章中有之候通、しのぶの郡鎧摺と申所ニ古寺有

之候。其寺ニ次信・忠信両人之内室ノ像有之候。即甲冑を着し。一人は弓箭を取、一人

は釼を按じ居申候。先年愚老松島行脚之節見置候。甚懷旧之情ニ堪ぬ所ニて候。それ故

右之婦人の像をしたゝめ候。是又巻中の模様ニ相成候。蕉翁此所之発句は五月五日之発

句故、右之女武者を、かぶと人形ニ而五月ニかさるものと御見違被成候而はいかゞ、と

存候ニ付くわしく書付候。

右之段〻とくと御一覽可被下候。此巻は愚老も一卷ほしく候。何事も拝眉ニ御ものが

たり可申上候。以上

河東碧梧桐氏が「恐らく季遊という人が、左程に馴染もなかった表向きの交際上、辞句を丁

重にする意に外ならなかったであろう9)」と分析しているが、丁重にする必要があったとしても、前述のように蕪村の商売上手な一面からみて、「此巻は愚老も一卷ほしく候。」と言うなど、丁重というよりは画巻を宣伝している印象を受ける。また安永 7 年 6 月制作の《奥の細道図巻》

8) 尾形仂編集代表『蕪村全集 第九巻 年譜・資料』講談社、2009年、341頁。

9) 河東碧梧桐「蕪村奥の細道畫卷に就て」『國華』497号、國華社、1932年、98頁。

(海の見える杜美術館蔵)については、

安永 7 年(1778) 7 月 5 日 北風来屯宛

一、かねて芦陰物がたり、「『おくのほそみち』御懇望ニ候間、閑を見合、揮毫いたし候へ」と芦坊被申候に付、此たび揮毫いたし相下申候。是等ハ㝡早愚老生涯の大業と被存候。

とくと御覧可被下候。

北風来屯は摂津兵庫の豪家で、芦陰の有力な庇護者であるが、蕪村自ら「生涯の大業」と自

ら言う程、自信作であったようだ。そして、季遊宛書簡と同様「とくと御覧可被下候」と言い、商品の PR ともとれる。次に安永 7 年11月に完成した《奥の細道図巻》(京都国立博物館蔵)に関して、安永 7 年(1778)10月11日 暁台・士朗宛

一、おくの細道之巻、書画共、愚老揮毫仕候物、近々相下可申候。御覽可被下候。是は両

三本もしたゝめ候而、のこし置申度所願ニ候。貴境は文華の土地に候故、一本はのこし

申度候。伴紙筆の費も有之候故、宰馬子などの財主之風流家二とゞめ申度候。

名古屋の俳人暁台・士朗に、もうすぐ出来る《奥の細道図》を送るので、どうぞよろしくと

いう内容である。自分で愛蔵しておきたいものだが、「文華の土地」名古屋にあえて置いてほしいという言い方は、希遊宛・北風来屯宛書簡でもみられるように、売り込みのようにもとれる言い方である10)。

もうひとつあげたいのが、安永 7 年(1778)12月21日来屯宛書簡では、

一、里由子・葛堵子へ別紙不申入候間、よろしく御伝可被下候。此せつ俄かにうろたへ、

昼夜画ニのみ取かゝり、不得寸暇候。御察可披下候。それ故発句も無之候。㝡早年内は

書通もいたしがたく候。来春寛〻可申上候。

安永 7 年11月筆《奥の細道図巻》(前掲、暁台・士朗宛書簡)を含めた画用により忙しくしていた蕪村は11)、「此せつ俄かにうろたへ、昼夜画ニのみ取かゝり、」と言った。つまり、年末の金策のために画事にのみ取りかかり暇がなく、発句もありません、というわけである。この作品は自信作であるかもしれないが、理由が金策であったのだ。家族を養うため、生活するために10) 石田佳也氏も「裕福な俳人の手許にあってほしいと述べるあたりは、高値での買い取りを蕪村が期待した文言とみなされている」(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編「作品解説」『生誕三百年 同じ年の天才絵師 若冲と蕪村』読売新聞社、2015年、337頁)と指摘している。

