足利家と宇都宮家

https://www.touken-world.jp/tips/30440/  【宇都宮家の歴史と武具(刀剣・甲冑)】より

足利家との対立や、従属していた芳賀家(はがけ)の裏切りなど、様々なことに揺れ動きつつも、関東屈指の勇猛な武士団をつくり上げた宇都宮家。武勇に優れた者から歌人まで存在し、多才な一族でもありました。そんな個性的な宇都宮家の歴史を、刀剣や甲冑(鎧兜)とともにご紹介します。

宇都宮家の祖は、平安時代中期の関白「藤原道兼」(ふじわらのみちかね)の孫「藤原兼房」(ふじわらのかねふさ)の子である、宇都宮家初代当主「藤原宗円」(ふじわらのそうえん)とされています。

藤原宗円は、関東の都と呼ばれた宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)の神職に就き、常陸八田(現在の茨城県常陸大宮市)に本拠を置きました。

その後、2代当主「宇都宮宗綱」(うつのみやむねつな)が、常陸国筑波郡小田邑(ひたちのくにつくばぐんおだゆう:現在の茨城県つくば市)を本拠とした小田家の祖である次男「宇都宮知家」(うつのみやともいえ)を八田に残し、長男「宇都宮朝綱」(うつのみやあさつな)とともに本拠を宇都宮へ。宇都宮朝綱が当主に就任してから「宇都宮」を名乗り始めました。それが宇都宮姓の始まりだとされています。

3代当主になった宇都宮朝綱は、「源頼朝」が挙兵したとき源頼朝に従属し所領を与えられ、社寺の一切の事務を取り締まる職である「宇都宮検校職」(うつのみやけんぎょうしょく)に任命されます。こうして宇都宮家は鎌倉御家人として成長し、鎌倉時代においては幕府の最高政務機関であり、行政・司法・立法のすべてを司っていた「評定衆」(ひょうじょうしゅう)などを務めました。

宇都宮家の衰退

鎌倉時代末期に「元弘の乱」(げんこうのらん)が起こった際、鎌倉幕府14代執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)から楠木正成(くすのきまさしげ)討伐の命を受け、9代当主「宇都宮高綱」(うつのみやたかつな)が上洛。しかしその後、幕府が滅亡したため宇都宮高綱は降伏し、建武の新政期に朝廷に設置された訴訟機関である「雑訴決断所」(ざっそけつだんじょ)の奉行を務めます。

「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が挙兵すると宇都宮高綱は一貫して反足利の立場を取っていましたが、子の「宇都宮氏綱」(うつのみやうじつな)が足利側に付いたため、それ以降は宇都宮高綱も足利方に付きました。

その後、足利尊氏方のもとで功績を残したため、上野(現在の群馬県のほぼ全域)と越後(現在の新潟県の、佐渡を除く全域)の守護に任じられます。

しかし足利尊氏の死後、足利尊氏と対立していた弟の「足利直義」(あしかがただよし)方の権力者達が「上杉憲顕」(うえすぎのりあき)を守護職に就任させました。宇都宮高綱はそれに対抗したものの敗北。ここから宇都宮家の勢力は衰えていきました。

室町時代は家督を継いだ者が多く早世し、分家の中から後継者を選んだために争いが絶えませんでした。1526年(大永6年)、19代当主「宇都宮興綱」(うつのみやおきつな)が、兄で18代当主の「宇都宮忠綱」(うつのみやただつな)への謀叛を起こしました。これは、宇都宮家に従属する芳賀家の養子に入っていた宇都宮興綱が、宇都宮家の脆弱な支配体制の隙をついて起こしたものです。

宇都宮興綱の子、20代当主「宇都宮尚綱」(うつのみやなおつな)は芳賀家との対立の中、芳賀家が頼っていた那須家との戦いで1549年(天文18年)に戦死し、宇都宮尚綱の子で21代当主「宇都宮広綱」(うつのみやひろつな)は「真岡城」(栃木県真岡市)に退かねばなりませんでした。その後、宇都宮家の家臣「芳賀高定」(はがたかさだ)の尽力によって勢力を徐々に盛り返し、1557年(弘冶3年)にようやく宇都宮の領土を奪還しました。

そののち、宇都宮広綱は関東の戦国大名の氏族である北条家に敵対しますが、攻勢に耐えられず新たな城を築くなどの対応を迫られ、1590年(天正18年)には豊臣秀吉に臣従します。

豊臣大名として存続しかけた宇都宮家ですが、豊臣政権の重臣、「浅野長政」(あさのながまさ)の三男「浅野長重」(あさのながしげ)を宇都宮家の養子とする計画に、22代当主「宇都宮国綱」(うつのみやくにつな)の弟、芳賀家11代当主「芳賀高武」(はがたかたけ)が猛反対。芳賀高武は宇都宮家の一族が継ぐべきだと主張し、養子受け入れ派の家臣を殺害しました。

これにより1597年(慶長2年)、宇都宮家は豊臣秀吉によって身分を平民に落とされてしまいます。子孫は水戸藩に仕え、命脈は保たれました。

全国にその名を轟かせ、幅広い分野で活躍してきた宇都宮家。中世に最盛期を迎え、個性的な盛衰の物語を残しています。そんな彼らの生き方が後世にも受け継がれて、ほどよく調和した都市と自然、暮らしの豊かさ、のびのび過ごせる安心感がある現在の宇都宮の姿が築かれたのでしょう。

