http://yahantei.starfree.jp/page/3/ 【回想の蕪村(五・五十~六十五)】 より
(五十)
安永六年(一七七七)の春興帖『夜半楽』は、「春風馬堤曲」(十八首)、「澱河歌」(三首)そして「老鶯児」(一首)の三部作をもって、あたかも一篇の連作詩篇を構成するかのごとき体裁をとっている。その三部作の「澱河歌」は、「春風馬堤曲」の盛名に隠れて、ともすると、その「春風馬堤曲」の従属的な作品と解されがちであるが、これまた、「春風馬堤曲」と同じく、実に多くの謎を秘めている興味の尽きない、これまた、異色の俳詩である。
この異色の俳詩「澱河歌」は、その初案と思われる、「澱河曲」と題するものと「澱河歌」と題するものとの二つの「扇面自画賛」が今に残されているのである。その二つの「扇面自画賛」は次のとおりである(『蕪村全集六』)。
「澱河曲」自画賛
紙本淡彩 扇面 一幅 一七・八×五〇・八センチ
款 右澱河歌曲 蕪村
印 東成(白文方印)
賛 遊伏見百花楼送帰浪花人代妓
春水浮梅花南流菟合澱
錦纜君勿解急瀬舟如電
菟水合澱水交流如一身
船中願並枕長為浪花人
君は江頭の梅のことし
花 水に浮て去ること
すみやか也
妾は水上の柳のことし
影 水に沈て
したかふことあたはす
「澱河歌」自画賛
紙本淡彩 扇面 一幅 二三・〇×五五・〇センチ
款 夜半翁蕪村
印 趙 大居(白文方印)
賛 澱河歌 夏
若たけやはしもとの遊
女ありやなし
澱河歌 春
春水浮梅花南流菟合澱
錦纜君勿解急瀬舟如電
菟水合澱水交流如一身
船中願同寝長為浪花人
君は江頭の梅のことし
花 水に浮て去事すみ
やか也
妾は岸傍の柳のことし
影 水に沈てしたかふ
ことあたはす
(五十一)
ここで、もう一度、『夜半楽』所収の「澱河歌」を再掲して置きたい。
澱河歌三首
○春水浮梅花 南流菟合澱
錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
沈(しづみ)てしたがふことあたはず
(五十二)
先に紹介した、「澱河曲」自画賛は、昭和四十三年十月、羽黒山における第二十回俳文学会全国大会を記念して酒田市の本間美術館で開催された「芭蕉と蕪村と一茶展」で、出品されたので、尾形仂著『座の文学』所収の「蕪村」(「澱河歌」の周辺)において、次のように紹介されている。
「この扇面自画賛は、戦前の蕪村関係の諸画集はもとより、戦後催された日本経済新聞社主催の蕪村展(昭和三二)、逸翁美術館の蕪村特別展(昭和三八)、同蕪村総合展(昭和四一)、東京国立博物館の日本文人画展(昭和四〇)、毎日新聞社主催の蕪村展(昭和四一)等の目録にも載っていない珍品として、当時の参会者の注目を引いたので、その図柄を記憶にとどめている人も多かろう。今では森本哲郎氏の『詩人与謝蕪村の世界』(昭和四五)の口絵にカラーで収められて、ひろく一般にも知られている。画は、右手に持った扇子で顔を隠しつつ立ち去り行く遊客と、それをうらめしげに見送る遊女を描く。遊女は「奥の細道」の画巻や屏風に見える市振の遊女と筆意も同じこうがい髷で、元禄袖のうちかけをはおり、右袖で口もとをおおっている。遊客は五分月代(さかやき)の額ぎわを角(すみ)に抜き、髪に元結(もとゆい)を巻きたてた、いわゆる丹前風に頭を結い、羽織のかげからはことごとしい太刀の柄をのぞかせている。この名古屋山三まがいの顔つきは、蕪村の俳画にはめずらしいが、男女いずれも江戸初期の擬古的風姿による戯画で、当代風俗のスケッチではない。女に後を向けた遊客の背中の丸みは、例の「時雨三老像」中の月渓像の艶冶(えんや)を思わせ、その淡彩を施した洒脱な描線は、安永五年八月十一日付几董宛書簡にみずから「はいかい物之草画、凡(およそ)海内に並ぶ者覚無之候(おぼえこれなくそうろう)」と誇示する蕪村俳画をうかがわしむるに十分である。」
