「巣ごもり」の達人・与謝蕪村に学ぶこと

https://wedge.ismedia.jp/articles/-/19176  【「巣ごもり」の達人・与謝蕪村に学ぶこと】より

新型コロナウィルスのせいで、このところずーっと「巣ごもり」中である。「巣ごもり(または家ごもり)」と言えば、敬愛する江戸中期の俳人、与謝蕪村だ。

 〈桃源の路次の細さよ冬ごもり〉

 〈はるさめや暮なんとしてけふも有〉

蕪村は、若い頃は江戸に居住したり、遠く津軽まで脚を延ばしたりと流浪の生活を送ったが、京に落ち着いた後半生は、狭い路地の家で45歳頃に結婚した妻(とも)と一人娘(くの)と3人でひっそりと暮らした。

 俳諧師で絵師でもあった蕪村。

「遅咲きの文人」と呼ばれる蕪村が俳壇と画壇の双方で特異の才能を開花させたのは50歳以降のこと。田沼意次が権勢をふるった田沼時代(1767~86年)と重なる。

賄賂横行の田沼時代は戦乱とは無縁の泰平の世、江戸文化の爛熟期でもあった。

ただし、同時代の知識人らは来るべき大変化を予感してか慌ただしく動き始めていた。

才人の平賀源内は寒暖計やエレキテルを製作し、杉田玄白は前野良沢らと『解体新書』を刊行。司馬江漢は洋風画を描き始め、尊王家の高山彦九郎は諸国を行脚した。

『與謝蕪村の小さな世界』

しかし、そうした潮流に背を向けて、自らの慣れ親しんだ「小世界」に独りこもって「美」を紡いだのが蕪村、と比較文学研究者の芳賀徹氏は『與謝蕪村の小さな世界』(中公文庫、1988年)で指摘する。

私は肉体的衰えを自覚した50歳過ぎ頃から、蕪村の生き方に関心を寄せ始めた。

蕪村は画業を生計の支えとしたが、絵は常には売れず、借金に悩まされ続けた。

裕福な俳諧の門人らが、時折花見や芝居に誘ってくれることがあり、その歓待に一喜一憂する典型的な「小市民生活」である。

だが、そんな猥雑な日常に基盤を置きながら、蕪村は同時代の誰よりも早く詩の世界の世界に新しい境地を切り拓いた。

 〈愁いつゝ岡にのぼれば花いばら〉

 〈うつゝなきつまみごゝろの故蝶哉〉

まるで明治時代の新体詩のような瑞々しい美意識である。

この2月に亡くなった芳賀氏は、封建社会とされる江戸時代を文化肥沃な「パックス・トクガワーナ(徳川の平和)」と捉え直したことで知られるが、その芳賀氏が「徳川の平和」の代表的民衆詩人と推すのが蕪村だ。

とりわけ「田沼期日本のロココ文学の珠玉」(『文明としての徳川日本』筑摩書房、2017年)と絶讃するのが、俳句と漢詩、漢文和文を自在に交えた『春風馬堤曲』。

奉公先の大阪の商家から「藪入(やぶい)り(正月や盆の帰省休暇)」で親元に帰る若い娘に老蕪村が偶然同行した、という体裁で娘の行動や思いを描いた青春・郷愁の叙情詩である。

 〈やぶ入や浪花(なにわ)を出て長柄(ながら)川(淀川)〉

 〈春風や堤長(なご)うして家遠し〉

市街を抜けると、そこは淀川堤。摂津の毛馬(現、大阪市都島区毛馬町)へ続く土手だが、毛馬は蕪村の生まれ故郷。2人の「道行(みちゆき)」は現実から過去への遡行でもある。

