人物「江戸時代以前」

http://210.164.7.60/c05/intro/tochigiken/hakken/jinbutsu1_index.html 【人物「江戸時代以前」】 より


弓削道鏡(ゆげのどうきょう)

出生年不明 772年まで

弓削道鏡の墓(道鏡塚)の写真

奈良時代の僧で、河内国(現大阪府)の出身。761年、孝謙天皇(女帝・後の称徳天皇)の病気を治して以後重んじられ、765年に太政大臣禅師、翌年には法王となり、天皇位をうかがうまでになった。

しかし、即位計画が破綻し、770年に称徳天皇が病死すると、道鏡は本県の下野薬師寺別当として流され、772年ここで没した。龍興寺(下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。


藤原秀郷(ふじわらのひでさと)

生没年不詳

藤原秀郷の肖像と唐沢城跡の写真

武勇に長じ、軍略に優れた平安中期の武将で、佐野の唐沢山に関東七堅城の一つと言われた城を構えた。940年に平貞盛とともに平将門の乱を平定。その功により下野守に任ぜられ、下野国の政治と軍事力を一手に握った。

秀郷の子孫も小山・結城・佐野などの諸氏に分かれて、下野国内で重要な役割を果たした。このようにして武士が地歩を固め、後に日本の政治をつかさどることになった。


勝道上人(しょうどうしょうにん)

735年から817年まで

日光開山の祖

勝道上人座像(日光山輪王寺所蔵)の写真

下野が生んだ名僧で、日光開山の祖。735年、芳賀郡高岡(現真岡市)の下野国府の役人の家に生まれ、出流山(栃木市北西部)などで修行した後、761年下野薬師寺に戒壇が設けられると、そこで僧の資格を得て勝道と号した。薬師寺で5年間修行した後、二荒(男体)山頂を目指して日光に入り、大谷川の激流を渡って、766年対岸に輪王寺の起こりとされる四本龍寺を建立、日光山を開いた。

下野に生まれ下野に骨を埋めた求道者

日光山を開いた後、彼は二荒(男体)山頂を目指し、782年3度目の試みで山頂に達した。

その後、中禅寺湖畔に自作と伝えられる立木観音を祭った神宮寺(現在の中禅寺)や二荒山神社を建立、桓武天皇から上野国総講師に任命され、上人の称号を受けた。これらは、最澄の比叡山開山(785年)や空海の高野山開山(816年)よりも早く、日本における山岳仏教の先駆けであったと言える。下野に生まれ下野に骨を埋めた勝道上人は、日光1,200年の信仰と文化の原点として尊ばれている。


慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)

794年から864年まで

誕生地には壬生説、岩舟説があり、両地に円仁が産湯を使ったといわれる井戸がある。

808年、15才のとき比叡山に登り最澄に師事した。838年に最終回遣唐船で渡海、幾多の試練を乗り越えて847年帰国した後、在唐中の日記を「入唐求法巡礼行記」として著した。

854年には天台座主に任じられ、比叡山の基礎を揺るぎないものにした。死後、866年には、わが国初の大師号を与えられている。


那須与一(なすのよいち)

生没年不詳

那須資隆の第11子で名は宗隆。1185年、屋島の合戦で平家の軍舟に掲げられた扇の的を射落とした功により、後に丹波・信濃等5か国に荘園を賜り、那須家の惣領として重きを成したが、惜しくも若くして没したという。

資料が少なく生没年も不詳であるが、彼の名は「平家物語」や「源平盛衰記」に登場する他、民間信仰の対象や郷土芸能の主役として、今なお人々の心の中に行き続けている。


寒河尼(さむかわのあま)

1137年から1228年まで

頼朝袖判下文の写真

鎌倉時代初期の有力御家人で結城氏の祖、小山朝光の母・寒河尼は1187年『これ女性なりと雖も大功有るやに依り・・・(彼女は源頼朝の乳母であり、頼朝の挙兵時や野木宮合戦で朝光とともに活躍した)』と、頼朝袖判下文(「皆川文書」)により下野国寒河郡と阿志土郷の地頭職に任ぜられた。

