季語が時鳥の句

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 ほととぎす晴雨詳しき曽良日記

                           大串 章

芭蕉『おくのほそ道』の旅に随行した曽良の日記は有名だ。しかし、『曽良旅日記』を単独で読み進める人は少ないだろう。たいていが『おくのほそ道』と場所を突き合わせながら読む。芭蕉の書いていない旅それ自体のディテールがよくわかり、いっそう臨場感が増すからだ。さて掲句だが、突然「ほととぎす」の鳴く声が聞こえてきた。そこでふと『ほそ道』の句を思い出したのだ。殺生石の件りに出てくる「野を横に馬牽きむけよほとゝぎす」である。手綱を取る馬方に短冊を望まれ、上機嫌となった芭蕉が「馬をそっちの方に引き向けてくれ、一緒に鳴き声を聞こうじゃないか」と詠んだ句だ。この日はどんな日だったのかと、作者は曽良の日記を開いてみた。いきなり「(四月)十九日 快晴」とある。眼前に、ぱあっと芭蕉たちのいる広野の光景が明るく広がった。作者の窓の空も、たぶん青空なのだ。推理めくが、ここに「快晴」と記されてなければ、この句はなかっただろう。「快晴」のインパクトにつられて、作者は日頃さして気にも留めていなかった旅日記の天気の項を追ってみた。と、実に詳しく「晴雨」の記述があるではないか。前日には地震があり「雨止」、翌日は「朝霧降ル」など。これだけでも後世の芭蕉理解に大いに貢献しているなと、作者はあらためて「曽良日記」の存在の貴重を思ったのである。……この読みは、独断に過ぎるかも知れない。実は掲句に触発されて『曽良旅日記』の天気の項を拾い読みしているうちに、作者は「ほととぎす」に触発されて曽良を開いたのだろうと思い、そうでないと句意が通らないような気になったのだった。『今はじめる人のための俳句歳時記・夏』(1997・角川mini文庫)所収。(清水哲男)


 谺して山ほととぎすほしいまゝ

                           杉田久女

久女の名吟として、つとに知られた句。「谺」は「こだま」。里ではなく、山中という環境を得て自在に鳴く「ほととぎす」の声の晴朗さがよく伝わってくる。読者はおのずから作者と同じ場所に立って、少しひんやりとした心地よい山の大気に触れている気持ちになるだろう。おもわずも、一つ深呼吸でもしたくなる句だ。作者は下五の「ほしいまゝ」を得るまでに、かなりの苦吟を重ねたといわれる。確かに、この「ほしいまゝ」が何か別の言葉であったなら、この句の晴朗さはどうなっていたかわからない。よくぞ思いついたものだが、なんでもある神社にお参りした帰り道で白い蛇に会い、帰宅したところで天啓のようにこの五文字が閃いたのだそうだ。となれば、句の半分は白い蛇が作ったようなものだけれど、白い蛇と言うから何か神秘的な力を想像してしまうのであって、詩歌の創作にはいつでもこのような自分でもよくわからない何かの力が働くものなのだ。ついに理詰めには行かないのが詩歌創作の常であり、とりわけて俳句の場合には、言葉はむしろ自分から発するというよりも、どこからか降ってくるようなものだと思う。作者が動くのではなく、対象が客のように向こうからやってくるのだ。やってくるまで辛抱強く待つ状態を指して、苦吟と言う。その苦吟の果てに、この五文字を感得したときの久女の喜びはいかばかりだったろう。咄嗟にあの白い蛇のおかげだと思ったとしても、決して頭がどうにかなったわけではないのである。『杉田久女句集』(1969)などに所収。(清水哲男)


