宇都宮

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE 【宇都宮】 より

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 より抜粋

宇都宮市 - 栃木県の市

江戸時代中期に森幸安が書写したと言われる「下野州河内郡宇都宮地図」によると、宇都宮とは関東の都とある。つまり、「宇」とは「宇宙」であり「太廣」の意で併せて「卯」と同じ「東」の意、「都」は「京(みやこ)」と同訓、「宮」は「宮殿」の意であり、即ち(当時の関東の中心は江戸であったが)「宇都宮」とは古くより「関東の都」としている。

自動車のナンバープレートに表記される国土交通省運輸局記号。栃木県宇都宮市に所在する「関東運輸局栃木運輸支局」を示す(かつては「栃木」だった)。

宇都宮県 - 明治時代におかれた県の一つ。県庁所在地は宇都宮市。

日本人の姓の一つ。氏族に関しては、宇都宮氏を参照。著名な宇都宮姓の人物に関しては、特別:前方一致ページ一覧/宇都宮およびWikipedia:索引 うつを参照。

宇都宮成綱(戦国大名)

宇都宮広綱(戦国大名)

宇都宮新八郎 - 大相撲力士。

うつのみや - 石川県金沢市を中心に出店している書店。


https://www.tokyo-np.co.jp/article/50960  【落雷 関東の「雷都」 宇都宮】 より

 雷のもとは、氷点下になる高い空に浮かんでいる氷の粒です。氷の粒は上昇気流で上っていったり、自身の重みで下りてきたりするうちに、こすれあってプラスとマイナスの静電気が生じます。地面に向かって放電されると「落雷」になります。

 気象庁によると、二〇〇五〜一七年の十二年間で全国の落雷被害は千五百四十件。約三割が八月に集中しています。夏は落雷に注意が必要です。

 関東地方では、夏になると房総半島や相模湾沿いから吹く湿った空気が山にぶつかって上昇気流になります。夏場の海風は水分をたっぷり含んでいるため、上空に強い寒気が入り込むと氷ができやすくなり、雷が発生します。今年は梅雨明けとともに猛暑がやってきました。地上の空気が暖められ上昇気流が発生。このため、関東では今月上旬に雷が多発しました。

 栃木県や群馬県は「雷王国」とも称されます。気象庁の統計をみると、宇都宮市の雷日数は平年で二四・八日。東京の一二・九日のほぼ倍です。「雷都」を名乗るのもうなずけます。

 落雷への警戒が必要なのは北関東だけではありません。一六年八月、埼玉県川越市で高校の野球部員が練習試合中に落雷に遭い、一人が心肺停止、四人がけがを負いました。暑い時期に地面が熱せられると、空気が軽くなって上昇気流が生じます。山間部ほどではないにしても、平野部でも雷雲が発生する危険があります。

 背の高いモクモクとした入道雲が見えたら、雷雲かもしれません。頑丈な建物や自動車の中に避難してください。逃げ込む建物がなければ、避雷針代わりになる電柱などの構造物を探してください。近づきすぎると横向きの落雷「側撃雷」に巻き込まれるおそれがあるので、四メートルほど離れる必要があります。

 気象庁の雷日数の統計をみると、宇都宮よりも多い都市がありました。雷日数が年間四二・四日の金沢です。新潟も三四・八日で上回っていました。ただし、日本海側の落雷は太平洋側とは発生の仕組みが異なり、冬場に多くなります。関東に限定してみれば、宇都宮が「雷都」であることに間違いはありません。(布施谷航)


https://utsunomiya-8story.jp/  【宇都宮の歴史と文化財】 より

https://utsunomiya-8story.jp/story/story1/

恵まれた環境の宇都宮

宇都宮は、関東平野の北端と日光連山から連なる山地との境に位置し、多様な自然の恵みが受けられる地です。また、南北に流れる多くの川に挟まれた台地は、人々を水害や大地震から守り、安心して暮らせる地を提供してくれます。この安定した大地に根古谷台遺跡のような拠点のムラが営まれました。

