山岳信仰の道場/聖地・浄土

http://nikko.4-seasons.jp/nikko/faith.shtml  【山岳信仰の道場/聖地・浄土】

勝道上人が日光を開いて以来、神仏習合の時代が続き、高い山には神仏が宿るといった山岳信仰の聖地・浄土として、多くの山岳修験者により日光が紹介されていったと推測できる。

ゆえに、男体山は父神(信仰の中心)、大己貴命(おおなむちのみこと)すなわち大国様であり、千手観音でもある。同じように、女峰山は母神で、田心姫命(たごりひめのみこと)であり阿弥陀如来でもある。さらに、太郎山は子神で、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)であり、馬頭観音でもある。

このように、家族形成をもった山は、山岳信仰と神道・仏教の考え方が違和感なく同居(神仏習合)していたのである。現代人には一見、複雑なように思えるが、日光の歴史を深く知るうえで欠かす事のできない知識である。

こうした神仏習合のあり方は、1868(明治元)年の神仏分離令を境に改められ、日光も1871(明治4)年に神仏分離が行われ、一時は数多くの寺が併合されるなどしたが、神仏分離令による日光の苦難を落合源七と巴快寛が東北巡幸途上の明治天皇に直訴し、現在の世界遺産日光の社寺は元の姿に復元することが出来た史実がある。

山岳信仰の場合、本殿の背にご神体の山があることが一般的で、社の背には扉がある。本宮神社の場合、背にする山は外山である。毘沙門天が祀られていることから、太郎山にみたてたものと推測できる。

三社権現すなわち山を仏様のお姿として祀られているのは、日光山輪王寺三仏堂。中央が阿弥陀如来、右側が千手観音、左側が馬頭観音の配置になっている。お寺で如来(母神)が中央で祀られているのは分かる気がする。二荒山神社においては父神が中央。

家族形態をなす日光山岳信仰だけに「お母さんが家の中を切り盛りした方がうまく行く。カナイ安全安全と言うだろう・・・(笑)」と解説する案内人もいる。


http://www.thr.mlit.go.jp/sakata/road/60history/020.html  【出羽三山と松尾芭蕉】より

 俳聖松尾芭蕉(1644-1694)が門人曽良を伴って奥の細道へ旅立ったのは、元禄二年(1689年)三月。”みちのく”を巡る約六百里(2400km)5ケ月におよぶ行脚は、幾多の困難をともなったが、それぞれの土地の物珍しい風物や人情、風俗に触れ、貴重な文化遺産となった紀行文「奥の細道」を生む実り多い旅となり、県内でも多くの名句を残した。出羽三山には、六月三日(新暦七月十九日)から十日まで滞在。この間、五日の羽黒山をはじめ、八日、月山、同日帰途湯殿山と三霊山をくまなく踏破しこの霊気漂う神域に、深く感動した。道すがら、六十里越街道を行き帰するお行様の列とも一緒の旅となり、三山参りの思い出に花を咲かせたことだろう。この機会に、「奥の細道」を見直すためにも、出羽三山関連の「奥の細道」の一部を掲載した。

 芭蕉と曽良が出羽三山の門前町羽黒手向に致着したのは、六月三日(新暦七月十九日)の夕暮れ。祓川を渡るころには、日もすっかり暮れ、南谷の別院に着くころには、木々の間から星がこぼれていた。「六月三日、羽黒山に登る。図司右吉といふ者を尋ねて、別当代会覚阿闍梨に謁す。南谷の別院に宿して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。四日、本坊において俳諧興行。」

  五日、いよいよ三山参りのスタート。断食してシメを掛け、まず精進潔斎。羽黒権現に詣でる。「五日、権現に詣づ。当山開闢能除大師は、いづれの代の人といふことを知らず。延喜式に「羽州里山の神社」とあり、書写、「黒」の宇を「里山」となせるにや、羽州里山を中略して羽黒山といふにや。出羽といへるは、「鳥の毛羽をこの国の貢に献」と、風土記にはべるとやらん。月山・湯殿を合はせて三山とす。当時、歩江東叡に属して、天約止観の月明らかに、円頓融通の法の灯がかげそひて、僧坊棟を並べ、修験行法を励まし、霊山霊他の験効、人貴びかつ恐る。繁栄長にして、めでたき御山と謂つつべし。」

 好天の八日、強力の案内で月山に登る。月山は標高,1980m。芭蕉にとっては、生涯で一番高い山への登山となった。 「八日、月山に登る。木綿しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包み、強力といふものに導かれて、雲霧山気の中に氷雪を踏みて登ること八里、さらに日月行道の雲関に入るのかと怪しまれ、息絶え身凍えて、頂上に至れば、日没して月顕はる。笹を敷き、篠を枕として、臥して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば、湯殿に下る。谷のかたはらに鍛冶小屋といふあり。この国の鍛冶、雲水を撰びて、ここに潔斎して剣を打ち、つひに月山と銘を切って世に賞せらる。かの龍泉に剣を淬ぐとかや、干将・莫耶の昔を暮ふ。道に堪能の執浅からぬこと知られたり。岩に腰掛けてしばし休らふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ば開けるあり。降り積む雪の下に埋もれて、春を忘れぬ遅桜の花 の心わりなし。炎天の梅花ここにかをるがごとし。行尊僧正の歌のあは れもここに思ひ出でて、なほまさりておぼゆ。総じてこの山中の微細、行者の法式として他言することを禁ず。よって筆をとどめてしるざす。坊に帰れば、阿闍梨の求めによりて、三山巡礼の句々、短冊に書く。

涼風やほの三か月の羽黒山      桃青

雲の峯いくつ崩れて月の山      桃青

かたられぬゆとのにぬらす袂かな   桃青

 六月十日、羽黒に別れを告げ、庄内藩の城下町鶴岡に、十三日朝まで滞在して出羽三山の疲れをいやし、舟で赤川を下り、(当時、赤川は最上川へ合流)酒田へと向かった。