https://www.kanto88.net/24 【第二十四番霊場 宮應山 生福寺】 より
【 真言宗智山派 】
本 尊:大日如来
真 言:おんばざらだとばん
御詠歌:のちのよを ねがえばまいれ しょうふくじ だいしのひかり いまもとうとき
寺院紹介
当寺は宇都宮のほぼ中心部に位置しているが、大通りから一筋北へ入った道路沿いのため比較的静かである。永享10年(1438)、宇都宮等綱の開基。清原高盛の祈願所として創建された。以来、醍醐光台院末の中本寺として末寺十七ヵ寺を有していた。
古文書によると、江戸時代、城主転封の際は当寺の客殿において城郭領地の引き渡し、大明神の造営等事務引継ぎが行われたという。文化11年の火災、戊辰の戦火、第二次世界大戦の空襲等により何度も堂宇を焼失し、現在の本堂は昭和49年に再建されたものである。
境内には宇都宮の鋳物師・戸室元蕃作の市指定文化財の宝篋印塔、勤皇の志士、菊池教中の墓がある。参道の与謝蕪村の句碑は平成19年に蕪村顕彰会により建立されたものであるが、蕪村は28歳の時、芭蕉の足跡を尋ね奥州の旅に出た際、寺町の佐藤露鳩宅に寄寓していた。
その折に「宇都宮歳旦帳」を編集、これまでは宰鳥と名乗っていたがここで初めて蕪村を号し、世に出て行ったと言われている。蕪村号誕生の地でもある。
http://urawa0328.babymilk.jp/haijin/buson/syoufukuji.html 【与謝蕪村ゆかりの地】
古庭に鶯啼きぬ日もすがら
宇都宮仲町に生福寺という寺がある。 宮應山生福寺 関東八十八ヵ所霊場第24番。
真言宗智山派の寺である。生福寺に与謝蕪村の句碑があった。
古庭に鶯啼きぬ日もすがら蕪村号最初の句だそうだ。
蕪村句碑の記
俳聖与謝蕪村は享保元年(1716年)に摂津国毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれた。後年江戸へ出て、烏山出身の俳諧師早野巴人(夜半亭宋阿)の門人となる。巴人没後、同門の砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼って結城に下り、以後約10年に亙って結城を中心に関東・奥羽一円を遍歴した。
寛保3年(1743年)、雁宕の娘で当時宇都宮の寺町(現・仲町)に居を構えていたといわれる佐藤露鳩の許を訪れて滞在し、翌寛保4年に、ここで初めて『歳旦帖』を編集発行した。『歳旦帖』の発行ということは、俳諧師として自立したことを表し、蕪村はこれによって生涯俳諧師として生きて行くことを示したのである。
この『歳旦帖』は、正式には「寛保四甲子歳旦歳暮吟追加春興句野州宇都宮渓霜蕪村輯」と表題したもので、普通『宇都宮歳旦帖』と呼ばれている。
この中に蕪村は、この碑にあるように
古庭に鶯啼きぬ日もすがら 蕪村
と詠み、それまでの俳号「宰鳥」を捨てて、新たに「蕪村」と名乗った。つまりこの宇都宮は、蕪村号誕生の地となったのである。さらにこの「古庭に」の句は、芭蕉の「古池や」の句に対抗しての、蕪村独立を宣言するという意味もあり、当地は蕪村にとって極めて記念すべき所となった。
平成19年4月12日 蕪村顕彰会 成島行雄撰文
https://groups.google.com/forum/#!topic/haikai/O8V-jCLDw4o 【蕪村句碑建立雑話】
成島 行雄(雪翁) より
この程念願の蕪村の句碑が建立された。思えば十年にもなろうか、県が主催したシニア大学とか称する講座で、ゆくりなくも蕪村の話をして以来である。
その時わたしは蕪村が若き日宇都宮に遊び、佐藤露鳩宅にて同士をつのり何回かの句会を催し、その句稿を集めて『宇都宮歳旦帖』を編纂し、そこで始めて「蕪村」の俳号を用いたことを述べた。ところが、その時参集した数十人の受講者の中で誰一人としてこの事実を知っている者がいなかったのであった。この事実にわたしは驚愕したというか、衝撃を受けた。
つらつら考えて見るに、これもまた止むを得ないところがあるのではなかろうか。と言うのは、こうした事実を一般に周知するような形が何もないからである。与謝蕪村が宇都宮に来たと言うことさえも、一部関心のある人を除いて全く知られていない。ましてや、その蕪村が『宇都宮歳旦帖』という本を編纂したことや、その中で従来使用していた「宰鳥」という俳号を捨てて、生涯使用することになった「蕪村」という号を始めて使用したなどということは存知されないのは当然なことであろう。
