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【蕪村の花押(その二)】 より
(絵図 A=『はなしあいて』所収「蕪村山水略図」)
この「蕪村山水略図」は、『はなしあいて(宋是編)』下巻の冒頭の宋是(高井几圭)の
「序」の次に掲載されているもので、「山が三つ中央にあり、その麓に木立と人家、その手
前に一本の線による川が描かれている」、何とも単純な俳画の見本のような省筆画の極致と
いう趣である。そして、真ん中の山の右端に、蕪村と署名し、その下に、蕪村の花押が書
かれている。
この『はなしあいて(噺相手)』は、宝暦七年(一七五七)、宋是(几圭)が六十九歳で
行った文台開きと薙髪をかねて祝した記念の賀集で、几圭は京都の夜半亭門(巴人門)の
宋屋と双璧をなす重鎮で、後に夜半亭二世となる蕪村の承継者、夜半亭三世几董の父であ
る。
宝暦元年(一七五一)、三十六歳の時に、蕪村は関東・東北歴行の生活に終止符を打ち上
洛した。上洛した理由などについての直接的な記述はないが、寛保二年(一七四二)六月
六日の宋阿(巴人)が没して、江戸の夜半亭一門は消滅し、その大半は馬場存義一門に吸
収された(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)ことと大きく関係して来よう。
そういう環境下にあって、京都の夜半亭一門は、望月宋屋と高井几圭を両翼として、宋
阿(巴人)が京都に移住して当時そのままに健在であった。また、一時江戸に住んでいた
「莫逆の友」の毛越(江戸在住時代の号は雪尾)など知友の多くが京都とその周辺を活動
の拠点としていた。
これらの京都の夜半亭一門並びにその影響下にある知友達のもとにあって、心機一転の
再スタートを切りたいということが、蕪村上洛の大きな理由であったことであろう。これ
らのことについて、宝暦五年(一七五五)に刊行された、宋阿(巴人)十三回忌追善俳諧
遺句集『夜半亭発句帖(雁宕ら編)』に寄せた蕪村の「跋」は次のとおりである。
「阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探て一羽烏といふ文作らんとせしもい
たづらにして歴行十年の后、飄々として西に去んとする時、雁宕が離別の辞に曰、再会興
宴の月に芋を喰事を期せず、倶に乾坤を吸べきと。(以下略)」
(訳「師の夜半亭宋阿(巴人)が亡くなった時、その夜半亭の空屋で、師の遺稿をまとめ
て一羽烏という遺稿集を作ろうとしたが、何もすることが出来ずに、ついつい関東・東北
を歴行すること十年の後に、あてどなく西帰の上洛をしようとした際の、兄事する雁宕の
離別の言葉は、「今度再開して宴を共にする時には、月を見て芋を喰らうような風雅のこと
ではなく、お互いに、天地を賭しての勝負をしたことなどを話題にしたい」ということで
した。)
この蕪村の「跋」に出て来る、「雁宕が離別の辞」は、東西の夜半亭一門の実質上のまと
め役の、当時の雁宕の姿を如実に著わしている。雁宕は、後に、東日本に於ける俳壇の大
勢を動かしている雪中庵(嵐雪系)三世を継いでいる大島蓼太に対し、江戸の夜半亭一門
の、其角・巴人・存義に連なる江戸座(其角・沾徳系)の一角を代表して、延享二年(一
七四五)に刊行された『江戸廿歌仙(延享二十歌仙)』)に端を発した長年に亘っての論争
を展開する。
こういう雁宕の俳諧一筋の精進に比して、蕪村の関心事は画(文人画・俳画等)と俳(俳
諧)との二道で、その二道のうち、主たる関心事は画道にあり、俳諧はあくまでも余技的
な従たるものというのが真相であろう。
そして、蕪村が上洛をした真の狙いは、当時、京都に居を構え、文人画の先駆者の一人
で、且つ、中国古典の教養を幅広く持ち、さらに、各務支考系の俳人としても名を馳せて
いる彭城百川の膝下で、画人としての再スタートを期したいということにあったように理
解できるのである。
しかし、百川は、蕪村が上洛した宝暦元年(一七五一)に、当時舶載された中国画人を
集大成した『元明画人考』を刊行し、さらに、多武峰談山神社の慈門院に一群の障壁画(国
の重要文化財)を描き、それが最期の頂点のままにして、その翌年の八月二十五日に、そ
の五十六年の生涯を閉じるのである。
即ち、蕪村と百川とが、この宝暦元年(蕪村上洛=秋)から同二年八月(百川没)の間
に、この両者の対面があったのかどうかは、甚だ曖昧模糊として居り、未だに謎のまた謎
という状態である(否定的見解=『潁原退蔵著作集第十三巻』所収「蕪村と百川)」、肯定
的見解=『蕪村の遠近法(清水孝之著)』所収「百川から蕪村へ」)。
百川は、元禄十年(一六九七)、名古屋本町の薬種商八仙堂の生まれとされているが(婿
養子ともいわれている)、その前半生は明らかではない。本姓は榊原、通称を土佐屋平八郎
というが、自ら彭城を名乗った。名は真淵、字が百川、号に蓬洲、僊観、八僊、八仙堂。
中国風に彭百川と称した。
俳諧では各務支考に就き、俳号は、始め松角、後に昇角と号した。京都に出て活動を始
めたのは、享保十三年(一七二八)、三十二歳の頃からで、その生涯は、伊勢・大坂・金沢・岡山・高知・長崎・大和など、画業を主とし、俳諧を従としての旅を重ね、その晩年は京都で過ごすものであった。