 ほとゝぎす女はものゝ文秘めて

                           長谷川かな女

大正初期の作。当時の虚子の鑑賞があるので読んでみよう。「女といふものは男ほど開放的にし兼ねる地位にあることから、ある文を固く祕めて人にみせずにゐるといふのである。これが男の方だとたとひその祕事が暴露したところで一時の出来事として濟むのであるが、女になるとさうはゆかぬ場合が多い。それはもともと女が社會的に弱者の地位に在るといふことも原因であらうが、そりばかりでなく、元来女のつつましやかな、やさしげな性情から出発して来てゐるものともいへる。ほとゝぎすと置いたのは、主観的の配合で、ほとゝぎすといふ鳥は僅かに一聲二聲を聞かせたばかりでたちまち遠くへ飛び去つて姿はもとよりそのあとの聲も聞えぬ鳥である。さういふ鳥の人に與へる感じと、女のものを祕め隠す心持とに似通つた點を見出して配したものである」(『進むべき俳句の道』1959・角川文庫)。だいたいの解釈としてはこれでよいとは思うが、しかし、虚子の物言いはひどく曖昧だ。言い方を変えれば、諸般の事情に配慮しての鑑賞文である。かな女はこのときに、同じく「ホトトギス」の投句者であった長谷川零餘子の夫人であった。そのことは、虚子も承知している。承知しているばかりか「かな女君は長谷川家の家附きの娘さんであつて、零餘子君は他から入家した人である」と世間に「暴露」している。したがって、虚子が掲句に注目したポイントは、この鑑賞文にはほとんど何も書かれていないということだ。……なんてことを言う私のほうが下世話に過ぎるのかとも一瞬思ったけれど、そんなこともないだろう。淡くぼかしてはあるが、それでも相当な勇気をふるって投稿した作者は、このように鑑賞されたのでは不本意だったに違いない。与謝野晶子の『みだれ髪』が世に出てから、ゆうに十年以上も経っていたというのに……。かな女のライバルであった杉田久女は、虚子に同人除名という仕打ちにあったずいぶん後で「虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯」と詠んだけれど、虚子の「社會的」(「経営者的」と言える)なバランスを重んじすぎる感覚に無言ながら不満だった人は、けっこういたのではなかろうか。(清水哲男)


 脉のあがる手を合してよ無常鳥

                           井原西鶴

季語は「無常鳥(ホトトギス・時鳥)」で夏。作者は三十四歳のとき(延宝3年・1675)に、二十五歳の妻と死に別れた。そのときに、一日で独吟千句を巻いて手向けたなかの一句だ。西鶴の句を読むには、いささかの知識や教養を要するので厄介だが、句の「無常鳥」も冥土とこの世とを行き来する鳥という『十王経』からの言い伝えを受けている。妻が病没したのは、折しもホトトギス鳴く初夏の候であった。あの世に飛んでいけるホトトギスよ、妻はこうして脉(みゃく)のあがる(切れる)手を懸命に合わせています。どうか、極楽浄土までの道のりが平穏でありますように見守ってやってください、よろしくお頼み申し上げます。と、悲嘆万感の思いがこもっている。速吟の一句とは思えない、しっとりとした情感の漂う哀悼句だ。この後すぐに西鶴は剃髪して僧形となったが、仏門に入ったのではなく、隠居したことを世間に周知せしめるためだったという。二人の間の三人の子供のうち二人は早死にし、残った娘ひとりは盲目であった。単行本になったら読もうと思っていて、実はまだ読んでいないのだが、いま富岡多恵子が文芸誌「群像」に西鶴のことを断続的に書き継いでいる。同時代人の芭蕉に比べると、西鶴については書く人が少ないのは残念である。もっともっと、現代人にも知られてよい人物とその仕事ではなかろうか。(清水哲男)


 ほととぎす大竹藪をもる月夜

                           松尾芭蕉

昭和三十年代、鳥取市の小学校に通っていた頃、借家はぼろぼろの木造二階建。部屋の土壁が剥落しているような状態で、雨が降ると家の中のいたるところで雨漏りがした。裏には百坪ほどの畑があり、その向こうに大きな竹薮があった。夏は蚊が大量に出て当時流行した日本脳炎を恐れたものだ。二階から見た月はきれいだった。竹薮の彼方に大きな一本の杉があり、その上に月は昇った。小学校の国語の時間で俳句を習った。教科書だったか、副読本だったかにこの句が出ていた。僕はこの句の「もる」を当時、「盛る」だと思ったものだ。月夜が竹薮を盛っている。まるでしゃもじで飯を盛るように。月光がしゃもじだ。貧しかった時代で大盛りのご飯に憧れがあったのかもしれない。とにかく、月光のしゃもじが大竹藪を掬って盛る。すごい句だな。俳句って、芭蕉ってすごいな。そう思った。やがて中学生になって、この「もる」が「洩(漏)れる」の意味だとわかる。月光が竹薮を漏れているのだ。この句が急につまらない句に見えてきた。この程度なら俺にもできる。そう思って初めて一句作り学習雑誌の投稿欄に投句した。中学二年生の春。俳句を始めたのは芭蕉さんのこの句のおかげだ。そんなに早く俳句を作り始めたのが良かったのか悪かったのかわからないけど。日本古典文学大系『芭蕉句集』(1988)所載。(今井 聖)


