詩歌教養、与謝蕪村

http://hatutori.akiba.coocan.jp/4F/fu06.html  【詩歌教養、与謝蕪村】  より

◆与謝蕪村、遅咲きの玄人 丹後の寄り道

江戸時代中期の画家で俳人でもあった与謝蕪村は肉体が衰える最晩年に、当時の文化の中心都市、京都で、詩情豊かな独自の絵や句を創りだした。生き方を丹念に遡ると、中年期に3年過ごした丹後時代が遅咲きの超爆点になっていることか分かる。丹後で一体何かあっえのか。天橋立や大江山のふもと、滞在した古寺などで足跡を探した。

◆自然と友が高めた俳句の道

「しら梅に 明あくる夜ばかりと なりにけり」・・・蕪村

与謝蕪村が68歳で亡くなる前に詠んだ辞世の3句のひとつである。白梅の香りが漂う浄土がすぐそこに来ている。幸福感みなぎる蕪村の死生観が伝わってくる。彼の生き方や、俳諮、絵などの作品の充実度やみずみずしさを、頭の中であえてグラフにしてみた。60代で急速に上昇し、最期に頂点に達するような右肩上がりの曲線になる。参考にしたのは「蕪村全集」(講談社)全9巻。句作の時期が分かる発句2583のうち、60歳以降の最晩年の句が1363で53%に上る。62歳のときに発表した「春風馬堤曲・しんぷうばていきょく」は、発句や漢詩を自在に交えた18首からなる全く新しい形の俳詩だ。

63歳以降、「謝寅・しゃいん」の落款を入れた「夜色楼台図・やしょくろうたいず」や「鳶・鵜図、とび・からすず」などで、人々の郷愁を呼び覚ます独自の文人画の世界も築いている。今の日本人の寿命に換算すれば80代から90代。肉体が衰弱していく中で、なぜ、次々と芸術の花を咲かせることができたのか。不思議だ。今度はグラフの頂点から、若いころへと戻ってみる。遅咲きの起点が39歳から3年半過ごした丹後の修業時代に潜んでいることが、おぼろげながら見えてくる。蕪村は丹後時代を境に「放浪」から「定住」へ、浄土宗の僧から還俗して妻帯へとライフスタイルを切り替える。名前も「釈蕪村」という僧名から「与謝蕪村」に変更する。人生や芸術の切り替え準備をどのようにしたのだろうか。よし、丹後に行こう。9月初旬、東京駅から新幹線のぞみ号に乗り、京都駅で特急はしだて号に乗り換えて天橋立駅に向かった。

「夏河を 越すうれしさよ 手に草履ぞうり」・・・蕪村

猛暑で水かさの減った川をはだしで渡る。蕪村の快さげな気持ちが伝わってくる。句を詠んだとみられる野田川親水公園には句碑が立つ。この日は朝方の雨がやみ、川の両側に迫る大江山連峰と権現山の山並みから、スーっと雲が去り、青々とした雄姿がひょっこり現れた。川に沿って2㌔ほど上った与謝野町字与謝(よざ)に、蕪村の母、谷口げんの墓がある、というので訪ねてみた。墓を管理している谷口秀子さん(70)が自宅脇の畑の奥に案内してくれた。山林の斜面に苔むした2つの墓石が並ぶ。右側には「月堂妙覚禅定尼」、左側には「南無阿弥陀仏」が刻まれている。秀子さんは谷口家に代々伝わる話を教えてくれた。「げんは大坂に奉公に出る。奉公先の主人との間にできた子が蕪村。実家に戻ったげんの遺骨は、不義理の子を産んだために、菩提寺ではない谷口家の敷地内で、自宅と大江山がよく見える場所に葬ったそうです」蕪村が俳譜と絵の修業のため丹後に来たのは、宮津にある浄土宗見性寺(けんしょうじ)の住職、触誉芳雲・しょくようほううん(俳号竹渓・ちくけい)に招かれたためだ。

亡き母への想いを捨てがたく、この地に吸い寄せられた事情もあったのかもしれない。そう考えると、夏河の句には母への郷愁も込められているように感じられる。天橋立や宮津湾、大江山など恵まれた自然環境に身を置き、句作に励む。俳譜の仲間にも恵まれていた。竹渓や、宮津俳壇のリーダーである真照専任職、鷺十(ろじゅう)、無縁寺住職の両巴の3人とは、寺が近かったこともあり、互いに刺激し合った。竹渓や鷺十ら地元の俳人たちと、長句(5・7・5)と短句(7・7)を連ねる連句を詠み、蕪村が書き残した歌仙草稿「はしだてや」も地元の京都府立丹後郷土資料館に保管されている。母の故郷にゆったり抱かれ、俳譜仲間と濃密な時間を過ごすことで、文人として京都デビューする覚悟が固まる。この地で、45歳ころに京都で所帯を持つ相手、ともと出会った可能性も高い。それが還俗の後押しをする。遅咲き蕪村の条件は、こうして整ったのだ。