そして、これに続けて、先に紹介した、蕪村真蹟の賛を紹介している。この「澱河曲」画賛は、紛れもなく蕪村の『夜半楽』所収の「澱河歌」の一異文と解して差し支えないものであろう。
(五十三)
蕪村の『夜半楽』所収の「澱河歌」のミステリーなのは、昭和四十三年十月に新しく世に公表された、その初案とも思われる、扇面に描かれた「澱河曲」自画賛(上記のとおり)の他に、もう一つの、「澱河歌」自画賛(扇面)が出現したということなのである(尾形仂著『蕪村の世界』)。これが、上記で、その全容を紹介したところの「澱河歌」自画賛である。ここでは、「澱河曲」画賛の男女の図柄ではなく、「中央やや右寄りに舟をさす船頭の姿を描き、舟の後部は画面左下にさし出た近景の柳の葉蔭に隠れて見えない」(尾形・前掲書)と、船頭と柳の図柄なのである。そして、和詩の部分の「『江頭』の措辞は初稿の『澱河曲』に一致し、『岸傍』の措辞は『夜半楽』「澱河曲」のいずれとも一致しない。漢詩句が『夜半楽』と一致していることからいって、全体としては「澱河曲」から『夜半楽』所収の定稿に移る中間過程に位置するものといえようか」とし、「注目されるのは、詩題に『澱河歌 春』と見え、さらに画面右の空白部に『澱河歌 夏』として、『若たけや / はしもとの遊女 / ありやなし』の句が配されていることである。「若たけや」の句は『続明烏』(安永五)所収。もと安永四年五月二十一日、几董庵での月並句会の兼題『若竹』によって成った作か。『蕪村遺芳』その他所収の自画賛で名高い。橋本は現京都府八幡市内。当時、淀川に沿う大阪街道の宿駅で、旅籠屋にわずかの宿場女を抱えた下級の遊所があった。付近には竹林が多いが、右の自画賛の画面(註・『蕪村遺芳』)は風にそよぐ竹林の奥に二、三の矛屋を描いたもので、現実の遊所のスケッチとは違う。蕪村が竹林の奥に幻視したものは『撰集抄』に見える『江口・橋本など云(いふ)遊女のすみか』で、橋本の遊女への追憶は『新花摘』に『ほとゝぎす哥よむ遊女聞ゆなる』の追悼の句を捧げた亡母への慕情と遠くつながっていた。竹林の風景は、蕪村にとって、郷里毛馬のなつかしい思い出への通路であったといえる。扇面自画賛(註・「澱河歌」自画賛)か描かれた扁舟は、今、京の春を見返りつつ、橋本より毛馬へと棹さし下そうとしているところだろうか。となれば蕪村は、伏見での送別の場で「澱河曲」(註・「澱河曲」自画賛)が成った後、これを推敲して『夜半楽』に収めるまでのどの時点でか、『澱河歌』の題のもとに、郷愁のモチーフにもとづく淀川の四季の連作詩篇の作成を企画していたことになる。はたして秋・冬の画面には、どんな作が配されていたのか(あるいは配そうとしていたのか)。蕪村の句集をひもときながら、それらをあれこれと思いめぐらしてみることは、私ども後世の読者に託された夜半の楽しみといってもいいだろう」(尾形・前掲書)と続けている。これらの、『座の文学』・『蕪村の世界』所収の「澱河歌」周辺のことなどについて、そのミステリーの部分を、さらに紹介をしていきたい。
(五十四)
○ 送友人帰浪華(友人ノ浪華ニ帰ルヲ送ル)
今夜到伏水 明朝直帰郷(今夜伏水(フシミ)ニ到ル。明朝直チニ郷ニ帰ラン。)
舟中作何夢 惜別断我腸(舟中何ノ夢ヲカ作(ナ)ス。別レヲ惜シミテ我ガ腸(ハラワタ)ヲ断ツ。)
上記は、几董の『丙申之句帖』(へいしんのくじょう)の中のもので、これらについて、
尾形仂氏は『座の文学』で詳細に論じ、そして、その後の『座の文学』で再度論じて、こ
の几董の漢詩の「送友人帰浪華」の「友人」は、上田秋成(無腸)その人であると特定し
ている。ここのところを、『座の文学』(「学術文庫版付記」)で、氏は次のように記してい
る。
○ 本稿執筆の時点では、「澱河曲」を贈った相手を特定するにいたらなかったが、その後
『丙申之句帖』の記載順序や暦日などを再検討した結果によれば、これは安永五年二月十日、上田秋成送別の宴席で成ったものかと推定される(拙著『蕪村の世界』参照)。