根古谷台遺跡

縄文時代前期の拠点集落跡。大型の建物跡が墓域を中心に立ち並ぶ。(国史跡)墓穴より国重要文化財の耳飾り・首飾りが出土。

飛山の落とし穴

今から約3万年前の落とし穴。鬼怒川東岸の段丘上に立地する飛山城を調査中に発見。旧石器人が獲物を捕まえるために掘った穴と考えられる。

門前町から城下町へ

上空から宇都宮を見ると、北部の山地から伸びる丘の先端部に二荒山神社が位置し、その周辺に中心市街地が展開しています。平安時代には、この神社に源義家などの武将がお参りするなど、その霊験を求めて人々が集まり、その門前に町が形成されました。その神官を兼ねて領主となった宇都宮氏が、神社の南側に居館を構え、次第に城下町の形を整えていきます。江戸時代には、宇都宮城を中心に日光街道と奥州街道が整備され、将軍の日光社参をはじめ多くの人が行き交い、物や情報が集まる商業のまちとしても大きく発展します。

宇都宮の地形

北部には古賀志山地、そこからのびる宇都宮丘陵の先端部に中心市街地が形成されている。市内には鬼怒川、田川、姿川の3本の川が流れ、その間に安定した台地が形成されている。

北関東最大の都市 宇都宮

さらに、近代に県庁所在地となると、政治・経済の中心として、より多くの人が集住し、現在約52万人が暮らす都市となりました。このように宇都宮は、自然災害が少なく水資源にも恵まれ、安心して暮らせる「住みよいまち」として、昔から人々が集まってきたのです。

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源頼朝と宇都宮朝綱

宇都宮氏は、宇都宮明神(二荒山神社)の社務職を兼ねながら宇都宮の地を治めた武将です。3代朝綱は、源頼朝の挙兵を助け、鎌倉幕府の樹立に貢献しました。頼朝が義経を追って奥州に向かった際に、朝綱も頼朝軍に加わり、手柄を立てています。

百人一首と蓮生

5代頼綱(後の蓮生)は、当代随一の歌人藤原定家と親交があり、出家して京都に居を構えた際に、その山荘の襖に貼る色紙和歌を定家に百首選んでもらいました。これが後の「百人一首」のもとになったと言われています。宇都宮氏は独自に歌壇をつくり、和歌集を編纂するなど文化面でも秀でた武将でした。

文勇に秀でた宇都宮氏

8代貞綱は、蒙古襲来を迎え撃つ日本の総大将として九州に出陣、9代公綱は楠木正成と戦い、「坂東一の弓矢とり」と評され、さらに、10代氏綱は足利尊氏を助け、上野・越後の2か国の守護職を勤めました。

宇都宮氏の終焉

このように宇都宮氏は、文武に秀でた伝統ある一族でしたが、22代国綱の代に豊臣秀吉により改易されてしまいます。しかし、宇都宮氏の旧臣たちは土着し、その後の地域の発展を支えました。また、宇都宮氏が種をまいた「百人一首」は、今も多くの人々に愛され続けています。また、市内には、多気城や飛山城など、宇都宮氏に関連する城が数多くあり、その栄華の一部を今に伝えています。

多気城跡

多気城は宇都宮氏が戦国時代末期に居城とし、後北条氏と対抗した関東最大級の山城。中腹には多気山不動尊。頂上に登ると関東平野が一望できる。

飛山城跡

竹下町に所在する宇都宮氏の重臣・芳賀氏の城。現在は史跡公園として整備され、とびやま歴史体験館では中世の衣装体験(有料)ができる。(国指定史跡)

鉄塔婆(清巌寺)

鎌倉時代の鋳鉄製板で現存する日本最古の鉄製塔婆。宇都宮8代貞綱が健立。(国重要文化財)

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歴史上の人物が歩いた道

宇都宮は昔から東北に向かう主要な道の通過点でした。古代には平城京や平安京と陸奥国を結ぶ「東山道」がとおり、征夷大将軍坂上田村麻呂が東北遠征に向かいました。中世には鎌倉と奥州を結ぶ「奥大道」が宇都宮城の東側をとおっていました。源頼朝はこの道を進み、奥州合戦に向かい、豊臣秀吉は、後北条氏を倒した後に会津に向かう途中で宇都宮に立ち寄っています。

2つの街道の追分

近世になると、江戸を起点とした五街道のうち、日光街道と奥州街道の追分の地となります。現在の大通りと清住町通りの交差点付近が2つの街道の分岐点です。日光社参の徳川将軍や参勤交代の東北地方の大名たちが、この道を使いました。近代以降は、東京を起点とし、東北地方に向けての陸上輸送の大動脈となる国道4号がとおります。

