うつと闘った3年の日々からの贈り物

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【うつ病と闘った3年間の日々からの贈り物 6】 より

うつ病者の多くは、外から見て病気とわからない。自分では背筋が伸びなくなって猫背で歩いていると思っていても、外から見てそうでもないらしい。

自分では笑いが消え、頰がこけ、目玉飛び出た形相していると感じていても、外から見ると普通らしい。うつ病であることを秘密にしたいわけではなかったが、「うつ病です」と告白したところで、相手の共感が欲しいわけでもないし、相手が何かできるわけでもない。

逆に相手が、何か気の利いたことを言わなければと戸惑っている様子を見るのも辛かったので、ごくごく近い人以外には言わなかった。
私はアメリカで80年代はカリフォルニア州の子ども虐待・DV関連の専門職研修のトレーナーを仕事にし、90年代はカリフォルニア大学でセクハラその他の人権問題、多様性のトレーナーを仕事にした。トレーナーというのは、そのテーマで教育、治療プログラムを開発し、それを専門職に教える仕事だ。

それが私のキャリアとしてのアイデンティティなので、日本でその仕事を続けるためにエンパワメント・センターを設立した。

うつ病に罹患したばかりの頃、私はエンパワメント・センターで企画した丸一日(8時間)または2〜3日間の集中トレーニングを月に少なくとも2度は開催していた。

各研修には、全国各地から50〜60人の人が参加した。

1日8時間の参加型の研修をリードするのは、元気なときでもかなりの体力と集中力と参加者への配慮という心的エネルギーを必要とする。

それでも私は研修を実施し続けていた。トレーナーというアイデンティティを失いたくなかった。それをやめたら、うずくまって立ち上がれなくなってしまう恐れを感じていた。

うつ病に罹患してすぐにやられた機能が、創造力(クリエイティビティ)だった。

新しいこと、ユニークな発想などが全く生まれなくなった。それまでやって来たことを繰り返すことはできた。それまで積み上げて来た知識や論理展開はできた。それまでと同じ内容の研修を実施することはできた。私の調子の悪さは参加者の大半にはわからなかったようだ。内側で広がり続ける寒々とした荒野をそばで感じていたスタッフたちは何も言わずに、ただ無言のサポートを増やしてくれていた。

Aさんは私の研修の日程が決まると優先的にスケジュール帳に書き入れ、その日は車を出してくれたり、研修中も、「お菓子係やるよ」と笑って、参加者へのケア役のために後ろに丸一日座っていてくれた。全てボランティアで。

約7時間を立ちっぱなしでこなす私にとって、後ろに座っているその人の存在はフラフラ揺れる船体をつなぎとめてくれている錨(アンカー)のようだった。その姿が後ろになかったら、研修を続けられなかったかもしれない。感謝でいっぱいなのに、私にはそれを感じる感情がない。頭で感謝して「ありがとう」と言っているだけなのだ。

そういう自分がまた辛かった。

スタッフのBさんは、週に一度ブロッコリーと蟹を和えた少し高級なお惣菜をデパ地下で買って来てくれて、私とそれを一緒に食べることを続けてくれた。

どんなことを話したのかは覚えていないが、多分「眠れない」「いつも寒くて」「何も決められなくて」みたいな他の人には言えない困り感をダラダラと訴えていたかもしれない。

Bさんの思いやりに大感謝なのに、やっぱり頭と言葉で感謝しているばかりだった。

心が動かないのだ。

ロボットとはこういう感じなのかなと思う。鉄腕アトムみたいに外から見ると人と同じように感じ、考え、行動しているように見えても、実は感情は動いていない、みたいな。

感情が湧かないとはなんと苦しいことなのだろう。世界から色が消えてしまった。

スタッフのCさんは、仕事が終わると30〜40分の全身マッサージをしてくれた。「最近、マッサージのやり方を習いに行ってる」と言ってたから私のために習ってくれたのかもしれない。すごく上手だった。プロのマッサージには何度か通ったが、彼女のは格別だった。

私の身体のどこがその人の手を必要としているかを直感的に知っているかのようだった。

とりわけ足の裏は、身体全体が解きほぐされる気がしていつまでもやっていてほしかった。

前にも書いたが、嬉しい、悲しいなどの感情は死んでしまったように動かないが、どんな小さなことにでも恐怖と不安が起きるのがうつ病の特徴だ。

マッサージが終わってしまうのが怖かった。今この瞬間は相手の手の暖かさを感じ、相手の心の優しさを感じていられる。でも15分後、20分後にこれが終わる時がくる。その時が怖い。再び身体は冷たくなり荒れ果てた荒野が内面を支配するから。