 ほととぎすすでに遺児めく二人子よ

                           石田波郷

今日は6月11日、2日前の夜12時ごろ、ほととぎすの声を聞いた。ここは横浜市磯子区洋光台。山を削って造った新興の住宅地であり、付近はまだまだ緑が多い。夜中に何で鳥が鳴くんだろうと不思議に思って確認したのだった。鳥はしばらく鳴いていた。鳴き声を聞いて、歳時記にあった「テッペンカケタカ」を思い出した。間違いないと思った。僕は山陰の田舎育ちなので、ほととぎすもどこかで必ず聞いていると思うのだが、これと意識したことはない。ほととぎすを聞いて句に詠もうと思うと、他の鳥ではないこれぞまさにほととぎすだという句を詠みたくなる。声の特徴やら空間の季節感やらを素材にして。季題を句のテーマにするということはそういうことだ。その季題の「らしさ」が出るように努める。しかし、そこに「自分」が生きなければ、季題をうまく詠むゲームになってしまわないか。波郷のテーマは自己の境涯に向ける眼と二人子の哀れ。ホトトギスは空間を演出する重要な小道具としての役割。なんとしても夜空のあの声を詠もうと思っていた僕はこの句を思い出し、ホトトギスを聞いて感動している自分のことを詠もうと考えてみた。『惜命』(1950)所収。(今井 聖)


 いつまでも夕日沈まず行々子

                           森田 峠

ギョウギョウシ、ギョウギョウシ、ケケシ、ケケシと鳴くので行々子と言われる。河川や湖沼の葦原などに生息する葭切にオオヨシキリとコヨシキリがある。このオオヨシキリの鳴き声がこれである。コヨシキリはピピ、ジジジと聞こえる。オスが高い葦の茎に直立した姿勢でとまり、橙赤色の口の中を見せてさえずっている。夏の日の中々沈み切らない夕まずめにいつまでも鳴き続けている。夏の日の長いこと。他に<歌うたひつヽ新妻や蒲団敷く><四戸あり住むは二戸のみ時鳥><少しづつかじるせんべい冬ごもり>など。「俳壇」(2014年11月号)所載。(藤嶋 務)


 時鳥きよきよつと嗤ふ誤植文字

                           山元志津香

時鳥(ほととぎす)の鳴き声の聞きなしは、「東京特許許可局」「てっぺんかけたか」など。私には舌足らず気味の「ここ許可局」と聞こえるが、掲句の作者には「きょきょ」が強調されているようだ。自身が関わっている冊子があると誤植は重大事である。活字時代は植字工が拾う活字の間違いが原因で起きたが、今ではパソコンでの変換ミスがもっとも多い。どちらにしても校閲段階で見つけられれば事なきを得るが、誤植というのはなぜか刷り上がった完成物で見つかる。発見したときの気持ちのさがりように反比例するように、誤植部分はめきめきと浮き上がり、紙面を飛び出すかのような勢いで目に飛び込む。作家半藤一利は「浜の真砂と本の誤植は尽きない」と嘆いたというが、ある程度の確率で発生するものとあきらめてはいても、あざけて嘲笑する「嗤ふ」が、自己嫌悪の度合いを象徴する。本欄でもたびたび発生するが、インターネットという流動的媒体の利点でこそっと修正し、翌日には幾分涼しい顔でいられる。それでも次からはご指摘のたび、時鳥の鳴き声が頭に響いてくるに違いない。『木綿の女』(2015)所収。(土肥あき子)