『日光の土にも彫れる牡丹かな』

https://ameblo.jp/seijihys/entry-12596625938.html  【与謝蕪村を発見したのは正岡子規か、三森幹雄か。】より

日光の土にも彫れる牡丹かな   与謝 蕪村(にっこうの つちにもほれる ぼたんかな)

『芭蕉から第二芸術まで 俳句史の真実』著・今泉恂之介を読んでいる。

そこで知ったことを書きたい。

正岡子規の俳句史における功績はいろいろあるが、与謝蕪村の発見もその一つである。

今は芭蕉、蕪村、一茶を江戸俳諧の三巨星と誰もが認めるが、明治の頃はそうではなかった。

明治期、すっかり忘れ去られていた与謝蕪村に脚光を当て、広く世に知らしめたのが子規である。

余人(よじん)はこれを知(し)らず、宗匠(そうしょう)これを尊(とうと)ばず、

百年間(ひゃくねんかん)むなしく瓦礫(がれき)とともに埋(う)められて光彩(こうさい)を放(はな)つを得(え)ざりし者(もの)を蕪村(ぶそん)とす。

―「俳人蕪村」―

【意訳】

人々も名を知らず、俳句の宗匠も尊重せず、百年間、むなしく埋もれて光りを放たなかった者が与謝蕪村である。

と、まあ、これが定説であったのだが、「三森幹雄」という人が、子規より先に蕪村の作品の素晴らしさを認め、蕪村の作品をまとめて、世に出していた…ということを知った。

三森幹雄(みもり・みきお)

文政12年(1830)~明治43年、江戸末期から明治初期の俳人。

第十一世春秋庵主。

幹雄は、正岡子規によって攻撃された「旧派句会」(月並俳諧)を代表する俳人の一人である。

子規の「俳人蕪村」の新聞「日本」連載が始まったのが明治30年(1897)、幹雄の『蕪村句文集』刊行が明治28年。

幹雄のほうが2年早いのである。

このことはほとんど誰もが知らないことであったが、その事実を見つけたのが「大谷弘至君」であることはさらに驚いた。

彼は長谷川櫂氏の後継者で、現在「古志」主宰。

私は、彼とは結構長い付き合いで、「俳句界」編集長時代よりもさらに前、私が代表をしていた同人誌「気球」に、村上鞆彦君や日下野由季さんとともに参加してくれていたことがある。(「気球」はその後、みんな出世(?)して短期間で消滅。)

その彼が、2009年に、「三森幹雄と蕪村 明治初期における『蕪村発見』再考」

という論文を発表していた…ということを今泉さんの著書で知った。

これは驚くべきことだ。

私も俳句マスコミの人間だったが、この事実を全く見過ごしていた俳句マスコミや俳壇はダメだな~、と思う。

蕪村に関する子規の功績だが、あえて言えば、幹雄は単に蕪村の作品をまとめただけだが、子規は蕪村の良さを「俳人蕪村」で具体的に挙げている。

そこが大きな違いであり、結果的にやはり蕪村を見つけたのは子規ということになるだろう。

今泉さんの文章を引用する・

・蕪村は句作りにさまざまな工夫を試み、それまでになかった句法を数多く造り出した。

・彼は日本の文や詩歌の持つ柔軟、冗長の欠点を、簡素にして強靭、豪壮な漢語で補った。

・特に漢文に由来する語は、これまでの日本語の表現に見ないものが多い。用語の一点においても蕪村は俳句界独歩の人であった。

・芭蕉、去来は自然を、其角、嵐雪は人事を詠もうとして苦しんだが、蕪村はその双方を何の苦労もなくやり遂げている。

・談林派や蕉門などが排斥した最俗の語を平気で用い、しかもその語が俗にならず、却って句中で活動する。彼の奇術に驚かざるを得ない。

・蕪村は歴史を題材にした複雑な事柄を、僅か十七字の中に十分に表し得た。

・斬新奇抜さによって人を驚かすことが出来る人は、俳句界において蕪村一人である。

・彼の句にはすべて、彼の特徴が表れている。才能と経験によるものだろう。

これらをあげて、子規は蕪村を賞賛したのである。

やはり、こういうことを以て、子規が蕪村を見つけた…というのは動かないであろう。

ただ、子規の俳句革新によって、歴史の隅に追いやられてしまった「俳諧宗匠」も決して、時代に胡坐を掻いていたのではなく、彼らなりに新時代の俳句のあり方を考えていた…、ということは言えるのではないだろうか。


https://akahiro.at.webry.info/200904/article_15.html 【『日光の土にも彫れる牡丹かな』】より

きょうは72候の18番目『牡丹華 牡丹花咲く』です。

『日光の土にも彫れる牡丹かな』

上の俳句は蕪村の作です。

どんな情景を詠んだものか わかりますか?

『日光』について 二つの解釈があるそうです:

ひとつは、左甚五郎の眠り猫で有名は日光東照宮の『日光』のことです。

つまり、日光東照宮の欄間や柱、扉に彫られた牡丹の彫刻を静かに鑑賞している。

ふと、目を庭に移すと境内には牡丹の花が咲きほこっていてそれが まるで地面に彫った彫刻のように見えた・・・。

二番目の『日光』は自然の太陽の輝かしい光線のことです。

粲粲〔サンサン〕と輝く陽光が牡丹の花にそそぎ、その影が地面に黒くくっきりとして地面に掘った彫刻のように見えた・・・。

牡丹といえば金屏風の花鳥図に描かれた豪華な花をイメージします。

『本草』には次のように書いています:

「羣花品中、牡丹第一、芍薬第二ナルヲ以テノ、故ニ世ニ牡丹ヲ謂ヒテ花王ト為シ 芍薬ヲ花相ト為ス」

群がる花々のなかでナンバーワンは牡丹、芍薬が第二の花だそうです。

そして牡丹を花の王・花王といい、芍薬を花の首相・花相というのだそうです。

絵が好きな蕪村には、牡丹の俳句がたくさんあります:

『牡丹散って打ちかさなりぬ二三片』

『寂として客の絶間のぼたん哉』

『方百里雨雲よせぬぼたん哉』

『地車のとゞろとひゞくぼたんかな』

『ぼたん切って気のおとろえしゆうべ哉』

『ちりて後おもかげにたつ ぼたん哉』

『山蟻のあからさま也白牡丹』

『山蟻の覆道〔ふくどう〕造る牡丹哉』

『金屏のかくやくとして牡丹哉』

『南蘋〔なんびん〕を牡丹の客や福西寺〔ふくさいじ〕』

*南蘋〔なんびん〕というのは、画家の沈南蘋〔なんびん〕のこと

『ぼうたんや しろがねの猫こがねの蝶』

『牡丹有〔ある〕寺ゆき過ぎしうらみ哉』