ここのところを『蕪村の世界』で見ていくと次のとおりである。
○蕪村の題詞の「伏見百花楼ニ遊ビテ」(註・「澱河曲」画賛の「遊伏見百花楼」)と几董の起句の「今夜伏水(フシミ)ニ到ル」、同じく「浪花ニ帰ル人ヲ送ル」(註・「澱河曲」画賛の「送帰浪花人」)と几董の詩題の「友人ノ浪華ニ帰ルヲ送ル」、蕪村の詩句の「舟中願ハクハ枕ヲ並ベ」と几董の転句の「舟中何ノ夢ヲカ作(ナ)ス」、蕪村の和句の「影水に沈てしたがふことあたはず」と几董の結句の「別レヲ惜シミテ我ガ腸(ハラワタ)ヲ断ツ」といった、字句・内容の類似を見れば、両者を同じ時、同じ人を送っての作と断定して、ほぼ、間違いないであろう。そういえば、几董が三月十日の紫狐庵会の「梨花」の兼題に対して、「春の恨(うらみ)梅速くして梨花遅し」(『月並発句帖』)と詠んでいるのも、蕪村の「花水に浮て去ことすみやか也」の詩句の余響を受けたものと解されないではない。両者は、はたして、いつ、だれを送っての作であるのか。(『蕪村の世界』)
(五十五)
○几董の詩は『丙申之句帖』の「上巳」と前書する発句三句と、「三月十日紫狐庵会」と前書する発句三句との間に、「春夜」と題する次の七言古詩とともに記されている。
茅舎寂寥無客来(茅舎寂寥客来無シ)
孤燈不挑夢初回(孤燈挑ゲズ夢初メテ回ル)
読書倦去出窓外(読書倦ミ去リ窓外ニ出ヅレバ)
半月朧朧鐘磬催(半月朧朧鐘磬催ス)
(中略) 「半月」は陰暦七・八・九日または二十一・二十二・二十三日の月をいうが(『滑稽雑談』)、詩の内容と月出時間に照らせば、ここは前者(前者の上弦の場合、月は真夜中過ぎまで空に残るが、下弦の場合、月出は真夜中過ぎになる)。ただし、この年、前年の十二月に閏があったため、三月七日は陰暦の四月二十四日に当たり、もはや「半月朧朧」の空を仰ぐことはできなかったはずだ。歳時記では「朧月」は仲春とするものが多く、(中略)
「春夜」の詩につづく伏見における送別の詩は、「二月十四日菴中会」(句帖でそれ以前の句稿はすべて抹消してある)に先立つ、二月十日前後の作ということになる。ちなみに、「几董句稿」によれば、几董は安永三年には二月十三日(陽暦三月二十四日)、安永六年には二月十四日(陽暦三月二十三日)に伏見の観梅に出掛けており、伏見送別の詩が二月十日(陽暦三月三十日)ごろに成ったとすれば、「春水ニ梅花浮カビ」という蕪村の詩の景況にピッタリ合う(『蕪村の世界』)
(五十六)
○ここで思い合わされるのは、二月十二日付で几董に宛てた書簡に次のように見えることである。
(前略)
美人出帳独徘徊(美人帳ヲ出デテ独リ徘徊ス)
春色頻辞窗下梅(春色頻リニ辞ス窗下ノ梅)
却恨落花浸斂鬚(却ツテ恨ム落花ノ斂鬚ヲ侵スヲ)
一花払去一花来(一花払ヒ去レバ一花来ル)
かくなんいたし申候。此節徘(ママ)情すくなき折ふし、けく(結句)ましならんとも存候。(中略) 此のせつのほ句、二三申遺し候
ん(う)め咲やどれがんめやらむめじ(ぢ゛)ややら
んめ咲て帯買ふ室の遊女かな
(下略)
南賀の梅の刷り物の出句依頼に対して七言絶句(中略)を作って贈ったことを報じているのは、几董の送別の詩を意識してのことではないか。(中略) 「春夜」の詩との関係からおおよそに割り出した二月十日という想定は、この書簡の日付けから見ても間違っていなかった(『蕪村の世界』)。
(五十七)
○もう一つ、この書簡の巻末に添えた「うめ咲や」の句は、几董編の『蕪村句集』には次のような形で収められている。
あらむつかしの仮名遣ひやな。字儀に害あら
ずんば、アヽまヽよ。
梅咲ぬどれがむめやらうめじ(ぢ)ややら
