https://ssgyoshi.exblog.jp/14537842/ 【私の歴史講座「与謝蕪村と須磨」】
はじめに
須磨は古来から俳句と大きな関わりを持っています。多くの歴史を抱え江戸時代には1688年に松尾芭蕉が來所し、その約100年後には与謝蕪村が、また明治28年には正岡子規が須磨に来て います。私はこの「須磨学」でも、以前に「須磨の俳句」・「尾崎放哉と須磨」等を紹介させて頂 きました。そこで今回は、須磨に句碑のある有名な2句「笛の音に波もより来る須磨の秋」「春の 海終日のたりのたりかな」を残した与謝蕪村を取り上げてみたいと思います。
1、歌枕としての須磨
「須磨」とは、神戸市南西部の海岸の地。白砂青松の須磨浦に臨み、明石海峡を隔てて淡路島に対する。古来、風光明媚を以て明石と併称。月の名所。また、古関跡。在原行平流謫(るたく)地。 源平古戦場。源氏物語の巻名(須磨に流謫した光源氏の生活を描く)。筝曲の一つ、八橋(やつは し)検校(けんぎょう)(寛永・1624~1644頃活躍)作曲の組歌等を通して、歌枕として活用され ています。
2、与謝蕪村とはどんな人物か
藤田真一氏(関西大学文学部教授)の言葉を借りると「蕪村という人は、画業を世過ぎのなりわい とする一方、言葉を縦横に操る俳諧の世界に遊んだ。その絵は、当時流行し始めていた写生とは無 縁のふうを見せている。また、その俳諧は、明治の時代になって正岡子規らが言い立てたような写 生調の俳句とは別趣の味わいを持っている。表現された絵も句も現実ありのままには遠く隔たりが あり、この世の俗塵(ぞくじん)を脱して、想像の境地にはばたくものであった。蕪村の作品どれを とっても俗より発して、雅にいたる品性をそなえていると言ってよい。親しみと優雅さの両様が味 わえるゆえんである。蕪村の作品に触れて、やすらぎを覚え、愉悦(ゆえつ)にふけり、おかしさに 笑い、あるいは懐かしさに浸る事がある。たしかに、蕪村はいっときの清涼の心地に誘ってくれ る。さらに良い事には蕪村絵画の展覧会にいつまでいても見飽きが来るという事はない。」として いる。また、正岡子規は蕪村の句業の魅力を「積極的美・客観的美・人事的美・理想的美・複雑的 美・積極的美」と表現しています。
3、与謝蕪村は須磨にいつ来たのか
明和3年(1766)秋、妻と幼い子を京に残して、讃岐に旅立つ。その途次、彼はわざわざ須磨 に 立ち寄ったようです(旅行直前に愛弟子召波(しょうは)にあてた手紙および高弟几董(きとう) の句稿から)。また、夜半亭を継承した明和7年以降、蕪村が兵庫に赴いた事が記録にうかがえる のは安永6年(1777)の4月と、翌安永7年(1778)の3月、2回、同じく几董や他の弟子 と同道してのものですが、須磨に行ったという記事は見えません。しかし几董の俳句「須磨寺や軒 のしのぶに菫かな」から春、須磨寺に寄ったのは安永7年の折(前回の12年後)であった可能性 が高いと思われます
(藤田真一氏の「蕪村と須磨」より)
4、俳句「笛の音に波もより来る須磨の秋」について
① 須磨寺の句碑
句碑は源平の庭の前にあり、この句は「蕪村句集」所収の句です。当時から広く愛唱された有名 なもので、俳句は山形県酒田市の本間美術館蔵「蕪村自筆句稿貼交屏風」から、署名は京都角屋も てなしの文化美術館蔵(蕪村筆うき巣帖序文)より模刻し、平成18年10月に源平の庭修理に合 わせ建立されています(以前のものは昭和59年春建立で、下部に収容しています)。
尚、蕪村は須磨寺で次の俳句も詠んでいます。
「西須磨を通る野分のあした哉」
「月今宵松にかへたるやどり哉」
② 山形県酒田市本間美術館 「蕪村自筆句稿貼交屏風」の当句該当箇所
上の屏風には蕪村自ら書いた詞書「須磨寺にて」が書かれています。
