くの 与謝蕪村の娘(父に熱愛された不運な娘)

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四十半ばで生まれた子

”くの”に変わったところがあると言えばただ一つ、彼女が蕪村の娘だったことである。

みどり子の 頭巾眉深(まぶか)き いとをしみ

深々と頭巾におおわれ母の背で憩う幼児_そのみどり子に注ぐ蕪村の熱い視線は、そのまま一人娘、くのに向けられたものだった。くのはこの父のいとおしさを一身にうけて育った。蕪村が妻の”とも”をめとったのは宝暦八年(1758)ごろ。彼が「龍宮三年之客遊」と語った丹後滞在を切り上げ京に帰って間もない時分である。ほどなく一女が生まれた。くの。父、蕪村四十の半ばになってはじめて得たわが子だった。

それから数年後、明和三年(1766)秋、画業で讃岐に旅立つ蕪村の気がかりは留守宅に残す母子のことだった。出発に先立ち、彼は等持院に住む門下の召波(しょうは)にも繰り返して頼んだ。必ず必ず留守宅を訪ねてやってほしい_と。

四国と京の間を往来しながら二年後の四月、彼が四条烏丸東入ルわが家に帰った時、くのはもうかわいい少女に成長していた。召波から贈られた人形を抱きしめ飛び上がって喜ぶくの。その子の様に目を細める蕪村・・・。早く父母を失い、若い日をさすらいのなかで暮らした彼だからこそひとしお、幼い娘に身に染む「骨肉の愛情」を感じるのだった。

その時節、蕪村の家庭は彼自身の表現に従うなら、年末の懸鳥(借金取り)どもを正月用に調えた鱈の棒を振り回して追い払う・・・差し迫った暮らしぶりだった。それでも娘のこととなると別格である。次第に女らしくなるくのに、蕪村は本業の絵の手ほどきはもちろん、手習いや琴の稽古にとしきりに通わせた。

手習いに行く娘の足の冷えを気にしては、革製の足袋を特別に註文。また自分でも琴に打ち込んだらしいくのが、家に戻ってから熱心に弾く寒中のおさらえに、耳やかましさに閉口しながらも上達ぶりを喜ぶ蕪村。いつの世も同じ娘をもつ父の姿だった。

 半年で離縁の箱入り娘

 秋の夕べ 袂して鏡 拭くをんな

安永五年(1776)61才の蕪村の作とされる。

秋の夕暮れ、袂でそっと鏡の曇りをぬぐう女は、あるいは蕪村がなじんだ小糸、お雛らの”あそびめ”だったかもしれない。だが、そのつややかな女の姿に、この年12月嫁入る娘、くのを重ね合すこともできよう。

彼女は子供の頃から持病ともいえる腕の痛みがあった。それがこの安永五年二月にも再発、琴の稽古もはかばかしくなかった。娘の病気を案じる蕪村は、宮川筋松原下ルの医者にも連れ、九月の末になってようやく、くのの腕は回復した。

一方、蕪村も前年の春以来とかく病気がちだった。薬三昧で日を消すことが続き、五年の六月には絵筆をもつ身の命でもある右手がしびれ「中風か」家中驚く騒ぎもあった。

わが身にとりついた老いが次第に重みを増すのに心せかれ、一時も早く一人娘の花嫁姿を見て安心したかったのだろう。五年十二月の初め、父はくのを嫁がした。彼女は15才になるかならぬかだった。嫁入り先は市中の仕出し料理屋。

その折、仏光寺烏丸西入ルに移っていた蕪村の家でもにぎやかに婚礼の披露が行なわれた。画家でもある蕪村は華やかなことが大好きだ。三十数人の客に舞妓五、六人。琴の名手も交え「美人だらけの大酒宴」に、その後五日ほどは主人も泥のように大くたびれの盛宴だった。

「良縁在之、宜所へ片付、老心をやすんじ候」蕪村がしるべきに書き送ったくのの結婚だったが、破局は思いがけなく早かった。

嫁いで半年足らずの安永六年五月には、くのは早、実家に引きとられた。父親蕪村の言い分では、先方の親がもっぱら金儲けだけの強欲爺々で、くのも先方の家風になじまずふさぎ込んでノイローゼ気味。「いやいや金も命もありての事」娘不憫さに取り戻した・・・と。

先方にも言い分はあろう。伸びやかな蕪村の家で大事に育て上げられた箱入り娘には、料理家業に必要な人付き合いのすべも知らず、また丈夫とはいえない体も忙しい婚家には不向きと思ったのかもしれない。

ともあれ娘の離縁は、すでに還暦を越えた蕪村には手ひどい打撃だった。ちょうど長雨のうっとうしい季節だった。破婚のいきさつをつづった彼の手紙にこの一句がある。

 さみだれや 大河を前に 家二軒

満々とみなぎる大河に面し、降り続く雨におびえるようにより寄り添う小家の不安なイメージは、そのまま絵筆をとる力もなく、途方に暮れた蕪村の家のように通じていた_。

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 門弟に娘の行く末を託す

結婚に破れたくのは、もう昔の人形に喜んだ少女ではない。父にごく素直だった娘が、今は面と向かって言い逆らうこともあった。「さてさてにくき者」娘の”過言”に腹立てながらも、断ち切れぬ肉親の情に懇々と諭す蕪村には、不運な娘を哀れむ父の悲しみがにじんでいた。

 もっとも「洒々落々(しゃしゃらくらく・さっぱりとしてまったくこだわりのない)」とした人柄の蕪村だ。娘のことに心を閉ざされてばかりいたのではない。かねてなじみの遊女、小糸のもとに居続け、門下の長老、樋口道立の意見に老いの面目を失うなど、相変わらず老境の花を咲かせもした。無論それこそ、晩年の十年ようやく結実した彼の芸術_俳諧と画業を仕上げる滋養だったのだが。 天明三年(1783)春、妻や娘ともども嵯峨の花見に遊んだ蕪村は、九月に宇治田原でマツタケ狩りを楽しんだ後、病の床についた。暮れも迫った十二月の二十日を過ぎて病勢は悪化、付ききりの妻ともや、娘くの、それに月渓、梅亭ら門下の不安は増した。 病床の蕪村の気がかりは、その後まだ縁つかぬくののことである。「ながらん後はそこら二三子が情もあるらん」_看病の月渓らに、その行く末を頼む蕪村が哀れだった。

二十四日の夜は静かだった。病状は収まったように見えた。だがそれは尽きかかった命の日の最後のまたたきだった。

 明けて二十五日未明

 しら梅に 明る夜ばかりと なりにけり

 の吟を残し、六十八才の蕪村は眠るように、白梅の香に包まれた彼岸の世界へ天生を遂げた。

 その後、妻のともは髪を下ろし、清了尼として三十余年を過ごし文化十一年(1814)三月に世を去る。遺言のまま彼女は洛東・一乗寺・金福寺の蕪村の墓に葬られた。

 父蕪村が最期の床で聞く末を案じたくのは、やがて月渓らの世話で再び縁付いた、と伝えられる。

 しかし、その再度の結婚で、くのが蕪村の最後までの気がかりを吹き払うほど、幸せをつかんだかは明らかでない。