策のために画事にのみ取りかかり暇がなく、発句もありません、というわけである。この作品は自信作であるかもしれないが、理由が金策であったのだ。家族を養うため、生活するためには当然のことである。発句がないことに対する言い訳だとしても、制作のきっかけが尊敬する芭蕉への想いであるならば、このような発言をするとは考えにくいのでなかろうか。

10) 石田佳也氏も「裕福な俳人の手許にあってほしいと述べるあたりは、高値での買い取りを蕪村が期待した文言とみなされている」(サントリー美術館・MIHO MUSEUM 編「作品解説」『生誕三百年 同じ年の天才絵師 若冲と蕪村』読売新聞社、2015年、337頁)と指摘している。

11) 前掲書 4 、頭注、320頁。

ただ現存する書簡からみると、《奥の細道図》に関しては絵画作品のなかでも詳しく述べているので、高値で売れることを狙った目的もあるが、蕪村の思い入れもあったのかもしれない。当時版本『おくのほそ道』は入手しやすい状況にあり12)、版本ではなく全文のなかへ彼の得意とする「はいかい物之草画」を描きいれることに、当時他とは異なった彼の独自性があったはずだ。この章では、蕪村の画家としての生活ぶりを書簡から読み解き、尊敬する芭蕉への想いというよりは、蕉風復興運動の高まりとともに需要があった《奥の細道図》を、蕪村が生活費を稼ぐため俳諧よりも優先して描いてた、と結論付けたい。

二、 蕉風復興運動と蕪村

第一節では、蕪村は生活費を稼ぐためと言及したが、一方的に決めつけずに他の観点からも蕪村と《奥の細道図》について検証していきたい。《奥の細道図》の制作には、蕉風復興運動が関わっていることは以前から指摘されているが、具体的にどう関係しているのであろうか。この章では、その点もふまえて、蕪村の芭蕉への想いが作品とつながっているのかどうかを考察する。

当時『おくのほそ道』は人気だったようで、その要因は13)、

1 、芭蕉回帰現象。芭蕉の五十回忌以後、百回忌に向けて、芭蕉および蕉風の再評価がされ

るなか、芭蕉の作品にたいする関心が全体的に高揚していった。

 2 、奥州行脚人気。芭蕉の足跡を慕って、旅をする俳人がふえる傾向にあった。

3 、紀行文学の流行。なかでも宝暦以降(1751~)に集中する。

というように、蕪村の《奥の細道図》に需要がある時代背景であったわけである。

1 の芭蕉回帰現象のことを蕉風復興運動14)というが、具体的には、享保16年(1731)に、点取俳諧で高点を目指す風潮が蔓延する現状を危惧する俳諧撰集『五色墨』が刊行された。この『五色墨』一派の点取俳諧の懐疑のまなざしは、彼らに限られた見解ではなく、寛保 3 年(1743)の芭蕉五十回忌ごろを境にして文芸運動らしき方向性を持ち始めるのである。そして宝暦 3 年(1753)芭蕉六十回忌の年になり、蕉風復興運動はこの時期から多様化し、芭蕉伝や作品集そして注釈俳論書の類があいついで出版されてゆく。