この写真は尾形仂(つとむ)氏の書籍「蕪村自筆句帳の研究」から引用したものです。
③ この句の成り立ち
藤田真一氏の見解によると、「詞書を見る限り紛れもなく須磨で詠まれた句である、しかしさ まざまな角度からの推定によると1770年9月26日の月並み句会の席上、『名所浦』とい う、蕪村が引き当てた探題のもとに詠まれた句であろうと考えられている。この推定が正しいと すれば、蕪村は須磨へ行ったから句を作ったというのでなさそうである。あるいはその数年前の 巡歴の感激を回想しながらこの句を詠んだのかもしれない。」
④ 俳句の解説例
「須磨寺」:真言宗上野山福祥寺
「笛の音」:平敦盛が所持していた青葉の笛(平家物語では小枝の笛)、幻想のうちに聞く「笛の音」であろうか。
「波もより来る」:能の名曲「松風」から引用(「よる」は「波の寄る」と「夜」の掛詞)されているかとも言われるが、ここは素直に「波が寄ってくる」で良いのでは。
「須磨の秋」:句会が9月なので季語の秋を入れたのは当然と思われるが、蕪村が須磨では、芭蕉・行平・源氏の君を思い浮かべたのに違いない(…かかる所の秋なりけり等)。 「須磨の秋」とはこのような秋の深い哀れを受け継いだ言葉を想像しての事と思われる。
5、俳句「春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな」について
① 須磨浦公園丘の句碑
句碑は、山形県酒田市の本間美術館蔵「蕪村自筆句稿貼交屏風」から模刻し、高さ1.8メートル、幅1.5メートル、厚さ1メートル、重さ約5トンのひょうたん形の「どろかぶり」という仙台 石で、速水史朗氏の彫刻により、昭和59年4月26日建立されました。また、この句碑は須磨寺 正覚院の三浦真厳住職が関係者に働きかけて実現したものです。
句碑 解説碑
② 山形県酒田市本間美術館 「蕪村自筆句稿貼交屏風」の当句該当箇所ここには詞書がありません。これも尾形仂(つとむ)氏の書籍「蕪村自筆句帳の研究」から引用。
③ 尾崎康工 安永2年(1773・8)「俳諧金花伝」の当句該当箇所
この書のみが「須磨の浦にて」と詞書を付けています。富山県立図書館のネットより引用。
④ 暉峻康隆(早稲田大学名誉教授)氏の除幕式(昭和59年4月26日)での講演
蕪村が46歳(1761年)頃、初めてこの句を発表したころはまだ俳人としては無名だった。
「須磨浦にて」という詞書きは後に別の俳人が書き加えたものだが、蕪村の後援者が灘と兵庫にい たため、この辺にもよく来ていた。この句に最もふさわしい場所だ、と講演しています。
⑤ 藤田真一(関西大学文学部教授)氏の見解
次の「金花伝…1773年編」以前に書かれた書にはどちらも詞書が無い。
「俳諧古選」1763年刊 蕪村と同門の友人嘯山(しょうざん)の編
「其(その)雪(ゆき)影(かげ)」 1772年刊 蕪村の高弟几董の編
尾崎康工は何によって、この前書を付したのだろうか。あるいは編者のサカシラなのだろうか。蕪 村が須磨の浦に遊んだ最初の機会は、1763年よりも少し後の事であった。その一方で、その時点 で仮に行ってなくとも、このような詞書があっても差し支えない、大事なのは、この句に「須磨の 浦にて」という舞台設定がふさわしいかどうかであろう。この句を理解するには困難な所は一つも ない。また、「須磨の浦にて」という詞書が、蕪村の意図を正確に伝えるものかどうかは定かでは ない。蕪村は、どこか特定の海浜ではなく、日本の海の何処にでもあるいわば普遍的な春の景を詠 もうとしたのかもしれない。けれども須磨の浦に立って見る、春の陽光に照らされながら静かにう ねりを描く海面は、まことに「ひねもすのたりのたりかな」であるにちがいない。
⑥ 俳句の解説例
「終日(ひねもす)」:一日中。春の一日(冬の短日に対し永き日)であることが情緒をかもし出している。