他にも何人か気にかけて訪れてくれる人たちがいた。誕生祝いだ、お花見だと言っては美味しい物をいっぱい持って集まってくれた。還暦祝いにと4メートルの手織りショールをプレゼントしてくれた。機織り機のある家に交代で立ち寄ってはカタン、カタンと織ってくれた合同作業の贈り物。なんと暖かい人たちだろう。なんと美しい優しさのタピストリーなのだろう。そんな友人たちの暖かいシャワーを浴びても溶け出さない石のような感情が恨めしかった。

心理医療機関では症状が悪化するばかりだったが、今思うと、こうした最も身近な友人たちの無言の優しさに支えられて、私はなんとか自分を維持していたのかもしれない。


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うつ病と闘った3年の日々からの贈り物 14

ハワイ島のヨーガ・インストラクター・トレーナーのステイシーは年齢は30代後半と若かったが、成熟した先生だった。カナダ ケベック州法の元で16歳で成人して、家を出て自立したという。

「Emancipation自立」というケベックの法律は、16歳以上のティーンに親から独立して大人と全部ではないがほぼ同じ権利を行使する権限を与えるものだ。ステイシーによると、父親から母親への暴力が常習化していて、面前DV被害を受けていた彼女は、自ら家を出て独立することを決めた。「自立した子ども」という「Emancipation自立」を裁判所が認定すれば16歳に達したティーンは親と住むことが義務付けられない。自分で署名できる公文書も多い。単独で社会保障も受けられる。

なんと羨ましい。

同時に、大人との性行為における同意年齢もケベックでは16歳である。大人が16歳以下の子どもとセックスをした場合、たとえそれが同意の上だとされても、大人は性犯罪の罪に問われることになる。

日本はそれが13歳だ。13歳以上の子どもに強制性交しても、その子が嫌だと言わなかったならば罪にはならないわけだ。当時私が仕事をしていたカリフォルニア州では18歳だったので、日本の13歳のあまりの年齢の低さに驚き怒り、その変更を2000年の児童虐待防止法成立過程の中で主張したが、当時は性的虐待の法的定義に関心を持つ人はなく、時期早尚。誰にも顧みられない主張だった。日本には親権の縛りから自由にならざるを得ないハイティーンが自立するためのemancipationのような法律の保護がないだけでなく、13歳以上のティーンを性的虐待から守る法律もない。

話がそれた。強制性交等罪の今年の改正論議の中でその年齢引き上げになることを願う。

4ヶ月間のインストラクター養成トレーニングは、それはそれは辛かった。

何もできない、何もしたくない、生きていてごめんなさいの重度うつ病の私なのだから、朝、車で40分走って、ステイシーのスタジオまで着くことはできてもそのあとの社交がつらい。夕方まで生徒4人、先生一人の5人で密に過ごすのに、私だけ顔色悪く、笑わないし、おしゃべりもできない。浮いてしまっている自分がわかるのに、どうすることもできなくて、ただただ瞑想とヨーガとチャントだけをしていた。今思えば、瞑想とヨーガのトレーニングだったから脱落しなかったのかもしれない。言葉によるコミュニケーションをミニマムに済ませる世界だったからだ。

サンスクリット語のマントラ(瞑想の祈り)を覚え、チャント(詠唱)することにトレーニングの時間を多くとってくれたことは大いなる救いだった。

キルタン(唄う)ヨーガの歴史は長い。千年、二千年の伝統が探し出した癒しの効果のあるマントラの音のバイブレーションが脳に響く。シンプルなマントラをいくども繰り返すキルタンは社交できない私のストレスを解放し、内なる平和を保障してくれた。

ステイシーは先住ハワイアンのハワイ語の唄もいくつも教えてくれた。

その圧巻が、OLI  ALOHAだ。

「アロハ」という世界中だれでも知っているこの言葉の意味は、普通は「ハロー」の挨拶として知られているが、実は、ハワイアンの伝統の5つの叡智が込められた深い言葉。

OLI ALOHA(アロハの唄)

A Akahai E Na Hawaii 優しさ

L Lokahi A Kulike   ユニティー

O ‘Olu ‘Olu Ka Mana’o 明るい心

H Ha’aha’a Kou Kulana’ 謙虚 

A Ahonui A Lanakila   持続、忍耐心

Aloha E    Aloha E    Aloha E

後に、アロハ・キッズ・ヨーガを日本で始めた時、私はアロハの言葉に埋め込まれたこの5つの叡智に導かれて毎回のクラスをすることを誓った。

A  自分の身体に優しいヨーガ、自分の心に優しいヨーガ。そのために自分の身体に耳をすます。

L  心と身体と思考と精神のユニティ、ハーモニー ヨーガというサンスクリット語の言葉そのものの意味がunityつながる、一体となる。lokahi(ハワイ語)と同じ意味。