百川は町人出身の職業画家で、自ら「売画自給」と称しており、同じく文人画の先駆者
とされる祇園南海(紀州藩儒)や柳澤淇園(大和郡山藩士)の、語学・文学・学術・諸芸
に長け、中国趣味の風雅の中で画道に精進するという、所謂、本来の士大夫による「文人
画」の世界ではなく、その「文人画」を職業として描く「文人画派の絵画」の世界での創
作活動であったということも言えよう(『文人画の鑑賞基礎知識(佐々木丞平・佐々木正子
著)』)。
日本文人画を大成したとされる池大雅も与謝蕪村も、その出身からすると町人出身の百
川と同じような環境下にあっての「文人画派の画家」であり、この二人のうち、大雅は、
文人画の筆法や画面構成のスタイルを独自なものとして大成したとするならば、蕪村は詩
画一体を目指すという文人画の精神を実現した、まさに画俳二道を究めた達人ということ
になろう。
そして、その蕪村が目指した画俳二道を先駆的に歩んでいる、その人こそ百川というこ
とになる。そして、蕪村が上洛した宝暦元年(一七五一)には、百川は京都に在住してお
り、当時、蕪村より七歳年下の大雅は、『池大雅家譜(蒹葭堂竹居編)』によると百川と面
識があり、延享二年(一七四五)には、蕪村よりも三歳年下の建部綾足(当時の号・葛鼠)
が、百川を訪ねて上洛し、「百川に俳諧ばかりでなく生きる姿勢の上でも大きく影響」を受
け、俳諧を百川の指導により、野坡門から伊勢派に転向したという(『彩の人建部彩足(玉
城司著)』)。
綾足も、俳人・絵師・小説家・国学者等々多才の人であったが、百川は、「詩・文・書・
画・俳諧」(『本朝八仙集』獅子房=支考序)に亘る「和漢に多芸の優人」(『和漢文操』二
見文台絵序)と、そのマルチニストぶりは、蕉門随一の論客家の獅子房こと支考が、後に、
両者は諍いを起こすことになるが、絶賛している。
その本業である絵画のレパートリーも、漢画(中国の「宋・元・明」の山水・花鳥・人
物等多彩に亘る絵画の摂取)、和画(狩野派・土佐派・英派等)、和洋化(長崎風=黄檗派・
南蘋派・長崎版画等の摂取、その和洋化)、俳画(詩書画一体の俳画の先駆的な創作)、挿
絵(俳書・絵俳書に描かれた絵)、俳書の装画などのデザイン(絵文字・扉絵など俳書のデ
ザインと編纂)など多岐にわたっている。
この百川の多岐・多様な世界について、「自己の創造に必要なものは何でも画嚢に取り入
れてしまう」、その「雑食性」こそ、百川の大きな特色であるとしている(『知られざる南
画家百川(名古屋市博物館編)』所収「百川と初期南画(河野元昭稿)」)。
まさに、この百川の「雑食性」とその絵画のレパートリーの多岐性の世界は、まさに、
蕪村の世界と軌を一にするものと言って差し支えなかろう。そして、百川の先駆的な土台
の上に立って、その未完・未消化の世界を完成した人こそ、それが蕪村であったという思
いを深くする。
さて、冒頭に掲げた『はなしあいて』所収の「蕪村山水略図」(絵図 A)は、これは上記
のレパートリーの「挿絵」の世界のものなのであるが、このシンプル化の極致のような省
筆画の世界の先駆的な試みは、百川が既に様々に実践して居り、蕪村は、その百川の省筆
の挿絵から多大な示唆を受けて、それをアレンジしていると言っても過言でなかろう(清
水『前掲書』・「国文学(1996/12 41 巻 14 号)」所収「挿絵画家蕪村(雲末末雄稿)」、この「挿絵画家蕪村」の中で、次の絵図 B・C との類似性を指摘している)。
この絵図 B=「百川・杜鵑図」と絵図 C=「百川・旭日雪景図」は『俳諧節文集(何尾亭
童平編・享保十八年=一七三五)』所収で百川の署名はなされていないが、その扉文字や「花鳥風月」のデザイン文字が百川のものであり、この絵図(A・B)は、百川作であることは間違いないとされている(雲英『前掲書』・田中『前掲書』)。
ここで、改めて、上記絵図 A の「蕪村山水図」は、宝暦七年(一七五七)の、蕪村、四
十二歳の時の作で、百川の作とされている、上記 B「杜鵑図」と上記 C「旭日雪景図」は、
享保十八年(一七三三)、百川、三十七歳の作である。
百川は、享保十四年(一七二九)に、『俳諧ながら川(嘯鳥舎有琴編)』に、「四季鵜飼図」の四枚の挿絵を載せているが、その「春図」(絵図 D)と「秋図」(絵図 E)は次のとおりで、いかに、「杜鵑図」(絵図 B)・「旭日雪景図」(絵図 C)が、単純化・省筆化されているかが、感知される。
(絵図 D=百川・春図) (絵図 E=百川・秋図)
先に触れた、蕪村が俳人そして画人(挿絵画家)として初めて世に登場する、元文三年
(一七三八)、二十三歳時の絵俳書『卯月庭訓(豊島露月他編)』に掲載されている、「鎌倉誂物」(絵図 F)と冒頭に掲げた、宝暦七年(一七五七)の、蕪村四十二歳の時の「蕪村山
水図」(絵図 A)とを比較すると、いかに、蕪村が百川から多くのものを摂取して行ったか
の、その一端が明らかとなって来る。
そして、この冒頭の「蕪村山水図」(絵図 A)の署名と花押が、この山水図の絵柄の一部
を構成していて、その署名は木立、そして、花押は人家のような趣を呈しているかが明瞭
となって来る。
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