仏性を観る

http://www.yasaka.org/KOBO/bussyo.html  【仏性とは…】より

「仏性」について述べるとなれば、まずもって『涅槃経』にある「一切衆生悉有仏性」の文言を出さなければならないだろう。どういう意味だろうか。一言で言えば、「生きとし生けるものは、みな仏陀(完成された覚者)と成り得る資質を持っている」ということができる。

 また、仏性とは「如来蔵」と同義だともいう。蔵とは胎の意なので、如来蔵とは一切の衆生に内在する仏陀または如来となれる可能性の意味と取れる。これは煩悩に覆われた状態の「真如」だとも言われる。真如とは、一切存在の真実の姿、この世の普遍的な真理のことだ。

 一つの用語を用いると、その用語の理解が必要になり説明が要る。何とも仏教思想とは難解な代物ではある。釈尊はこのような難しい論理を大衆に説いたわけではあるまい。釈尊の弟子たち各々が“如是我聞”と言い、様々な教学問答を繰り返して経典が成立し始めたのではないか。中国に仏教が伝播しては、更に中国に於いて、より高度な哲学体系として昇華、あるいは止揚されていったのだろう。

ところで、真理に暗いことを「無明」というが、これは一切の迷妄・煩悩の根源で、本能が支配する意識と無意識の世界、これがすなわち無明なのだという。この無明より更に深いところに仏性があって人を動かしているともいわれる。この無明の対極にある概念が真如だとも言えよう。

 大乗仏典の一つ勝鬘経では如来蔵を、法界蔵、法身蔵、出世間上々蔵、自性清浄蔵とも名づけ、これを総称して「五蔵」というとある。蔵とは内に秘蔵する意であるので、自性清浄蔵とは、自性の清浄なるものを内に秘蔵することである。

 妄念を離れた清らかな心、とらわれない、かたよらない、こだわらない、このような自我を滅し私心を捨てた心を「清浄心」と呼んでいる。そしてこのように清く光り輝く心を、最高の存在、真実の存在としてそれを「自性清浄心」とも言い、それが「真如」であり、それこそが「仏性」にほかならない。

 仏性=如来蔵=真如=清浄心 とも考えられよう。

 ところがここに問題がある。

 それは、この「仏性」のことだ。本来仏性なるものは衆生に先天的に資質として具有されているものなのか、あるいは後天的に修行によって修得されるものなのかという問題である。このことは今まで多くの異論が唱えられてきたという。すなわち、

○有情は本来不浄であるが、修行によって清浄ならしめることが出来るとする「修得仏性」の説。もうひとつは、

○本来清浄なものとする「本有仏性」の説である。

 このように、仏性が修得されるものか、あるいは本有のものかの論がある。

 これらを説明するたとえとして香木の例があげられる。それは、香木というのは火という縁(修行)がなければ良い香りが現れない。だから修得のものだというのだが、よくよく考えてみると、香りが本有されていなければ、いくら火の縁を得ても(修行しても)香りは出ないのであるから、仏性が本有であるということと、修得ということとは、互いに補い合って仏性が現実に顕現されるものであることを表していることに外ならないと言える。

 仏教界で、仏性が一切衆生に本具されているか否かが問題になったのは、中国に於ける『涅槃経』の翻訳にはじまるという。様々な仏性説が唱えられたが、問題は「一切衆生悉有仏性」といわれるように、“すべての衆生に仏性が具有されているかどうか”ということである。

『涅槃経』に「仏性とは特定のものではなく、空や智慧、中道、阿耨多羅三藐三菩提と同じような意味であるが、衆生は無明に覆われていて真理が分からないのである」というようにある。つまり衆生には、雲に覆われた月が見えないのと同じであるが、月(仏性)そのものは恒常不変の存在だというのである。さらに「十二因縁仏性説」、嘉祥大師の「五仏性説」、正因・了因・縁因の「三因仏性説」。生因・了因の「二因仏性説」などの諸説がある。

 これら仏性の問題は仏教学上の重要な問題で、諸説それぞれに見解の相違があって、日本に於いても天台宗の最澄と法相宗の徳一の仏性論争に至るまで論戦が交わされてきたのである。

 一方、唯識仏教(唯識思想)でいうと少し違うようである。唯識には、『五性各別説』と言う考え方があって、衆生を五段階に区別し、仏性を持たない衆生があるという考え方あるようだ。五性とは、

 1. 菩薩定性

 2. 独覚定性

 3. 声聞定性

 4. 不定性

 5. 無性有情

の五つであるが、これらは我々衆生の資質的な違いを分類したものという。五番目の『無性有情』が、仏の教えに耳を貸さず、欲望のままに生き、ことごとく執着し、執着が驕慢心となり争いを起こすなど、智慧の獲得のための努力を一切せず、おのれを省みない“仏性を持たない”人達のことである。

 唯識は何故「仏性を持たない衆生」の存在を認めたのだろうか。法相宗など教理上のこともあるのであろうが、一般的に考えれば、昨今の新聞の社会面を見ると、むべなるかなとも思う。

 無差別殺傷・殺人事件、親殺し・子殺し、怨恨殺人、強盗殺人、猟奇事件等々むごたらしい事件が日々の新聞紙面を飾り、枚挙にいとまがないほどだ。これら悪鬼羅刹のごとき悪行の犯人らには仏性の片鱗すら伺えられない。そればかりではない。なるほど現代人の生活は豊かにこそなったが、反面、精神は退廃して欲望ばかりが大きく膨らみ、それを獲得・所有するためのお金を求めて、朝から晩まで仕事に追われた生活が続く。人心は荒廃して殺伐とした社会が無気味に広がっていっているのではないだろうか。子供たちは受験地獄に追いやられ、お寺や神社の境内で遊んでいた子供たちのにぎやかな声や姿が消えて久しい。

 現代人は物質的な豊かさと引き換えに、大切な「心」を失ってきている。悲観的な見方をすれば今が末法の時代なのではないかとも感じられる程だ。このような時代こそ仏教の教えに耳を傾けなければならないだろう。『仏教のことば 生きる智慧』中村 元編著にこうあった。

「仏性の意味を平たく言えば“いのち”といってよい。だれにもこの“いのち”がそなわっていて、それゆえに、みな平等であるというのがこの経典(涅槃経)の中心思想である」

“いのち”を大切にする仏教の教えがあまねく世に満ち、人々の心に深くのべ伝わることを願う。