「のたりのたり」:「のたり」は広辞苑によると「ゆるやかにうねるさま」で、その繰り返し。 擬態語を大胆にかつ直截に用いた所がこの句の評価。
「かな」:終助詞で感嘆の意味に使われ、「…だなあ」と前の言葉(今回は副詞の「のたりのたり」)を強調している。よって、柔らかい春のひざしを受ける緩やかにうごめく水面、その単調さが一日中続いている事でしょうか。
6、与謝蕪村略年譜
(和暦) (西暦)(年齢…数え年)
享保 元年 1716 1 摂津国東成郡毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)に生まれる。
20年 1735 20 このころまでに、郷里を離れ江戸に下る。
元文 2年 1737 22 夜半亭早野巴人(はじん)(宋阿)俳諧を師事、日本橋本石町に内
弟子として住む。
初号「宰(さい)町(ちょう)・宰鳥」。
寛保 2年 1742 27 巴人死去。以後関東一円を遊歴、また奥州にも赴(おもむ)く。
延享 元年 1744 29 宇都宮で歳旦帳を編集。はじめて蕪村の号を披露する。
2年 1745 30 結城の早見(はやみ)晋(しん)我(が)死去、追悼詩「北寿老仙をいた
む」を捧げる。
宝暦 元年 1751 36 8月、上洛。
4年 1754 39 丹後の宮津下向。浄土宗見性寺(けんしょうじ)に滞在。
7年 1757 42 9月、帰洛。しばらくして与謝氏を名乗り、また結婚する。
明和 3年 1766 51 6月、三菓社句会開始。9月、讃岐に赴く。
5年 1768 53 4月、帰洛。ただちに 三菓社句会を再開する。以後、烏丸四条下
がる付近に居住。このころ画号「謝春星」「謝(しゃ)長庚(ちょう
こう)」。
7年 1770 55 3月、宗匠(そうしょう)立(りつ)机(き)。同時に夜半亭二世を襲
8年 1771 56 8月、池大雅との合作「十便十宣図」(国宝)を描く。
9年 1772 57 冬、夜半亭第一撰集「其(その)雪(ゆき)影(かげ)」刊行。
安永 2年 1773 58 秋、連句集「此ほとり」、第二撰集「あけ烏」を刊行。
5年 1776 61 4月、洛東金福寺境内に芭蕉庵の再興を発企するとともに、写経
社会を結成。4月13日、池大雅死去、享年54。秋、第三撰集
「続明烏」刊行。冬、娘くの結婚。
6年 1777 62 2月、春興帖「夜半楽」刊。集中に「春風馬提曲」所収。4月以
降「新花摘」執筆。5月、くの離婚。また弟子大魯大坂を退去
して、兵庫に転居。
7年 1778 63 3月、几董とともに兵庫に遊ぶ。11月、大魯没。このころから画
号「謝寅」を用いて、名作を多く描く。また数々の「奥の細道
図」を手掛ける。
9年 1780 65 冬、弟子几董との両吟歌仙集「ももすもも」刊。
天明 元年 1781 66 5月、芭蕉庵竣工、記念句会。
2年 1782 67 3月、吉野へ花見。夏、撰集「花鳥篇」を刊行。
3年 1783 68 3月、名古屋の暁台が主催する芭蕉100回忌取越句会に出座。9月、
宇治田原に遊ぶ。初冬、病臥。12月25日未明逝去(せいきょ)。
4年 1784 1月、金福寺に埋葬、追悼集「から檜葉」刊。12月、几董撰「蕪村句集」刊。
7、参考文献
「須磨寺 -歴史と文学―」の「蕪村と須磨」 藤田真一 1987年
「蕪村」 藤田真一 岩波新書 2000年
「須磨寺と碑・本」 大本山須磨寺 塔頭 正覚院 1995年
(正覚院代表役員 住職 三浦真厳)
「金花伝」 藤田康工 富山県立図書館所蔵(ネットより)1773年
そのほか「蕪村自筆句稿貼交屏風」「蕪村全集」「金花伝」等
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