この年、安永五年正月、本居宣長は京都の銭屋利兵衛ほかから『字音仮名用格』を刊行し、その中で”ン”音を “む”と書くべきことを主張した。日本の古代には”ン”という音がなかったというこの宣長の説に対しては、上田秋成が反駁して、宣長との間に書簡の往復を重ね、宣長の『呵刈葭』後篇(写本)に収める論争に発展する。『蕪村句集』の詞書を参看すれば、「どれがむめやらうめじ(ぢ)ややら」の句は、一面満開の梅の花に対する理屈を越えた無条件の賛美を、この両者の論争に対する揶揄の形で表現したるものと見ることができるだろう。ところで、蕪村・几董はみの春、大阪からもと加島(今の西淀川区内)の住人秋成(俳号、無腸)を迎え、面話をとげている。(中略) 秋成の上京に関して、『丙申之句帖』では、二月十八日の記事と二十日が定例の紫狐庵会の発句との中間に、「香島(加島)の隠士無腸をとゞめて夜もすがら風談あるは題を探る」としてその折の自句三句を録しているが、(中略)十八日の時点では秋成はすでに大阪に戻っていた。「一昨夜の楼酒」「からうた一章」「うめ咲や」の句、という脈絡をたどってくれば、二月十日、伏見百花楼で、蕪村・几董が「澱河曲」と五言古詩を競作して「浪華ヘ帰ル」を送った相手は、もしかしたらその秋成ではなかったか(『蕪村の世界』)。
(五十八)
○花柳の巷に出入し「浮浪子(のらもの)」と交わる狂蕩の青年期の体験を持つ一方、和漢の学に詳しく、蕪村からは「奇異のくせ者」(『也哉抄』序)、几董からは「詩をよくし(中略)無双の才子」(東皐宛書簡)と評されるとともに、蕪村の死に際しては「かな書の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』)と悼んだ秋成ならば、艶冶の趣を帯びた和漢混交の詩篇や五言古詩を贈る相手として、いかにもふさわしい。逆に言えば、送別の相手が秋成だったからこそ、その座の雰囲気の中から、それら異端の作が生み出されたのだ、といえる。(中略)もし送別の相手がはたして秋成だったとすれば、蕪村が扇面に配するに、ことごとしい太刀をたばさんだ、五部月代の丹前風遊冶郎の絵をもってしたことは、「妓ニ代ハリテ」という設定とともに、自分も相手も虚構化し現実の送別の宴席を歌舞伎舞台の一場面へと転化させたものとして、その俳諧的趣向の奔放さには瞠目せざるを得ない。いずれにしても、こうした「澱河曲」が「澱河歌」の前身であり、かつそれが、安永五年二月十日、几董とともに伏見の妓楼で浪花へ帰る友人を送る宴席での即興として成ったものであることが確認される以上、これを娘くのの婚家や蕪村自身の秘められた情事と絡め、もしくは安永六年に成った「馬堤曲」創造の余勢の中から生まれた作として読もうとする従来の鑑賞は、大きな変更を迫られざるを得ないであろう(『蕪村の世界』)。
※蕪村の異色の俳詩「澱河歌」の前身に当たる扇面に描かれた「澱河曲」は、浪花に帰る上田秋成(俳号・無腸)に送る送別の宴席のものであったとする尾形仂氏の論拠を見てきた。もし、それが秋成のものであったとするならば、秋成の蕪村追悼の一句(「かな書の詩人西せり東風(こち)吹て」(『から檜葉』))と重ね合わせて、間違いなく秋成は蕪村の一面(「かな書の詩人」)を正鵠に見抜いていたという思いを深くする。それ以上に、安永六年の春興帖『夜半楽』に収載されている「澱河歌」は、その前身に当たる二葉の扇面の自画賛(「澱河曲」・「澱河歌」)が今に残されていることに鑑みて、蕪村の「春風馬堤曲」に続く、「淀川」幻想詩ともいうべき、蕪村の「淀川」への「かな書の詩」であるという思いを更に深くするのである。
(五十九)