多才な宇都宮家の面々

宇都宮朝綱

宇都宮朝綱は、関東を拠点としていたこともあり、源頼朝に協力しました。そして、1189年(文治5年)の「奥州合戦」で功績を挙げ、源頼朝から「坂東一の弓取り」と称されます。「宇都宮明神検校」としても認められており、文武両道な人物として知られました。

5代当主「宇都宮頼綱」は、宇都宮朝綱の孫にあたります。宇都宮頼綱は「北条時政」(ほうじょうときまさ)の側室「牧氏」(まきし)の娘を妻としていました。

しかし、北条時政と牧氏による「将軍実朝廃立事件」が起きると、宇都宮頼綱は謀反の疑いをかけられたのです。追討こそされませんでしたが、彼は34歳の若さで早々に出家してしまいます。

そして、京都の小倉山(京都府京都市)山麓に隠居し、「法然」(ほうねん)の弟子「証空」(しょうくう)に師事して「蓮生」(れんじょう)と名乗りました。

また、彼は歌人「藤原定家」と親交が深く、娘を藤原定家の息子に嫁がせています。彼自身も歌人としての才能があり、京都や鎌倉と並ぶ日本三大歌壇のひとつ「宇都宮歌壇」を築き上げました。宇都宮頼綱の小倉山山荘の襖絵に描く和歌として、藤原定家に選んで貰ったのが「小倉百人一首」です。

宇都宮家が愛用した刀剣や甲冑(鎧兜)をご紹介します。

刀剣

猪ケ窟兼定(いのがくつかねさだ)

猪ケ窟兼定は、美濃刀工である2代「兼定」(かねさだ)の作。宇都宮家9代当主「宇都宮公綱」(うつのみやきんつな)のいとこの子で、下野宇都宮家の一族のひとりである「宇都宮泰藤」(うつのみややすふじ)が愛用したと言われています。

宇都宮泰藤が猪ケ窟(現在の愛知県岡崎市)で、怒りに任せて斬った愛犬の首が、自分を襲おうとしていた大蛇の頭に噛みついて危機を救ったという逸話があり、それがこの刀の名前の由来です。その後の所在は不明となっています。

甲冑

三十八間星兜(さんじゅうはちけんほしかぶと)

三十八間星兜は、高さ約18cm、口径約21cm、重量約2㎏の兜。南北朝時代の作と考えられています。

平安時代中期の武将「藤原秀郷」(ふじわらのひでさと)が着用。藤原秀郷は宇都宮家が居城とした宇都宮城の築城に携わったと言われています。

鉄地板28枚を貼り合わせ、鋲を裏側から打って星型を表現していることが、兜の名前の由来です。星は1列に16点あり、兜の周りを覆っている腰巻きにも星が付いています。

兜上部の八幡座は小菊の高彫りとなっており、正面には前立の金具を付け、鉢の前・前後・前後左右などへ1本ないし5本垂らしてあるのは、鎬垂(しのだれ)という金具です。制作者は不祥とされていますが、時代の特徴を良く表し、形の整った優品であるとされています。火災に遭い一部破損しており、腰巻きの一部は後世に補足された物です。

現在は、日光二荒山神社中宮祠(栃木県日光市)に収蔵されています。

全国の宇都宮家

宇都宮家は全国に存在しますが、宇都宮家の本家である「嫡流」(ちゃくりゅう)は「下野宇都宮」(しもつけうつのみや)です。本家より別れた一族である「庶流」(しょりゅう)には、「豊前宇都宮」(ぶぜんうつのみや)や「筑後宇都宮」(ちくごうつのみや)があります。

下野宇都宮

下野宇都宮は代々、下野国(しもつけのくに:現在の栃木県栃木市)の国司を務め、毛野川(鬼怒川)流域一帯を治めた一族です。宇都宮及び日光(栃木県日光市)の地を治める社務職である宇都宮検校等を務めていました。

庶流としてある豊前宇都宮、筑後宇都宮などと区別するため、下野の地名を付けて下野宇都宮と呼ばれています。

豊前宇都宮

豊前宇都宮の始まりは、藤原宗円の次男である「中原宗房」(なかはらむねふさ)が豊前国仲津郡城井郷(ぶぜんのくになかつぐんきいごう:現在の福岡県行橋市の一部と、福岡県京都郡みやこ町の大部分)に地頭職として赴任したことがきっかけだと言われています。豊前宇都宮家7代「宇都宮冬綱」(うつのみやふゆつな)が城井家の祖となりました。

筑後宇都宮

宇都宮家第8代当主「宇都宮貞綱」(うつのみやさだつな)とともに九州に同行し、筑後国山門郡大木(ちくごのくにやまとぐんおおき:現在の福岡県久留米市)を拠点とした、宇都宮貞綱の弟「宇都宮泰宗」(うつのみやさだやす)の子孫が祖であると言われています。

北朝方に属していた宇都宮家に対し、南朝方に属し肥後国八代(ひごのくにやつしろ:現在の熊本県八代市)に移った「宇都宮貞久」(うつのみやさだひさ)の孫「宇都宮久憲」(うつのみやひさのり)が、宇都宮家系蒲池家の祖となりました。