12) 藤田真一「芭蕉像と奥の細道絵巻」『与謝蕪村 画俳ふたつの道の俳人(別冊太陽)』平凡社、2012年、77頁。

13) 本文前掲書『蕪村余響―そののちいまだ年くれず』、300頁。

14) この運動については、谷地快一『与謝蕪村の俳景―太祇を軸として―』(新典社、2005年、11-20頁)を参照した。

それが蕉風復興を唱導する俳諧行脚という職業俳人の生態となって、江戸と上方の俳壇交流を活性化してゆくのである。芭蕉七十回忌にあたる宝暦13年(1763)は、俳諧中興期の主要な人物がこの時代にほぼそろい、多彩な文学活動が展開し始める。また安永 2 年(1773)の芭蕉八十回忌前後では、芭蕉回帰を唱える俳諧師の活躍は全国化していった。蕪村もこの運動に呼応し、蕪村一派の蕉風復興を宣言した『あけ鳥』(安永 2 年刊)や、『芭蕉翁付合集』(安永 3 年 8 月刊)の序において、はいかいの継句をまなばんには、まづ蕉翁の句を暗記し、付三句のはこびをかうがへしるべし。三日翁の句を唱へざれば、口むばらを生ずべし15)。と述べて、芭蕉への真摯な想いを示した。こうして盛んになった蕉風復興運動は、俳壇全体で芭蕉敬慕に傾き、追悼事業が盛大に行われていく。以上が蕉風復興運動の簡単な流れである。

実際蕪村はそのような関わり方をしたのであろうか。『五色墨』が刊行された年は、蕪村は16歳で多感な青春時代であったし、芭蕉顕彰の節目でもある五十回忌は師の夜半亭巴人が没した翌年であり、蕪村は28歳であった。そしてその後京都で夜半亭を継承し、後に金福寺の芭蕉庵再興などを行っている。蕪村の俳諧に対する考え方を明快に示すものが、安永 9 年に刊行した『もゝすもゝ』の序であり、夫俳諧の闊達なるや、実に流行有て実に流行なし、たとはゞ一円廓に添て、人を追ふて走るがごとし。先ンずるもの却て後れたるものを追ふに似たり。流行の先後何を以てわかつべけむや。たゞ日々におのれが胸懐をうつし出て、けふはけふのはいかいにして、翌は又あすの俳諧也。

流行にとらわれず、各人の個性に従った自由闊達な表現を重んじた。ここからわかることは、蕪村が芭蕉を尊敬していたのはもちろんであるが、芭蕉の俳風の模倣とは異なり、独自の俳風を自負していたことである。また蕪村が蕉門を意識していることがわかるのが、

天明 3 年(1783) 8 月22日 如瑟宛

  良夜

 さくらなきもろこしかけてけふの月

此句法は、当時流行之蕉風にてはなく候。近来之蕉門といふ物、多くあやなし候句計いた

し、俗耳をおどろかし候。実はまぎれ物に候故、わざとケ様之句をいたし置候。

15) 尾形仂・山下一海校注『蕪村全集 第四巻 俳詩・俳文』講談社、1994年、142頁。これ以降の俳文に関しても、ここから引用した。

「実はまぎれ物に候故、わざとケ様之句をいたし置候」とことわりを述べたりするなど、蕉門を意識していたことがよくわかる。当時の流行ではない、とわざわざことわりをいれて蕉門を批判する一方で、明和 6 年(1769)刊『平安ニ十歌仙』序で、嘯山・太祗・随古が組んで蕉風懐古の歌仙を試みた作品を「其角が月に嘯く体にも倣はず、嵐雪が花をうらめる姿にも擬せず、まいて今の世にもてはやす蕉門とやらむ、質をもはらにするにもあらず、たゞ己がこゝろのさま に、思ひ邪なきをのみたとぶ成べし」と賞賛していた。また、「芭蕉百回忌取越追善」を主催した尾張の俳人暁台について、「尾と愚老とは俳風少〻相違有之候ゆへ、添削もいたしがたく候」(安永 6 年11月16日百池宛書簡)と距離をとりながらも、追善事業には惜しみない協力をした。ちなみにこの書簡には、「尾の人へ御さたは必御無用に候。此義御つゝしみ可被成候。尤此手がみなど御見せ、御他言ニ及候事は決して御無用。」と厳重に注意しており、俳風は異なるといえども上手に付き合っていたようである。