○「澱河歌」の成立については、もう一つ触れておかなければならぬ周辺的事実がある。それは、この前後、几董の句帖の中に、前記二作のほかにもなお漢詩の作の記載が見えることである。すなわち春の部の末尾には「於東山下詩会 鴨河惜春」の詩、四月「金福寺 題残照亭」の詩が録されているが、これは例年にないことであった。(中略)それとともに、二月二十日の紫狐庵会の出句の次に、次のような詩題発句が録されているりも、また見落とせない。(註・「題草廬先生四時歌」を略)。「草廬先生」は、片山北海の混沌社と相対峙して平安に詩名を馳せた幽蘭社の龍公美の号である。草廬は初め徂徠の学をよろこび明詩をきわめたが、のち李・杜・高・岑らの盛唐諸家の風潮に従うべきことを提唱した。「平安四時歌」は、宝暦三年(一七五三)の序・跋をもって『艸廬集』初篇巻之五に収められている。蕪村がかって俳諧の要諦を問われて、答うるに離俗の法をもってし「詩を語るべし」を告げた春泥社召波が、草廬社中の逸足であったことについては、潁原退蔵博士の「召波」(創元選書『蕪村』)の稿に詳しい。(中略)漢詩の高邁を慕った夜半亭一門の人々が、「離俗の則」をつちかうよすがとして、『艸廬集』をひもとくべき機縁は十分に熟していたといっていい(『蕪村の世界』)。
※蕪村は、画・俳二道を極めた特異の俳諧師でもあった。その画はいわゆる南画(中国画)で、いわゆる漢詩と不可分の関係にあり、自ずから、蕪村の俳諧もまた、その「離俗の則」の要諦の「詩(漢詩)を語るべし」を俟つまでもなく、漢詩と密接不可分の関係にあることは言を俟たない。そして、その「詩(漢詩)を語るべし」は、蕪村が最も信頼をおいていた夜半亭門の逸足の春泥社召波に向かって言われた蕪村語録であり、その召波が当時の京都の詩(漢詩)壇の雄であった滝公美(号・草廬)の逸足であり、更に、その草廬が蕪村が私淑して止まなかった荻生徂徠と関係があったということは、蕪村、そして、その一門の夜半亭俳諧というもの見ていくうえで、どうしても避けて通れないキィーポイントのようなものであろう。そして、そのことは、蕪村の『夜半楽』、そして、そこに収載されている、和漢混合の異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」を鑑賞するうえで、これまた避けて通れないキィーポイントのようなものであろう。
(六十)
○試みに、几董の跡を追って『艸廬集』初篇をひもとけば、その巻之二「七言古詩」の中に、次のような一篇が見出される。(中略) 「生駒山人」(註・漢詩の中に出てくる「生駒山人ガ舟ニ泛ンデ南ニ帰ルヲ送ル」の「生駒山人」)は、日下世傑(中略)の号、草廬の友人で生駒山の近くに住んでいた。『艸廬集』の右の詩を巻之二「七言古詩」九首中に収めたのは、『唐詩選』巻之二「七言古詩」三十二首中に岑参(しんじん)の詩(詩は省略)を収めるものを襲ったものにほかならない。そして蕪村が「送帰浪花人」詩に「澱河曲」ないし「澱河歌」と名づけたものは、草廬の「澱水歌送生駒山人泛舟南帰」(註・「澱」は異体字で、「ヨドカハ」とのルビがある)のひそみにならったものではなかろうか。「歌」「曲」ともに楽府に発する古詩の一体である。もと民謡に始まり、楽曲を伴う詩として創作された。唐代に至って文人の手により読式詩として擬作されるようになっても、謡われる詩としての心持ちは離れなかったらしく、長短句において著しい発達をとげたという。「澱水歌」(「澱」は異体字)もまた、五言・七言を長短錯雑して用いている。蕪村が「澱河曲」に、五言古詩二章(註・「春水浮梅花南流菟合澱 錦纜君勿解急瀬舟如電」・「菟水合澱水交流如一身 船中願並枕長為浪花人」)につづけ、第三章に五言・六言の詩句を訓読した形の和詩(註・「君は江頭の梅のことし 花 水に浮て去ること すみやか也」・「妾は水上の柳のことし 影 水に沈て したかふことあたはす」)を配したのは、楽府題詩における長短句を下敷にしながら、その新しい変奏を試みたものと見ることができるだろう。心持ちとしては、淀川沿岸の人々の間で謡われた民謡の曲によった、宴席の唄のつもりだったといっていい(『蕪村の世界』)。