しかし、それでよいのであろうか。今から二百五十年も昔に、この『歳旦帖』に掲載された歳暮・歳旦・春興の三回の句会に参集した俳人は佐藤露鳩以下約三十人。そんなに多くの俳句を嗜む人が、この宇都宮にいたという事実。その句会の熱気に推されるようにして、多分蕪村も長らく使用していた俳号を改めたのであろうから、そうした市民の文化意識の高さをわれわれはもっと意識し、高く評価しなければならないのではなかろうか、と思われるからである。
誰もやらないとしたら、やってみるか。そんな考えから手を染めた仕事であった。幸い斯界の先達ともいうべき蕪村研究の泰斗丸山一彦先生とわれら数人で、蕪村の師である烏山出身の早野巴人の研究をやっていたので、これら仲間に相談し「蕪村顕彰会」を立ち上げることにした。そして「蕪村顕彰会」は平成十年五月に設立発起人会を開催し、蕪村の句碑建立を目指して募金活動を始めたのである。この活動は幸いにして多くの方の賛同を得ることとなり、予想外に順調に進んだのである。
かくして翌平成十一年十一月宇都宮二荒山神社境内に『歳旦帖』最初の一句である
鶏は羽に初音をうつの宮柱 宰鳥
の句碑を建立したのであった。ところがここで事業が一頓挫を来たしたのである。それは二基目の句碑をわれわれは宇都宮城址公園に建立しようと考えていたからに他ならない。それはこの顕彰会設立のとき、当時の市長である増山市長に陳情したところ快諾を得たという事情があった。そしてそれは二荒山神社に第一基を建立し、その除幕式に参列された次の福田市長にもその趣旨は受け継がれ、確約された。しかし、話はそれから一向に進展しない。間もなく福田市長は知事に転身され、話は一からとなった。こうして事務方と話の応酬を繰り返しているうちに、ほぼ九年の歳月が流れた。新しい市長に改めて陳情しようかという時になって、もう城址公園は思い切ろうということになった。このほぼ十年の間に、顧問であった手塚七木先生も、会長の丸山先生も他界され、そればかりか発起人の何人かも幽冥境を異にするということになっていたからである。
ところで城址公園を思い切ろうとした場合、さて次の候補地はどこか、が問題となった。「なぜここに建てるのか」と聞かれた時、明快な答えが出なければならない。そんな場所としてどこが考えられるか。苦慮した結果それは寺町(現在の仲町)以外はなかろうとなった。なぜなら『宇都宮歳旦帖』は、当時寺町に住していた佐藤露鳩宅で編纂されたと考えられるからである。七木先生も「露鳩の旧居としてまづ寺町が考えられ、生福寺を訪れた」(『七木雑記帖』)と言われているところから、わたしも当然のようにして生福寺を訪れたのである。幸い住職の塚田宗雄氏は旧知の間であったので、気兼ねなしに相談を申し上げることが出来た。住職は「当寺でよろしければ」と、二つ返事でご快諾をなされた。しかも通りから寺門を入ったすぐの所をご提供くださるという幸運にも恵まれて、建立場所問題は一挙に解決したのであった。
場所さえ決まれば後は一瀉千里で事は運ぶ。二月に石を探しに石屋の増渕社長、井上総合印刷の井上社長、それに連句会の原田さんにご同行願って神奈川県の根府川へ出かけた。そして予想通りの石を見つけることに成功した。タテ・ヨコほぼ一メートル六十センチの変型根府川石である。文字は二荒山神社と同じく茨城県筑西市の中村兵左衛門氏所蔵の、蕪村自筆といわれる『宇都宮歳旦帖』から拡大翻刻することとし、中村氏のご了承をいただいた。
原寸僅か三センチメートル程の小さい字を十五センチ角の大きさに拡大するのは至難の技ではあったが、さいわい井上印刷の技術で原文のもつ力と品格とを失わずに拡大された。これがまた石の店増渕の彫刻技術で立派に刻字されたのである。
四月十二日、前日までの悪天候はどこへやら、見事に晴れ上がった空の下、塚田師を導師として開碑供養が行われ、句碑は除幕された。二荒山神社の句が『宇都宮歳旦帖』最初の句で、しかも「宰鳥」の号で詠まれた最後の句であるのに対し、ここの句は『歳旦帖』最後の句で「蕪村」の号で詠まれた最初の句である
古庭に鶯啼きぬ日もすがら 蕪村
という句である。これは芭蕉の「古池や」の句に対比される蕪村立机の句と言われるものである。この句碑に隣接して「蕪村号誕生の地」という碑が建てられたのも印象深い。これで蕪村が来宇して、しかも「宰鳥」から「蕪村」へ再誕したことが鮮明化されたわけである。
「成島さんは親でも親戚でもない蕪村のことになんでそんなに夢中になるんだい」とひやかされて来たのだが、それは自分でも解らない。
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