白沢宿

江戸時代に整備された奥州街道で宇都宮宿の次におかれ、大名行列や旅人が往来し、賑やかで活気のある宿場町であった。

鬼怒川上流の河岸

江戸時代は水運による物資の輸送が盛んとなります。鬼怒川上流域には、板戸、石井等に河岸があり、宇都宮藩や会津藩等の物産を江戸に送る重要な役割を果たしていました。中でも奥州米は江戸で消費される米の多くを占めていたそうです。

板戸河岸

江戸時代に鬼怒川沿いに設けられた河岸の一つ。現在、その跡を示す碑が当時の面影を残す。

姿川の河岸

姿川には幕田河岸がありました。鹿沼宿からの商い物や宇都宮藩の年貢米などを積み、思川の合流点の半田河岸を経由し、江戸に物資が運ばれました。

水運から鉄道へ

このように流通の中心を担っていた水運が、明治期に宇都宮まで鉄道が開通すると、その主役の座を鉄道輸送に譲ります。宇都宮は、街道、水運、鉄道により、人・物・情報が行き交い、新しい学問や芸術文化などを常に吸収し、変化しながら発展してきた街なのです。

智賀都(ちかつ)神社

宝亀9(778)年に日光二荒山神社の御神体を千勝森(ちかつのもり)に勧請鎮座し、名をその森からいただいた社。同年に植えられたとされる鳥居前の大きな二本のケヤキは樹齢700年以上。(県指定・「とちぎの名木100選」)

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大谷石との出会い

約千五百万年前の海底火山の噴火によって形成された凝灰岩の大谷石は、宇都宮の人々にとって昔から身近に触れることができる存在でした。この地に住む人々は、その石質の特質を見抜き、竪穴住居のカマドや横穴式石室の石材として使ってきました。また、岩肌を露出する石山に磨崖仏を彫り、人々の安寧を願いました。

大谷観音(大谷寺)

日本最古といわれる磨崖仏。石の面に直接彫刻された大谷寺本尊千手観音である。大谷寺は坂東三十三箇所第19番札所。(国特別史跡・重要文化財)

巨大な地下空間の出現

江戸時代以降、大谷石は建物の屋根や壁などの建材として使用されてきました。明治以降は採石産業が確立し、人車軌道や鉄道などの輸送手段の発達や採掘の機械化により、出荷量は飛躍的に増加しました。宇都宮以外にも東京や横浜に大量に出荷され、近代化する日本の都市づくりの礎を担ってきたのです。その結果生み出されたのが、大谷資料館で見られるような巨大な地下空間です。

掘り出した石で築いたまち

城下町・門前町として発展してきた宇都宮では、江戸時代以降、二荒山神社の石垣をはじめ、教会や寺、豪商の屋敷、民家の塀、人々の憩いの場となる庭園の花壇や園路、道路の敷石等、様々な場所に大谷石が使われてきました。宇都宮の人々は、加工がしやすく、耐火性に優れた大谷石を変幻自在に使いこなし、「石のまち」をつくり上げてきたのです。この宇都宮に息づく「大谷石文化」が平成30年5月に日本遺産に認定されました。

カトリック松が峰教会

この教会は、国内では数少ない双塔を持ち、大谷石壁のそこかしこにロマネスク様式の装飾が施されている。(国登録)

御止山

姿川沿いに連続して露出する大谷石の高い崖は、松や蔦などの植物の緑と岩肌の灰白色の織りなすコントラストが見る人を魅了し、その独特の風景は「陸の松島」と呼ばれている。(国名勝)

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倭の五王の時代のうつのみや

大和王権が力を伸ばしていた5世紀、日本最大の大仙古墳が造られます。このころ、うつのみやの地でも市内最大の笹塚古墳が造られます。全長105mの前方後円墳です。埴輪、葺石、二重の周掘をもつ古墳です。この場所は現在のインターパーク付近で、近くでは豪族の居館跡や大規模な集落跡が見つかっており、当時、この地域の中心であったと考えられます。

笹塚古墳

東谷町に所在する前方部を西に向けて築かれた前方後円墳で、全長約105mの市内で最も大きな古墳。墳丘の周辺から円筒植輪や土師器(はじき)などが出土している。近畿地方の大王墓と同じような特長を持つ前方後円墳である。(県指定)

豊城入彦命と下毛野氏

『日本書紀』によると、二荒山神社の主祭神である豊城入彦命は「上毛野君・下毛野君の祖」であると記されています。また、別の書物にはその子孫が仁徳天皇の時代に下毛野国造に任ぜられたと書かれたものがあります。これは、笹塚古墳が造られた時期とほぼ重なります。