○これらの尾形仂氏の一連の考察を見て、『唐詩選』の岑参の漢詩、その漢詩に基づく草廬の漢詩などが、蕪村・几董らの夜半亭一門の面々に影響を与え、その影響下にあって、蕪村の「澱河歌」が誕生したということが、理解されてくる。さらに、尾形仂氏の、これらの考察の前身ともいうべき『座の文学』所収の「『澱河歌』の周辺」の、「『澱河歌』という作品は、いわれるごとく詩人の”晩年の春情”という”ひとり心”の詩であるよりも、より多く、几董らとの漢詩熱の交響という、連衆心の所産として鑑賞されなければならぬことになるだろう」という指摘は、蕪村の「澱河歌」鑑賞上の必須のものであるという思いを深くする。
(六十一)
先に(「五十六」で)、二月十二日付け几董宛て蕪村書簡(尾形仂氏は『座の文学』で「本書簡の染筆年次は安永五年」としている)中の下記の蕪村作の漢詩に関わることにについて紹介した。
○美人出帳独徘徊(美人帳ヲ出デテ独リ徘徊ス)
春色頻辞窗下梅(春色頻リニ辞ス窗下ノ梅)
却恨落花浸斂鬚(却ツテ恨ム落花ノ斂鬚ヲ侵スヲ)
一花払去一花来(一花払ヒ去レバ一花来ル)
かくなんいたし申候。此節徘(ママ)情すくなき折ふし、けく(結句)ましならんとも存候。(中略) 此のせつのほ句、二三申遺し候
この漢詩の前に、次のような一節がある。
○今朝いろいろと案じ候も、さのみ新調なく、先刻思案をかへ、李白を客とし、杜子美をさそひて、からうた一章、一作仕候。又、おかしく存候ゆへ、申遣し候。
この書簡の「今朝いろいろと案じ候も、さのみ新調なく、先刻思案をかへ」というのは、「今朝いろいろと発句を作ろうとしていたが、どうしても目新しいものが浮かばず、ついつい考えを変え」というような意である。次の「李白」は「白髪三千丈」などで名高い「詩仙」と仰がれている中国盛唐の詩人、「杜子美」は、「国破山河在」などで名高い「詩聖」と仰がれている中国盛唐の詩人「杜甫」のこと。そして、蕪村は、これらの漢詩を「からうた」と称しているのである。当時、夜半亭一門においては、蕪村・几董を始め、俳諧だけではなく、この「からうた」作りにも相当な関心があったということであろう。そして、蕪村にとっては、『夜半楽』所収の「春風馬堤曲」も、はやまた、「澱河歌」も、ほんの余興の「からうた」の変形の和漢混合のお遊びという趣であったのかも知れない。
(六十二)
○蕪村は右の書簡(註・安永五(?)年二月十二日付け几董宛て書簡)で自作を披露するに、「李白を客とし、杜子美をさそひて」と言って、あたかも擬古派の詩人のごとき口吻を弄じている。一つには、蕪村に句をあつらえた南雅(註・上記の書簡に出てくる人物)の師の三宅嘯山を意識するところからきたものであろう。(中略) 嘯山の『俳諧古選』(宝暦一三)における評語が、擬古派の聖典とされる『唐詩選』や『滄浪詩話』から出ていることについては、田中道雄氏の指摘(昭和四五・一〇、俳文学会研究発表)がある。そしてまた、李・杜を宗とすることは、徂徠・南郭の流れを汲みながら、その明詩模倣をしりぞけ、盛唐の詩を絶対視した龍公美(りゅうこうび)の立場とも相通ずるものであった(『座の文学』)。
※この龍公美とは、先に紹介したところの「草廬先生」こと、幽蘭社の龍公美その人である。先に紹介したところを下記に再掲しておくこととする。
○「草廬先生」は、片山北海の混沌社と相対峙して平安に詩名を馳せた幽蘭社の龍公美の号である。草廬は初め徂徠の学をよろこび明詩をきわめたが、のち李・杜・高・岑らの盛唐諸家の風潮に従うべきことを提唱した。「平安四時歌」は、宝暦三年(一七五三)の序・跋をもって『艸廬集』初篇巻之五に収められている。蕪村がかって俳諧の要諦を問われて、答うるに離俗の法をもってし「詩を語るべし」を告げた春泥社召波が、草廬社中の逸足であったことについては、潁原退蔵博士の「召波」(創元選書『蕪村』)の稿に詳しい。(中略)漢詩の高邁を慕った夜半亭一門の人々が、「離俗の則」をつちかうよすがとして、『艸廬集』をひもとくべき機縁は十分に熟していたといっていい(『蕪村の世界』)。
(六十三)