  2 の奥州行脚の流行に関しては、

安永 4 年(1775)12月11日 霞夫・乙総宛

一、今の世行脚の俳諧者流ほど下心のいやなるものは無之候。其旨いかにと問ふニ、行先

きざきニ而金銭を貪り取りたがり候。其術ニは他なく候。只〻おのれが長を説、他人の

短をかたりて人ニ信状せられんことを乞願ひ、「どふぞ金がほしいほしい」と柄杓をふら

ぬ計ニ候。

霞夫・乙総は但馬国出石の有力町人で、蕪村とも交流が深かった人物である。自ら俳諧をた

しなむ一方で、当時俳人を手厚く待遇した。蕪村が地方を回る行脚俳人に、金銭を手にすることを目的とする者が多いことに注意を促すものである。「おのれが長を説、他人の短をかたりて」という文言は、芭蕉の「坐右の銘」を引用した語句を反転させている(本来は、「他の短をあげ、己が長を顕はすことなかれ。人をそしりて己にほこるは、はなはだ賎しきことなり16)」である)。芭蕉自体の句は、とくに行脚を戒めたものではない。蕪村は晩年に《芭蕉像画賛》を描いている。これには「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」と賛があり、先程述べた蕪村の主張を表現した作品に仕上がっている。他にも一音という行脚俳人を批判していて、

安永 4 年 1 月18日 馬甫(霞夫)宛

一音はいかいの論ども被仰越、貴子之御申之通至極ニ候。人のしらぬ古語・古事などを申

出候て、人をおどし候事などは以外あしき事ニ候。成ルたけは古事・古語を不用、平生之事のみを以て句を仕立候事第一ニ候。

16) 藤田真一『蕪村 誹諧遊心』若草書房、1999年、21頁。

古語・古事を遣ひ候者を上手といたし候はゞ、物しり達はいづれもはいかいの上手にて可有之候。一音坊、右の癖有之候。甚あしく候。文章などもめつたニ古語を用い候。却而拙く候。人の知らない古語や古事を用いて賢く見せ、自らをやたらに自負して他人を害する一音こそ、芭蕉の意に反する行脚俳人の実例であった。ただ蕪村は一音宛の書簡で、彼の句を褒める内容を送っているので、暁台と同様に上手にお付き合いをしていたようである。

そして、 3 の紀行文学の流行について、蕪村はどう関わっていたのであろうか。田中道雄氏

が『蕉風復興運動と蕪村』(岩波書店、2000年)の中で、蕪村が漢詩壇における郊行詩の盛行現象に応じながら、作り上げた俳諧詩のなかでも、極めた作品を「春風馬堤曲」であると述べている。郊行の俳諧は郊行詩に触発されたものであり、郊行詩の盛行もまた、宝暦以降の新しい現象であった。「春風馬堤曲」が収められた『夜半楽』は、安永 6 年(1777)に刊行され、その翌年から、現存する《奥の細道図》の 4 作品が制作されていった。これをみると、紀行文学(『おくのほそ道』等)の流行だけでなく、この郊行詩の盛行が、何かしら《奥の細道図》制作の意図に影響していた可能性もある。蕪村が描いた芭蕉作品のなかでも、代表的旅行記である

『おくのほそ道』と、描き方が類似している《野ざらし紀行図屏風》(図 1 )17)の題材になった『野ざらし紀行』が描かれているのは、郊行詩の盛行が、当時の知識人たちにも影響を与えたとも考えられる。《奥の細道図》の制作の意図は、そうした知識人の需要背景も関係しているのかもしれない。

このように蕪村と蕉風復興運動の関係をみると、蕉門を意識し、少なからず影響を受けてい

たとしても、明らかに表面化した対抗意識というよりは、一線を引きつつも当時の蕉門と名乗った俳人たちと上手く距離をとりながら、俳諧活動を行っていた様子がみられる。当時この運動が盛り上がりもみせるなか、蕪村が描いた《奥の細道図》は、芭蕉追慕の旅を追体験、または仮想体験させてくれる作品として、当時の俳人たちに享受されたに違いない。《奥の細道図》だけでなく、11点もの芭蕉像を描いたことからも18)、当時蕪村が描く芭蕉関連作品は需要があったことが推測できる。蕪村が子謙宛書簡(安永 7 年推定)のなかで芭蕉像の画法について記してことからも、蕪村なりの自負があったことがわかるが、《奥の細道図》制作の背景には、芭蕉への想いからというよりは19)、第一章と同様に蕉風復興運動による俳人からの需要がきっかけと考えられる。