「五年生 おしりならべて 稲をかる」・・・蕪村

蕪村を育てた丹後。その後輩たちも負けてはいない。例えば与謝野町では、町内すべての小、中、高校が町内の俳人を講師に招いて俳句の授業を実施。その成果を町が主催するBUSON俳句大賞に投句して示している。昨年の応募者は961人で大賞を受賞したのは町立桑飼小6年の市田佳夢(かのん)さん(11)の右の句だ。俳句歴4年。「自分の行動を俳句にできたときがとても楽しい」与謝野町は全国の俳句ファンを対象にした「蕪村顕彰全国俳句大会」も2012年から開いている。事務局を務める与謝野町教育委員会の主任学芸員、竹下浩二さん(亜)によると、全国の応募者は800人ほど。蕪村の足跡はこんなところにも残っている。

◆俗姓で磨いた絵の深み

驚いたのは、蕪村が丹後に残した絵の多さだ。宮津市や与謝野町の古寺、京都府立丹後郷土資料館などで、およそ265年も前に措いた大きな屏風絵や掛け軸を直に眺めていたら、この地で精力的に絵の修業に取り組む姿が脳裏にくっきり浮かび上がった。与謝野町字滝にある施薬寺で「方士求不死薬図屏風」(六曲一双)を見せてもらった。住職の谷慈明さん(63)が先代の住職から伝えられたエピソードを紹介してくれた。与謝村から大坂に奉公に出た谷口げんが、奉公先の主人との間にできた子、蕪村を一時、施薬寺に預けた。そのときのお礼に、丹後での修業時代の蕪村が屏風絵を描いてくれた。その後、当時の滝村が飢饉に直面した際、寺がこの屏風絵を質入れして村人の飢えをしのいだ。質屋の土蔵で絵の中の童子が「早く帰りたい」と泣いたため、気味悪がった質屋が屏風絵を寺に返した。蕪村は村人にせがまれて描いた絵を施薬寺に集めて、すべてを境内で燃やしてしまったことがある。

自分の絵の未熟さを恥じての行動だったと、先代は話していたという。宮津市字須津の江西寺で見せてもらったのは「風竹図屏風」(六曲一隻)。一陣の風で揺れる小竹の葉を柔らかな筆さばきで描いた傑作。残念なのは中央や左側の墨がはがれてしまっている点だ。先代の住職、尾関義昭さん(91)によると、その昔、檀家の風呂場の前に置かれ、着替えの着物が掛けられていた。見かねた当時の住職がもらい受けて寺に保管することになったそうだ。宮津市字国分の京都府立丹後郷土資料館では、資料課歴史担当の技師、稲穂将士さん(28)らが手際よく「梅花図」(一幅)や「三俳僧図」(一幅)などを次々と壁にかけて見せてくれた。同資料館が1994年に開いた「与謝蕪村と丹後」展では、丹後時代の絵が27点も展示された。一連の作品から、丹後の修業により独特の滑らかな筆使いを身につけたことが分かる。

蕪村の研究者である関西大学文学部名誉教授、藤田真一さん(70)は、絵の修業の場として丹後を選んだ経済的文化的な事情に着目する。宮津を中心とする丹後は、当時、北前船の寄港地で、絹縮緬や漁業、遊郭などの産業が栄え、絵のスポンサーとなる寺や、酒造家などの富豪が多かった。その上、最高の文化都市、京都では無理でも、丹後の文化水準なら、屏風や襖絵などの大作でも、蕪村に注文が舞い込むチャンスがあったのではないか。そのチャンスを見つけるために、俳語で丹後の人脈作りにつとめていた節もある、というのだ。9月13日、京都国立博物館に展示されていた蕪村の最高傑作、国宝の「夜色楼台図」(一幅)と30分ほど対略した。冬の京都の夜。東山の連山や家々の屋根には雪が積もっている。ところどころの家の障子には、うっすらとした朱の明かりがともる。厳寒の世界を描いているのに、自分の胸の中がじんわりと温まるのを感じた。

直後に、蕪村の絵に詳しい館長の佐々木丞平さん(78)を訪ねた。丹後時代の作品と、独自の文人画の世界を究めた最晩年の作品との結びつきは? 「蕪村は狩野派や大和絵の弟子入りをせず、独学で絵を学んだ。丹後では画本で漢画や大和絵などを吸収しながら自分独自のイメージを作り描いている。丹後での既成の型にはまらない絵の修業が最晩年の蕪村画につながったのではないか」離俗。身近な言葉や暮らしの情景を用いて、そこから離れて深みを求める。目の前のものをじっくり観察して内に秘めた意味をつかみ、そこから形を描くところに、最晩年の蕪村の魅力がある、と佐々木さんは言う。自然や経済、人間関係に恵まれた丹後は「離俗の修業」にも最適の場所だったのかもしれない。足立則夫・鈴木健撮影

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