○だが、蕪村の披露する梅花の詩(註・上記書簡中の漢詩)は、かならずしも李・杜の風潮とは似ない。その艶冶の体は、むしろ白楽天を宗とした公安派の詩風を思わせる。おそらくはきちんと梳(くしけず)り整えた鬢(びん)を意味する「斂鬢(れんびん)」の語は『杜甫索引』『李白索引』『佩文韻府』のたぐいにも見出だすことができない。そうした典拠をもたない造語を自由にまじえて用いているところも、反擬古派的といえるだろう。この年、洛東金福寺境内に芭蕉庵を再興する際の発企者樋口道立は、反擬古派の先駆者清田儋叟(せいたたんそう)の甥であり、江村北海の第二子である。蕪村はみずからものした「魂帰来賦(こんきらいふ)」の末に、芭蕉庵再興のおり儋叟の撰文の一節を添えている。(中略) 高邁と磊落とを標榜する蕪村の立場は自在であった。そうした姿勢は、一方で、もはら蕉翁の風韻を慕いながら、世に跋扈する当世蕉門の徒の「しさいらしき句作り」を排斥し、暁台に対しては「拙老はいかいは敢(あへ)て蕉翁之語風を直ちに擬候にも無之、只心の適するに随(したがひ)、きのふにけふは風調も違ひ候を相楽み」とうそぶき、『夜半楽』序に「蕉門のさびしをりは可避春興盛席」と謳(うた)った、俳諧における自在の姿勢とも共通する(『座の文学』)。
※先に、『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)について見てきたが、そこで、安永六年の『夜半楽』が編纂された頃の、几董の春興帖『初懐紙』との関連について触れた。それらと、今回の尾形仂氏の『座の文学』・『蕪村の世界』とを照合しながら見ていくと、まさに、蕪村の『夜半楽』そして、その異色の俳詩といわれている「春風馬堤曲」・「澱河歌」は、まぎれもなく、尾形仂氏の上記で指摘する「俳諧における自在の姿勢」を強く訴えていることを痛感するのである。ここでも、再確認の意味合いも兼ねて、田中道雄氏の次の論稿を再掲しておきたい。
○(前略)『初懐紙』の編纂刊行を几董に任せた蕪村は、安永五年には自編の春帖を持たない。煩わしさも減じたが、一方では、『初懐紙』が地方系蕉門風に傾くのあまり、蕪村にとって飽き足らぬ思いも残った。そこで蕪村が、半ば興じ半ば真剣に、自らの趣味を充分盛り込んで編んだ春興帖が、安永六年(一七七七)の『夜半楽』だったと思われる。したがって同書は、『初懐紙』をモデルとしながら(半紙本一冊。〔序に代わる題辞→春興発句群→巻末の歌仙に代わる仮名詩三編〕という内容構成)、『初懐紙』の世界から『明和辛卯春』の方向に半歩後退し、都市俳諧的趣向性を横溢させながら、しかもなお豊に春景を描き出すものとなる。後退して、かえってそこに独自の作品世界を作り上げ得たのである。それは几董的ではなく、まさに蕪村的な春興集であった。たとえば、巻頭にすえられた歌仙の奇妙な冒頭部、
歳旦はしたり皃(がほ)なる俳諧師 蕪村
脇は何者節の飯帒(はんたい) 月居
第三はたゞうち霞みうち霞み 月渓
をどう解すべきであろうか。それぞれの句頭に「歳旦」「脇」「第三」の語を折り込む趣向には、安永四年まで三ツ物の歳旦句になじんでいた蕪村が、心の隅にかすかな抵抗を覚えながら始めて春興用の初懐紙(端作は「安永丁酉春初会」)を巻く、半ば照れ半ばおどけた表情さえ思い浮かぶようである。このように考えると、かの太祗の句を引く「春風馬堤曲」もまた、蕪村らしい趣向に溢れた独自の春景句、しかも郊外散策のそれであった。『明和辛卯春』などと同様に匡郭と罫を刷り込み、巻頭に「…… / わかわかしき吾妻の人の / 口質にならはんとて」と揚言して、巻尾に「門人宰鳥校」と署名する意識には、江戸俳壇で育った蕪村の、京俳壇の新動向の中で独自の道を歩まんとする自負がにじむようである。思えば『明和辛卯春』などの匡郭と罫の緑墨も、画家らしい好みとともに、江戸俳壇の寛闊を伝えるさかしらではなかったか。ともあれ夜半亭一門の春興集は、京の都市民に自然愛の俳諧を供し、同門のその後の俳風を決定づけ、俳壇に長く影響を及ぼすことになったのである(『蕉風復興運動と蕪村』(田中道雄著)所収「春帖に見る夜半亭一門の文芸的変容」)。