この時代、女性の地位は高かったとはいえ地頭職は珍しい。小山市の称念寺に彼女の墓がある。


親鸞上人(しんらんしょうにん)

1173年から1262年まで

親鸞上人座像(高田山専修寺所蔵)の写真

浄土真宗開祖・親鸞上人は、1214年越後より関東に移り、常磐・下野・下総の間を往来し、数多くの弟子を育てて浄土真宗の原始教団を成立させた。

真岡市の高田山専修寺をはじめ、親鸞によって創建されたと伝えられる寺院や、親鸞にまつわる伝承が県内にいくつかあるが、これらは親鸞の弟子との関わりによって生まれ、語り継がれてきたものと思われる。


足利尊氏(あしかがたかうじ)

1305年から1358年まで

足利市と足利尊氏

足利尊氏公像の写真

室町幕府を開いた足利尊氏は、八幡太郎源義家の末裔で、1305年に生まれた。

鎌倉幕府創設以来、足利氏は幕府の有力な御家人で、尊氏も鎌倉の足利館に居住、出仕し、足利氏のふるさとである足利には居を構えなかったようであるが、尊氏のふるさとへの思いは深く、鑁阿寺には尊氏が寄進したといわれる什器などが残されている。

後醍醐天皇との対立

1333年、後醍醐天皇とともに北条家を倒し、「建武の新政」の立役者となった尊氏は、この功により、天皇の名「尊治」の一字をもらい、高氏から尊氏へと改名した。しかしながら、新政権の恩賞が公家・僧侶に厚く武家に薄かったことなど武家の不満が募り、これを代表した尊氏は次第に天皇側と対立するようになった。

そして、1336年には軍勢を率いて京都を制圧、光明天皇を擁立して、朝廷を吉野に移した後醍醐天皇と戦い、以後57年間にわたって続いた南北朝の争乱をひき起こした。

その後、1338年に征夷大将軍となって室町幕府を開き、武家による政治を復活、1358年54才で没した。


天海大僧正(てんかいだいしょうじょう)

1536年から1643年まで

天海僧正画の写真

会津で生まれ、宇都宮や比叡山などで天台宗を学び、足利学校で儒教と禅宗を修めている。徳川家康に招かれ側近として仕え、1613年には日光山貫主に任じられた。

1616年、家康が没すると、遺命によりその神霊を久能山からうつし、東照宮に祭った。その後の日光山内を現在の姿に整備する一方、上野寛永寺などを建て、天台宗の布教に努めた。神橋のたもとに銅像が建てられている。


明石志賀之助(あかししがのすけ)

1607年から 没年不明

明石志賀之助の碑の写真

初代横綱・明石志賀之助は、宇都宮藩士山内主膳の次男として宇都宮城内武家屋敷に生まれ、1622年江戸に出て須磨浦林右衛門の弟子となり角力取りとなった。

1624年には関脇に進み、1625年、当時相撲界で名声を博していた仁太夫に勝ち、相撲界初の横綱となった。12代横綱の陣幕久四郎によって建てられた彼の碑が宇都宮の八幡山にある。

なお、第二代横綱も栃木県出身の綾川五郎次である。


徳川光圀(とくがわみつくに)

1628年から1700年まで

光圀の手植えと言われる馬頭院枝垂栗の写真

江戸時代は、馬頭村(今の那珂川町馬頭)が水戸藩領であった。

徳川(水戸)光國に関わる史跡が今も残っている.鷲子山上神社境内には、領地巡回の際に光國が選んだ「鷲子十景」の碑が建てられている。野ざらしになっていた那須国造碑に保護用の覆堂(さやどう)を建立したり、碑文の内容確認のため侍塚古墳を発掘調査したのも光國の功績である。


松尾芭蕉(まつおばしょう)

1644年から1694年まで

みちのくへの旅心を固めた23日間

芭蕉の里園内の写真

紀行文学の傑作『奥の細道』によれば、芭蕉は1689年3月28日に栗橋から下野の国に入り、間々田・鹿沼・日光・玉生に各一泊し、余瀬・黒羽の浄法寺高勝・鹿子畑豊明の兄弟のもとに13泊した後、高久の名主高久覚左衛門のもとに2泊し、続いて那須の湯元に2泊、4月20日に白河の関にて本県を離れたと記述されている。