O  誰もが幸せになるために生まれてきた。今を幸せに、明るく。

H  大地(アイナ)と天(ラニ)  自然への謙虚さ。

A  いのちをケアするためには忍耐心と持続が不可欠。ヨーガを毎日する持続の心

この歌を作ったハワイ先住民の教育者アンティ・ピラヒ・パキ(パキおばさん) (1910~1985)については、その見事な生き様を「アロハはいのちの多様性の言葉」と題して書いたことがある。そのエッセンスは次回載せたい。今は、ALOHA KIDS YOGA™の子ども生徒向けに作った小冊子から簡単に引用しよう。

「パキおばさんは1970年からハワイの先住民が何世代にもわたって大切にしてきた生きる知恵をアロハの唄にして伝えはじめました。それがオリ・アロハです。そして『世界の平和を求める人々はやがて、ハワイに目を向 けるでしょう。なぜなら、ハワイにはその鍵がある。その鍵こそがアロハです』と 予言しました。いらい、このOli Alohaは先住ハワイアンのスピリットを伝えるうたとして広く知られるようになりました。

パキおばさんと先住ハワイアンの伝統を伝え続けてくれた人々に感謝です。」

(小冊子3「ALOHA KIDS YOGA™」森田ゆり著 エンパワメントセンター刊2018年より)

クラスでは言葉で説明はしないが、最後に、必ずこの唄を唱題する。

児童養護施設の私のヨーガクラスの子どもたちは、この唄を歌うのが大好きだ。

四月からのZOOM無料ヨーガクラスに週二日休むことなく参加してくれた小3のMちゃんは、ZOOMの参加者ビューの小さな四角からはみ出さんばかりに、まさに‘Olu ‘Oluの明るい喜び表情たっぷりに毎回この唄を歌っていた。

「学校で嫌なことがあっても、アロハの唄を歌うと心が晴れるの」と参加者ビュー越しにそう言っていた。


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【うつと闘った3年の日々からの贈り物 15】


4ヶ月間のコースを修了し、試験を受けてヨーガインストラクターの資格を私が得たことは、実は驚くべきことだった。

その間ずっと、何もする気になれない無力感にどっぷりとはまっていたからだ。ヨーガコースの後半になっても、毎朝、毎朝、行く行かないで葛藤する苦しみを続けていた。夜の眠りは相変わらず浅かったし、体はいつも冷たく寒くの症状は軽減しなかった。実際、ステイシーのヨーガスタジオでの修了式セレモニーの最中も、あ〜あ、ヨーガもやっぱりうつ治療には効果なかったと暗い気持ちになったことを覚えている。

それでも途中で投げ出さず最後までやり続けられたのはなぜだろう、と今改めて考える。

高額の受講料を前払いしていたから、やめたらもったいないからか。いや、そんなことではない。それまで、どれだけ高額の薬を購入し、ほとんど摂らずに捨てるという行動を繰り返したか。

では何が違ったのだろう。

絶望。

唯一の違いはヨーガコースの4ヶ月間は絶望を感じることがなかったこと。

日本でもハワイでも、精神科医による薬物療法やカウンセリングを受けて数回目で襲われた絶望、ソーシャル・ワーカーの「あなたはまるで石のように動かない」とコメントされて奈落に突き落とされた時の絶望。

認知行動療法のワークシートをいやいや何枚もやらせられた時の絶望。絶望の恐怖の苦しみを何度も味合わされた。

うつの絶望は死につながる。死にたい衝動、消えたい衝動を激化させる。

私は自分の体験から、うつ病における「絶望感」が果たすダメージは特筆すべきものだと考えている。

この連載の初めに、うつ病は「心の病」ではない。「脳の病」でもないと書いた。それは全身の病であり、「死に至る病」であるとも書いた。

うつ病の絶望感がもたらす破壊的な衝動は、自由意志を超えたところにあり、制御できないままに、本人を自死へと追いやってしまう。

インストラクターの資格を取って2週間後に、TuTuHouse でヨーガクラスを教え始めた。

金曜日の午前11時から正午。この時間しか空いていなかった。平日の朝にこれる人といえば高齢者だけで、私の生徒10人全員が超高齢者だった。それも膝が曲がらない94歳の男性。去年妻が死んでからずっと家にこもっていたうつの80代男性。車椅子で参加している70代の女性。いつもつらそうな暗い顔している70代の女性、等々。

その人たち一人一人のニーズに応えるヨーガをどうすれば良いのかはインストラクタートレーニングでは教わらなかった。

必死で勉強し、対応策を試行錯誤し、自分で練習してみてはクラスに活かすという作業を続けた。のんびりしている暇はなかった。

そして参加者の高齢者たちは、私の懸命の努力に答えてくれた。

心身の不調を抱える一見パッとしない高齢者ばかりのクラスを教え始めたことによって、その後まもなく私が開発するアロハ・ヒーリング ヨーガは心身のヒーリングのためと目標がピタリと定まった。

そして、高齢者ばかりのクラスを教え始めたその日から、私のうつからの回復がまさに驚異のスピードで進んだ。