17)(図 1 )紙本淡彩、六曲一隻、139.5×348.0cm、安永 7 年、個人蔵。図版は、MIHO MUSEUM 編『与謝蕪村 翔けめぐる創意』(MIHO MUSEUM、2008年)より引用。この屏風の版本は、几董宛書簡(安永 7 年10月18日)に「『野ざらし』、只今せんぎたし候所、手近くニ見え不申候。」とあるので、几董を通じて借覧していたようだ。

18) 松尾靖秋ほか編『蕪村事典』桜楓社、1990年、436-438頁。

19) 「蕪村を芭蕉復古運動の旗印とするには、さらに丁寧な検討が求められるだろう。」(前掲書14、282頁)という指摘もある。

三、 《奥の細道図》について

それでは、《奥の細道図》とはどのような作品であったのか。書については、岡田彰子氏や藤田真一氏によって研究されており、ここでは挿図について考察していく。以下に現存する作品と写本をあげる20)。

図 2 、《奥の細道図巻》、紙本墨画淡彩、一巻、28.7×1843.0cm、安永 7 年 6 月、海の見える杜美術館蔵

図 3 、《奥の細道図巻》、紙本墨画淡彩、上下二巻、(上巻)32.0×955.0cm・(下巻)31.0×711.0cm、安永 7 年11月、京都国立博物館蔵

図 4 、《奥の細道図屏風》、紙本墨画淡彩、六曲一隻、139.3×350.0cm、安永 8 年秋、山形美術館蔵

図 5 、《奥の細道図巻》、紙本墨画淡彩、上下二巻、(上巻)28.0×925.7cm・(下巻)28.0×1092.7cm、安永 8 年10月、逸翁美術館蔵

図 6 、《奥の細道図巻》(写本)、一巻、天保 4 年 5 月了川模写(安永 6 年 8 月蕪村筆)、柿衞文庫蔵

図 7 、《奥の細道図巻模本》(写本)、一巻、横井金谷模写(現存する画巻で比較すると、京博本の描き方と類似)、17~18世紀、京都国立博物館蔵21)

前述のように書簡その他の資料から10点ほどになり、安永後期頃に集中して描かれたと考え

られている。安永後期は蕪村が「謝寅」落款を使用している時期で、絵画大成期と一般的にみなされている。この《奥の細道図》については、「俳画の大成者といわれる蕪村の名を不動のものにした22)」や、「水墨の(淡彩も含めて)特に線描による簡潔な人物描写、宗元絵画で言う減筆画の到達した表現を、蕪村が自己の画歴の中から達成したもの23)」、「長期にわたる絵画制作20)山田烈「与謝蕪村筆奥の細道図屏風の解釈」(『東北芸術工科大学紀要』17号、2010年)のなかで、安永7 年と翌年に集中的に描かれているが、関連作品の制作時期は少なくとも 5 年間ほどに広げて見る必要がある、という指摘がある。

21) 図 2 - 5 の図版は、逸翁美術館・柿衞文庫編『没後220年 蕪村』(思文閣出版、2003年)、図 6 は尾形仂・佐々木丞平・岡田彰子編著『蕪村全集 第六巻 絵画・遺墨』(講談社、2008年)、図 7 は、「芭蕉展」実行委員会編『芭蕉―広がる世界、深まる心』(「芭蕉展」実行委員会、2012年)より引用。画巻類は全て「旅立ち」の場面を抜粋。

22) 柿衞文庫編「俳画のながれ II 俳画の美 蕪村の時代」柿衞文庫、1996年、 3 頁。

23) 前掲論文20、67頁。

与謝蕪村筆《奥の細道図》とその制作背景について(猪瀬) 53の集大成24)」など、様々な意見がある。蕪村は《奥の細道図》を描くことにより、具体的にどのように変化し、何を大成したのだろうか。蕪村は几董宛書簡(注 7 )のなかで、