下毛野古麻呂と河内郡衙

さらに、下毛野氏の子孫には、大宝律令の作成に携わった下毛野古麻呂という人物がいます。古麻呂は、参議、式部卿など政権の要職を担った人です。その当時、河内郡の役所が置かれた場所が、宇都宮市と上三川町の境にある上神主・茂原官衙遺跡です。古代において、うつのみやの地は河内郡に属し、下野氏が基盤とした場所なのです。

上神主・茂原官衙遺跡

奈良時代を中心とした河内郡の役所(郡衙)。「雀部」「物部」「酒部」などの人名文字瓦が多数出土することでも全国的に有名で、遺跡の南東部には、当時の主要道路である東山道がとおっていた。(国指定)

塚山古墳群

西川田町にある古墳時代中期の古墳群。塚山古墳をはじめ、塚山西古墳、塚山南古墳の3基の前方後円墳と複数の円墳により構成。(県指定)

塚山5号墳から出土した玉類

長岡百穴古墳

凝灰岩から成る丘陵の斜面に蜂巣(はちのす)のようにくり抜いた横穴墓。百穴という名称であるが、現在は52穴が南を向いて開口している。これらの横穴には、扉石をはめ込んだとみられる切込みがあり、当時はほとんどの横穴に扉石があったであろう。各横穴には、後世の作である観音像が刻まれているが、地元では弘法大師一夜の作との伝承がある。(県指定)

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徳川将軍が宿泊した城

江戸時代に徳川幕府が開かれ、日光に初代家康を祀る東照宮が造られると、将軍家による日光社参が行われるようになります。その規模は、8代将軍吉宗の場合で見ると、行列の人数が約13万人、人足が約22万人の大行列で、幕府の権威を示す大規模なものでした。その社参の際に将軍の宿泊所として宇都宮城は使われました。

宇都宮城址

本丸付近の櫓や土塁などが一部復元されている城址公園。

宇都宮御城内外絵図

 

釣り天井伝説

この将軍が宿泊する宇都宮城を舞台とした伝説が「宇都宮釣り天井事件」です。宇都宮城主であった本多正純が、駿河大納言忠長を3代将軍にしようと考え、日光社参のため宇都宮城に宿泊する家光を釣り天井により暗殺しようと企てますが、失敗に終わるという物語です。この元となったのが、元和8(1622)年、2代将軍秀忠が日光社参の際に、帰り道、急に予定を変えて宇都宮城を避け、江戸に帰ってしまい、その後、正純は宇都宮城を取り上げられたことが、後に講談や歌舞伎の題材となり脚色され、釣り天井伝説が生まれたのです。

宇都宮城下の賑わい

当時の宇都宮城下には約1万人が住み、様々な業種の人が集まり城下町を形成していました。二荒山神社の菊水祭付祭では、屋台や山車がくり出され、多くの人で賑わっていました。

新石町山車(明治40年代)

平成26(2014)年に復元された山車は、宇都宮城址公園のまちあるき館に展示されている。

伝馬町屋台

屋根の上には、龍が今にも飛び出しそうな姿で乗っている。全体に「牡丹に唐獅子」「松に鳳凰」など、華麗な彫刻がはめこまれている彩色の彫刻屋台である。(県指定)

市民の憩いの場 宇都宮城

この宇都宮城は高度経済成長期に一部を残し、埋め立てられてしまいましたが、城址公園の再整備により、現在の姿に生まれ変わり、市民の憩いの場として利用されています。


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宇都宮での戦い

慶応4(1868)年1月、新政府軍と旧幕府軍による戊辰戦争が勃発。江戸城の無血開城後も旧幕府方の一部が抵抗を続けます。4月19日、旧幕府軍は、宇都宮城の南東部から攻め込み、新政府側の宇都宮藩は防戦しますが、旧幕府軍に押され、二の丸館に火を放ち退城。旧幕府方の放った火と相まって、宇都宮城下のほとんどが焼失してしまいます。4日後の23日、宇都宮城を占拠した旧幕府軍は、新政府軍の総攻撃により、一斉に退却し日光に向かいました。

戊辰戦争宇都宮城攻防図

宇都宮城をめぐる攻防戦も行われ、宇都宮城は一時旧幕府軍に占拠された。この戦いで宇都宮城や二荒山神社をはじめ、城下の大半が焼失した。この図は戊辰戦争における宇都宮城をめぐる2度の戦いを描いている。(市指定・光明寺蔵)