下野国には22泊23日の滞在であった。

下野国で詠まれた主な句

日光東照宮に詣でて・・・  「あらたふと青葉若葉の日の光」

光明寺   梅雨入り頃の雨に降り込められながらも光明寺に招かれて・・・

「夏山に足袋を拝む首途(かどで)かな」

雲巌寺 仏頂和尚の山居跡にたたずみ・・・「木啄(きつつき)も庵は破らず夏木立」

余瀬 馬子に乞われるままに・・・   「野を横に馬牽きむけよほととぎす」

殺生石(せっしょうせき)  謡曲の舞台を訪ねて・・・「石の香や夏草あかく露あつし」

遊行柳(ゆぎょうやなぎ)西行ゆかりの柳の下に立ち・・・

「田一枚植えて立ち去る柳かな」


蒲生君平(がもうくんぺい)

1768年から1813年まで

蒲生君平画

宇都宮の油商の家に生まれた蒲生君平は、高山彦九郎、林子平とともに寛政の三奇人と呼ばれる。

実地調査と実証的研究に基づいた「山稜志(さんりょうし)」を著し、この中で、「前方後円墳」という呼称を初めて使用した。

明治天皇が1869年(明治2年)に宇都宮藩知事に命じて建てさせた「蒲生君平勅旌(ちょくせい)の碑」と、1921年(大正10年)に蒲生会の人々によって建てられた「蒲生神社」が宇都宮市内にある。


二宮尊徳(にのみやそんとく)

1787年から1856年まで

稀代の農村指導家

二宮尊徳像の写真

通称金次郎。生家は小田原藩の豊かな地主であったが、酒匂川の洪水で田畑が荒廃し、さらに14才の時父を、16才の時母を亡くした。

しかし、そのような不幸の中から尊徳は天才的な創意と努力を重ね、30才の時には大地主となり一家を再興した。

その後、小田原藩家老服部家の財政を再建して藩に用いられ、藩主の分家である下野国桜町領(真岡市南部付近)再興を命じられた。1823年、一家をあげて桜町領に移り住み、以後、その死まで30数年間、栃木県での農村復興に取り組んだ。

下野国と二宮尊徳

桜町陣屋跡の写真

桜町領・茂木領・烏山藩などで農村再興に成功した尊徳は、1853年に日光御神領再興を命じられ、仕法の実践にあたったが、1856年今市で没した。

尊徳の説いた「報徳仕法」とは、全ての階層の誰もが誠実に努力を積み重ねれば報われるという実践的な仕法であったことから、勤労を尊ぶ国民性と相まって、今日に至るまで多くの人たちによって継承・実践されてきた。

県内には真岡市の桜町陣屋跡、今市市の尊徳の眠る如来寺、報徳文庫などの他、各地に「二宮掘」などの尊徳の足跡が残されている。


高久靄厓(たかくあいがい)

1796年から1843年まで

高久靄厓肖像画(栃木県立博物館所蔵)

江戸末期の画家で、渡辺崋山と並ぶ南画の巨匠。

靄厓は1796年に、旧黒磯市(現那須塩原市)の画商の長男として生まれた。幼いときから絵を好み、成人してからは各地を遍歴して、その才能を深めた。

28才の時江戸に上って谷文晁の門下に入り、程なく文晁自慢の高弟となり、さらに池大雅の南画に傾倒し、その名声を高めた。代表作・六曲一双屏風『歳寒三友図』等が県立美術館に所蔵されている。


田崎草雲(たざきそううん)

1815年から1896年まで

草雲美術館の外観写真

幕末から明治にかけての勤皇画家。江戸の足利藩邸で生まれ、子どもの頃から絵に親しみ、文人画の巨匠・谷文晁らに学んだ。

幕末は勤皇志士として活躍、1862年に足利に移住し、民兵による誠心隊を組織した。還暦を迎え、足利市西部に白石山房(現草雲美術館)を建てて画業に専心した。

日本の伝統絵画を海外に認めさせた功労者であり、草雲美術館、県立美術館に遺作が展示されている。

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