  かけ物七枚

  よせ張物十枚

右いづれも尋常の物にては無之候、はいかい物之草画、凡海内に並ぶ者覚無之候。下直に

御ひさぎ披下候儀は御用捨可披下候。他人には申さぬ事に候、貴子ゆへ内意かくさず候。と記し、「はいかい物之草画」と称したものが、のちに略されて「俳画」といわれるようになる。自ら「凡海内に並ぶ者覚無之候」と自負しており、安値では売らないように告げている。

ここでいう「俳画」とはどのようなものであろうか。岡田利兵衛氏によると、「書かないで書いた以上の妙味をそこから感受でき得る省筆であらねばならぬ。(略)墨一色で或は淡彩で、濃彩にないそれ以上の美を感ぜしむるものでなければならぬ25)」で、また鈴木進氏によると「俳句と画がおたがいに一つの要素となって、そのうえにもう一つの別な世界を創造する26)」画のことを指す。蕪村は俳画を大成したとよくいわれているが、この言葉を借りると、略筆によって俳句と画が描かれた、それを観た者が別の世界を創造するような絵画、というものを大成したことになる。蕪村自身でも画賛について言及していて、

安永 3 年(1774)日付なし 乙総宛

老なりし鵜飼ことしは見えぬかな 紫狐庵

すべての賛の絵をかく事、画者のこゝろえ有べき事也。右の句に此画はとり合わず候。此画にて右の句のあはれを失ひ、むげのことにて候。か様の句には、只篝などをたきすてたる光景、しかるべく候。(図 8 )27)

蕪村の句に月渓が描いた図について、句に注をするかたちで意見を記した。毎年鵜飼に姿を見せていた老鵜匠が今年は見えない。病気であるのか、死んでしまったのか、火の饗宴の中に漂う一抹の無常感を表現した句である28)。この句に月渓は籠と鮎を描くが、これでは句のあわれを失い、無意味であるという。このような句には、篝火などの消えのこった光景であるべきだと説いた。

24) 前掲書10、石田佳也、287頁。

25) 岡田利兵衛「蕪村の俳画」『生誕250年記念 蕪村展 その芸術と創造』毎日新聞社、1966年、24頁。

26) 鈴木進『蕪村と俳画』ブック・オブ・ブックス 日本の美術46、小学館、1976年、36頁。

27) (図 8 )《「老なりし」月渓合作画賛》、一幅、106.3×28.2cm。図版は、前掲書21(図 6 )より引用。

28) 句の解釈は尾形仂・森田蘭校注『蕪村全集 第一巻 発句』(講談社、1992年、249頁)より引用。

鈴木進氏の言葉を借用すると(前掲書26より)、月渓の画は句意と内容をそのまま絵画として表現した「べたづけ」となり、蕪村が説いた画は前述のような句と画が微妙にふれあい、別の世界を創造するような「匂いづけ」となる29)。この書簡からすると、蕪村は既に俳画の匂いづけについて自分なりの考えを持っていたことになる。こうみると、《奥の細道図》がきっかけで俳画(匂いづけ)を大成したというよりも、蕪村は既に俳画について自分なりの画法を確立していたことになる。《奥の細道図》の挿図をみると、匂いづけの方法というよりも、絵解きに近い方法をとっている。このことにより、《奥の細道図》は匂いづけの画として捉えるのではなく、俳諧をともなう略筆画として考察していく。