県都宇都宮の誕生

この戦争で焼け野原となった宇都宮のまちは、その後の文明開化の波を受け近代的なまちに生まれ変わり、明治17(1884)年に栃木から宇都宮への県庁移転により、名実共に県の政治・経済の中心となります。

軍都 宇都宮

明治40(1907)年、宇都宮が陸軍第14師団の駐屯地として決定されたことにより、師団司令部等の軍関係の施設が置かれ、「軍都」として国防上重要な役割を担うまちとなりました。

宇都宮中央女子高赤レンガ倉庫 (旧第66歩兵連隊倉庫)

明治40(1907)年の宇都宮への第14師団設置に伴い、第66歩兵連隊の厨房関係施設として建設され、現在は多目的ホールとして用いられている。(国登録)

旧市街地の大半が焼け野原に

太平洋戦争が終わりに近づいた昭和20年7月12日、アメリカ軍のB-29爆撃機が宇都宮上空に襲来し、焼夷弾を投下。旧市街地の大半が焼け野原となり、多くの死傷者を出し甚大な被害をもたらしました。

宇都宮空襲により焼失した市街地(中島みどり氏撮影)

1945(昭和20)年7月12日23時19分、アメリカのB-29爆撃機による宇都宮空襲が開始。軍需工場や飛行場など特定の軍事目標ではなく、一般市民の住む市街地が狙われた。

八幡山の地下壕

第二次世界大戦末期の昭和20(1945)年、陸軍が空襲と本土決戦に備え、地下司令部として使用することを想定して建設。完成する前に終戦となり、実際には使用されなかった。(現在は公開されていません)

戦後復興のシンボル「大イチョウ」

宇都宮は戦後いち早く復興を成し遂げました。この時、空襲で焼け野原となったなか、三の丸の土塁上に立ち続けた「旭町の大イチョウ」は、終戦の翌年には新芽を芽吹かせ、市民に勇気と希望を与え心の支えとなりました。

大イチョウ

右側の写真は焼け跡に残った大イチョウ。ここから芽がでて現在の姿に。(市指定)

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宝木台地の開拓

江戸時代の初め、宝木台地は、水持ちが悪く稲作に適さない土地であったため、宇都宮藩は、この台地を、江戸の町人加藤四郎兵衛ら4人に請け負わせ、開拓させましたが、水利が悪く、次第に荒廃してしまいます。

二宮尊徳の通水事業

文政8(1825)年、宇都宮藩は、荒廃した新田へ通水することを計画しますが失敗。このため、二宮尊徳に工事を依頼し、嘉永5(1852)年、工事が行われ、徳次郎村の田を潤すことができましたが、その南までは及びませんでした。そこで、仁良塚の名主たちが資金を集め、再び工事が始まりますが、尊徳が途中で死去したため、弟子の吉良八郎が後を継ぎ、安政6(1859)年に「宝木用水」は完成し、宝木台地の多くの田を潤すことができました。

二宮堰

江戸時代後期、徳次郎や宝木地区の水不足を解決するため二宮尊徳が田川を堰きとめて新川の流れを作った。現在は親水公園。

宇都宮北部に伝わる獅子舞

宇都宮の北部では、一人立ち三匹獅子舞が、毎年盆などに、悪疫退散、家内安全、風雨順調などを願って行われています。

宗円獅子舞

毎年2回、お盆の8月16日と8月の最終日曜日に日枝神社で奉納される。(市指定)

豊作を願う天祭

太陽や月をはじめとする神仏に、風雨順調、五穀豊穣などを祈願する天祭は、江戸後期に盛んとなります。その中心となる二階建彫刻屋台の天棚は、全国的に見ても宇都宮市とその近辺にしか存在しない独特なものだそうです。

日光街道沿いの付祭

日光街道沿いでは、夏の暑い時期に、疫病退散や五穀豊穣などを願って、石那田八坂神社天王祭付祭や徳次郎智賀都神社祭礼付祭が行われ、地域の一大行事となっています。

地域に残る伝統文化を未来へ

この他にも、羽黒山の梵天祭や瓦谷の神楽など、各地で伝統的な行事が、今もなお地域の人々によって引き継がれており、地域の一体感を生み出す貴重な文化資源となっています。

羽黒山神社梵天祭

毎年11月23日、24日に行われる秋の例大祭。およそ300年続く梵天を奉納する祭り。

瓦谷の神楽

1月の三が日を除く第1日曜日に平野神社で奉納。(市指定)

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