http://chisoku.jp/about/chisoku/ 【知足とは~吾唯知足~】 より
吾唯知足(ワレ、タダ、タルヲシル)
知足(ちそく)とは足るを知ること。自分の身分をわきまえて、むさぼりの心を起こさぬこと
<禅林句集より>
館名について
中国で文化大革命終焉直後、中国へ行く機会が多かった。
中露国境の宿舎の夜は長い。今のようなカラオケもなく、麻雀も原則禁止のような状態なので、卓球をしたり、長談議以外、夜の過ごし方はない。
親しくなると、通訳を介しても結構、内緒で当時の政治批判や組織や職場の幹部への酷評も聞こえるようになる。しかしそのころはまだ、孔子、孟子もほとんど語られることはなかった。
そんな中でも、中国の名言、名句などを随分教えてもらった。漢字の発祥の国なので、日本と同じものが多い。私が比較的若いときから、大好きな言葉「知足」。特に昭和四十年代初め、学校町の新潟県建設業会館落成記念の雲洞庵住職が揮毫された「知足」の壁掛けを頂いてから一層好きになった。「知足」はカウンターパートたちと中国辺境の夜の長談議の話題であった。記憶違いでなければ、確か「知足長楽」文字通り、足るを知るものは楽しみ長しや、また、「知足常楽」とも言っていたようだ。
もう随分前になるが、知事だった君健男さんの葬儀に黒竜江省から参列した対外友好協会副主任の李青春さん、それに王英春さんが副秘書長の孫克倹さんを伴って、夜、三人がお忍びで、タクシーを使ってわが家へやって来た。そのときビールを酌み交わしながら、色紙に黙って「知足」と書き、さらにつけ加えた。「吾唯知足」である。中国の人々もこの「知足」は好きらしい。
龍安寺 知足の蹲踞つくばい
また、独特な手法で日本画壇をリードする有名な画家、平松礼二さんが来港されたとき、ミニ美術館の設立の構想を申し上げ、二人で館名は「知足」で意気投合した。平松さんは早々と揮毫をして、さらにそれを表具までして送って下さった。その後、福井で繊維会社などを多角経営する前田さんが来られた。大阪大学工学部出身の彼もなかなかの雑学者。雑談のうちに、話は「知足」となり、「足る知れば辱められず、止まる知れば殆からず、以って長久なるべし」と孟子を引用する。また開館間もない頃、「名は『知足』です」と名乗る新潟市内の会社勤めの知足さんがわざわざご夫婦で、また、知足ちゃんという少年が9歳の誕生日に知足美術館を訪れたことを聞いた。一度、同名のところを訪れたかったとの事だ。あれから十数年、知足ちゃんも立派な青年になっていることであろう。「知足同好のメンバー」がまた増えた。嬉しかった。
全国稀にみる大地主の豪邸をはじめ、いろいろ展示物のある新潟市江南区沢海(旧 中蒲原郡横越町沢海)の北方文化博物館(通称:豪農の館)には、県外からのお客様が来ると、必ず案内する。何回訪れても、その都度新鮮なものを発見する。初めてのお客様も規模などでびっくりするが、私の我流でたどたどしい説明にもそれなりに感激する。先日の訪問の際、出発までに時間が少々余ったので、「何か新しいものは」と売店をのぞいた。「吾唯知足」を焼印し、杉板で造った素朴な菓子器を見つけた。「こんなところにこんなものが。さすが、伊藤文吉館長だ」と思った。
三月初め、レクイエムの演奏会があり、合唱団のテノールを受け持つ、かつて第四銀行に勤務していた新潟市郊外の亀田町在住の井浦了さんからご招待を受けた。伊藤館長ご夫妻と私たち夫婦二組とか。たまたま隣合わせになり、開演前や休憩時間を利用して、亡くなった津田禾粒かりゅう先生や今も元気の良い茅原一也先生のことを共通の話題として歓談した。その際、決しておねだりしたのではないのに菓子器のことを申し上げたら、翌日早速送っていただいた。
前略
先般、県民会館でのレクイエム音楽会で偶然隣の席に座らして頂きまして、茅原、津田両先生よりはよくお話を聞いておりまして、意外な所でお会いして驚いております。
所で「知足美術館」を建てられたのが中山さんである事も知らずに居りました。これも何かの御縁と思い、私が新潟竹風会発足記念に作りました、私の山の材料で作った「知足菓子器」を送らせて頂きます。お使いください。
伊藤文吉
中山輝也様
と手紙にしたためてあった。それで大物著名人一人を知足同好の士にまたまた勝手に加えることができた。共通しているものは禅林句集にもある通り、「自己の分際をわきまえ、貪りの心を起こさぬこと」である。これからもこの気持ちを忘れずに進みたいと思う。
中山輝也著「ミニ美術館 知足美術館おぼえがき」より一部改編
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