前置きが長くなったが、具体的に《奥の細道図》前後で蕪村の描き方に変化はあったのでろ

うか。蕪村の俳画については、先行研究で英一蝶や彭城百川などの影響があることが指摘されている。現存する《奥の細道図》の制作年以前の作品では(制作年が推測できる作品に限定してあげていく)、明和 8 年(1771)《十便十宜図》、安永 2 年(1773)《四季山水図》などの人物図に、《奥の細道図》に近い人物の描き方がみられる。その他、明和 9 年(1772)『其雪影』や『安永三年春興帖』、安永 6 年『狂歌ならひの岡』の挿絵にもその兆候がみえる。また、安永 4年制作《徒然草・宇治拾遺物語図屏風》(図 9 )30)に注目すると、屏風上部に文章を、その下に人物画を描き、《奥の細道図屏風》に通じる描き方である。右隻の「鬼に瘤とらるゝ事」の場面では、翁が鬼の前で踊りをみせている画上部の文章が、文字が流れるような構成を取り、翁が躍る躍動感と呼応するような印象を受ける。この文字構成は、《奥の細道図屏風》六曲目の文字構成と類似している。制作年だけでなく、これより以前にこのような屏風が制作されていなかったことを考えると、この屏風は重要な作品といえる。人物の描き方は、左隻の第152段の西大寺静然上人と従者を、《奥の細道図屏風》「旅立ち」の芭蕉・曽良と比較すると、顔の表情に関して後者の方がより略筆で飄々とした表情で描かれている。ただしだからといって、全体の構成をみても前者が絵画として劣っていることにはならない。俳画でいうと、「紫狐庵」の号より安永 7 年より以前に描かれたと考えられる《「雪月花」自画賛》(図10)31)、《俳諧八仙図》(図11)32)をみると、ほぼ《奥の細道図》に近い人物の描き方になっている。こうした絵画の修練より蕪村が《奥の細道図》の描き方を習得したのだろう。あらためて、《奥の細道図》をみてみると、

29) 田中道雄氏により、蕪村の俳画が景の重層化、読者が外から内へと意識を向けるような構造になっているという指摘もある。(本文前掲書『蕉風復興運動と蕪村』)

30) (図 9 )紙本墨画淡彩、六曲一双、各156.4×371.4cm、安永 4 年、野村美術館蔵。図版は、前掲書17より引用。

31) (図10)紙本墨画淡彩、一幅、48.7×26.1cm、逸翁美術館蔵。図版は、前掲書21(図 2 - 5 )より引用。

32) (図11)紙本墨画淡彩、一幅、116.5×29.1cm、個人蔵。図版は、前掲書21(図 2 - 5 )より引用。

33) 辻惟雄氏より蕪村の俳画について、「蕪村の俳句のすばらしさに対し、絵の方はともすれば軽い即興に傾き過ぎるのではないでしょうか」という意見もある(「駆けめぐるマルティ芸術家の創意」、前掲書17、16

大幅な作風の変化が発見できるわけではないが、描き方がより簡略化され全体的に軽みを帯びた印象を受ける33)。現存する奥の細道は、挿図の細かい相違はあるが、蕪村はある程度描く画の形式を決めて描いていたことがわかり、ほぼ同時代の《「しら菊や」自画賛》(図12)34)をみると、略筆とは言い難い俳画もあることから、作品によって描き方を使い分けていたと考えられる。つまり、《奥の細道図》を描いたことにより、それ以降の全ての俳画作品があのような描き方に変化していったわけではないのである。この作品を制作する以前の蕪村の俳画が優れていなかったかというと、そうとも考えられない。晩年の俳画は、《三朝図》(図13)35)、《「筏士」自画賛扇面》(図14)36)などがある。前述の《奥の細道図》前後の作品を比較したときに、明確に晩年の作品の方が優れているとはいえないのではなかろうか。こうしたことから考えると、《奥の細道図》は蕪村の持っている力を存分に発揮したというよりも、芭蕉『おくのほそ道』の絵画化を目指し、鑑賞者によりわかりやすくするような平明な挿図を試みたのではないか。《奥の細道図》が蕪村の絵画史のなかで、必ずといって言い程代表作としてあげられるのは、蕪村の他の俳画作品と比較しても、これほど特徴的で無駄のない略筆であり、わかりやすく妙味のある作品はないからであろう。また当時写本ではなく、画巻や屏風として描いた作品を多数遺したのも蕪村だけである。ただし蕪村の絵画史のなかで《奥の細道図》はあえて平明な描き方をしたと位置づけただけであり、他の画家と比較するとその差は明らかである。同じ紀行文である許六による画巻形式の『癸酉紀行』[元禄 6 年(1693)]、了川・横井金谷写本、《芭蕉翁絵詞伝(抄出写本)》(寛政 4 年)、安政 5 年(1858)に蕪村の《奥の細道画巻》の挿図を模写した鶯