娘は堤から、春風そよぐ川辺に降り香草を摘もうとする。ところが、棘(とげ)のある低木に邪魔され、太股(ふともも)を引っかけ嬌声をあげる。

それから流れの中に点在する石をピョンピョンと跳び、水中の芹(せり)を摘む。そして石に向かい「ありがと、晴着濡れずにすんだわ!」

 同行の蕪村には、嘆息の軽薄娘に思える。

 娘は川辺から戻り、再び老俳諧師との道行が続く。

 〈一軒の茶見世の柳老にけり〉

見覚えのある茶店。おかみさんが出てきて、「あら久しぶり。まぁきれいな服(べべ)着て」と娘の流行の晴着を誉めてくれる。娘はちょっぴり得意げだ。店に浪花言葉を話す男客が2人いた。娘を見ると「ここにお掛け」と席を譲り、ポンとお茶代まで奢ってくれる。

 それにつけてもよく晴れた、春の淀川の堤だった。

昔の宿場あたりから甘い猫の声が聞こえ、春の原っぱで鶏の親子が鳴き交わし、雛が垣根を越えようとして3、4回失敗したり……。

さらに進むと、道は三岐(みつまた)に分かれ、その中の懐かしい小道が娘を誘う。路傍にタンポポの花。黄色や白の花。「覚えてるわ。奉公に行く時に、このタンポポの道通ったもん」

茎を手折ると、白い乳が溢れ出す。反射的に、遠い昔の母の愛情が蘇ってくる。

母のふところにこそ、別天地の愛があった。

今は浪花の大店のお金持ちの家で働き、おシャレも身につき青春を謳歌している自分。

でも、見捨てるように残してきた家族を思うと「ちょっと反省しなくちゃ」とも感じる。

〈故郷(ふるさと)春深し行々(ゆきゆき)て又行々(ゆきゆく)〉

気を取り直して歩いて行くと、柳の堤の土手道もようやく在所への下り道に続く。

娘よ、うなだれて、さすがに疲れたのか。見てごらん、黄昏(たそがれ)の靄(もや)の中の郷里の家。

戸口の夕靄に立つ白髪の人。弟を抱いて、待っているのは、「あれは、私のお母ちゃんや!」

そう、友人だった故人の炭太祇もかつて句に詠んでいた。

〈藪入(やぶいり)の寝るやひとりの親の側(そば)〉

 ――以上『春風馬堤曲』。娘と老俳諧師の白昼夢のような「藪入の道行」は終わる。

 この作品を書いた時、蕪村は62歳だった。

原型となる記憶

むろん作品のような体験があったわけではない。けれども完全な空想ではなく、門弟への手紙によれば原型となる記憶があった。

幼少の頃、春の毛馬堤でよく遊んだという。往来する人々の中に、浪花の奉公先から帰省する着飾った娘たちがいた。都会のスターの噂話をしたり、故郷の兄弟の田舎っぽさを恥じたり、笑いさざめきながら実家へと帰る。

そんな記憶が蘇り、「懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情」がこの作品なのだ。

蕪村が『春風馬堤曲』を発表した安永6(1777)年2月、蕪村は病気がちであり、最愛の娘くの(16歳か17歳)を前年末に嫁がせたばかりでもあり、気落ちしていた。

ただでさえ家に閉じこもりがちな老齢の日々。残りの命の尊さを再認識したはずの俳諧師は、おそらく、自分にとって何よりも大切だった幼年の日の故郷(と母)の思い出を、巣立って行った娘の若さ(青春)に託し、作品として表しておきたかったのだろう。

その意味では、パックス・トクガワーナの老詩人は、老境の表現者が家ごもりの時期に何をするべきか、一つの指針を示してくれた。

ただし、よくわからないこともある。

代表作『春風馬堤曲』で「郷愁」を詠み、萩原朔太郎に「郷愁の詩人」と称された蕪村だが、故郷の毛馬村での生い立ちについては(幼少時の例の一文を除き)いっさい語っておらず、20歳頃に毛馬村を後にしてからただの一度も郷里を訪れた形跡がない。

出生に関して公にできない秘密(私生児とか?)があったとされるが、不明だ。

藪入り(正月)なのに、芹やタンポポが登場し、最後は「春深し」となる故郷。そこで迎えてくれる別次元の母の愛……。まさに幻の桃源郷。

ちなみに、娘くのは作品発表の3カ月後、婚家と合わず出戻ってきた。

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