宿編『鼇頭奥之細道』、同じ紀行文である曲阜著・画『照顔斎道の記』(安政 6 年)(図15)37)などをみると、蕪村の作品には及ばないのである。

最後に、なぜ鑑賞者にわかりやすくするため平明な挿図を描いたのか。くどいようだが、こ

れは依頼者の希望もあるだろうし、売れる商品としてあえてこのように描いたことも考えられる。また、蕉風復興運動とからめて考えると、売り絵というだけでなく依頼者のために、蕪村が芭蕉の行脚を追随体験できるような、書と絵画の趣向を凝らした作品を描いたともとれる。

制作背景に金銭的なものがあろうと、それが当時の画家としての生き方であるし、蕪村自身も修練を重ね自負心を持って絵画を描いていたわけで、何らおかしなことはない。

34) (図12)紙本着色、一幅、113.0×38.7cm、個人蔵。図版は、前掲書21(図 2 - 5 )より引用。

35) (図13)紙本墨画淡彩、一幅、102.5×28.4cm、京都国立博物館蔵。図版は前掲書17より引用。

36) (図14)紙本墨画、一幅、16.9×46.1cm、個人蔵。図版は、前掲書21(図 2 - 5 )より引用。

37) (図15)紙本墨書墨画淡彩、折本一帖、21.6×14.1cm、安政 6 年、柿衞文庫蔵。図版は、柿衞文庫編『芭蕉 新出作品を中心に II』(柿衞文庫、2016年)より引用。

おわりに

蕪村は俳画を大成したといわれているが、俳画を大成するとは一体何を獲得した絵画なのだ

ろうか。俳画の代表作としてあげられる《奥の細道図》の制作背景と挿図について考えること。

第 7 号で、稚拙ではあるが蕪村俳画の新しい側面がみえることを試みたのが今回の論述である。現存する《奥の細道図》を比較研究するだけでも、挿図の描き方や選定方法など興味はつきない。

蕪村の俳画を中心とした論考であったが、蕪村の全絵画作品においてさらに研究していく必要があるだろう。

また、今回は書簡を中心に蕪村の暮らしぶりから制作背景を考察したが、書簡を読むと、蕪村は娘を思いやり、ときに弟子の仲裁に入り、内心では批判しながらも表面では俳人たちと上手く付き合いをするような一人の人間だったわけである。書簡だけを証拠に研究してはいけないだろうし、また人間性に引きずられて絵画を評価するのは、美術史的な立場として正統ではないだろう。しかし蕪村の生活した目線で絵画を考察していくと、新しい異なる蕪村像が浮き上がってくる可能性もある。制作の意図は生活費を稼ぐためであると述べたが、お金を稼げればいいという想いだけではなく、月渓への画賛指導からもわかるように蕪村自身もこだわりを持って描いていたのだ。

蕪村の絵画史のなかでは、画力を抑えて平明な挿図に仕上げ、ある程度決まったような形式でそれぞれ描いたと論じた。しかし他の画家と比較すると、粗雑と誤解されかねない略筆画を、飄逸で無駄のない筆致で描いた功績がある。《奥の細道図屏風》の文字構成は一見乱雑そうにみえて、全体をみると画と調和をとった作品にみえるのが彼の独自性であろう。琵琶法師の挿図部分は、上の文字が現代でいう吹き出しのようである(実際は琵琶法師と別場面の「壺の碑」場面が書かれている)。蕪村があえて平明な略筆画を描いたことにより、現代の我々にとっても簡単に受け入れやすく、また惹きつけてやまない作品として現在受容されているのではなかろうか。

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