(六十四)
○ひとしく「俗を離れて俗を用ゆ」る工夫を求めて漢詩熱の交響を楽しみながら、この点(註・俳諧の自在に対する姿勢)がおそらく几董と蕪村とを大きく分かつゆえんだろう。几董があくまでも草廬にならって唐詩の高邁につこうとするのに対して、蕪村はそれを意識に入れながら、あえて艶冶の体を採って磊落の調に遊ぼうとする。伏見百花楼での「澱河曲」の擬作は、あたかも連句の席で連衆に和しつつ相手を言いまかしはぐらかそうとする付合の呼吸にも似た、目に見えない火花を伝えている。几董が「別レヲ惜しシンデ我ガ腸を断ツ」と、唐詩硫の悲哀を表に立ててきまじめに惜別の情を吐露しているのに対して、「妓ニ代ハリテ」という設定を施し、「妾は水上の柳のごとし。影水に沈みてしたがふことあたはず」という纏綿たる妓女の恋情に託して自己の思いを述べたところに、蕪村の俳諧的趣向がある。(中略) 几董が「今夜伏水に到ル、明朝直グニ郷ニ帰ラン」と直叙したところを、(中略) 「錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ」と艶冶の色を点ずる。「菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ」とは、すなわち、劉廷芝「公子行」の「与君(君ト)相向(相向カッテ)転(ウタタ)相親(相親シミ)、与君(君ト)双棲(双ビ棲ンデ)共一身(一身を共ニセン)」(『唐詩選』二)や曹子建「七哀詩」の「願(願ハクハ)為西南風(西南ノ風ト為リテ)、長逝(長ク逝キテ)入君懐(君ガ懐ニ入ラン)」(『文選』五)などの詩句を下敷きにしながら、几董の「舟中何ノ夢ヲカ作ス」の「夢」をもどいて散曲ふうに展開してみせたものにほかならない(『座の文学』)。
※ここで、「春風馬堤曲」・「澱河歌」が収められている『夜半楽』の目録と、その歌仙の主立った俳人を再掲すると次のとおりである。
夜半楽
目録
歌仙 一巻
春興雑題 四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌 三首
老鶯児 一首
安永丁酉春 初会
歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師 蕪村 表 ※(発句)
脇は何者節(せち)の飯帒(はんたい) 月居 ※(脇)
第三はたゞうち霞うち霞 月渓 ※(第三)
十日の月の出(いで)おはしけり 鉄僧 ※(月)
谷の坊花もあるかに香に匂ふ 道立 裏 ※(花)
かけ的(まと)の夕ぐれかけて春の月 正白 ※(月)
暁の月かくやくとあられ降(ふる) 維駒 名残の表 ※(月)
花の頃三秀院に浪花人 几董 名残の裏 ※(花)
都を友に住(すみ)よしの春 大魯 ※(挙句)
この歌仙でも一目瞭然のごとく、夜半亭二世・蕪村が発句、そして、歌仙一巻中最右翼の役とされている、名残の裏の花(匂いの花)は、夜半亭三世を継承されていることが約束されている几董と、この二人が夜半亭俳諧の主宰・副主宰の関係にある。そして、主宰者たる蕪村が副主宰者たる几董に、蕪村が持っている全てのものを、後継者の几董に伝授しようと、そういう蕪村の意気込みというものを、上記の尾形仂氏の指摘により、まざまざと再確認を強いられるような思いがするのである。ここでも、上記の歌仙にかかわる蕪村と几董との関連などのことについて、下記に再掲をしておきたい。
○ この歌仙(三十六句からなる連句)が一同に会してのものなのか、それとも、回状を回して成ったものなのかどうかは定かではないが、おそらく後者によるものと思われる。この歌仙は、一人一句で、三十六人がその連衆で、夜半亭一門の代表的俳人の三十六歌仙(三十六人の傑出した俳人)という趣である。発句は夜半亭一門の宗匠、夜半亭二世・与謝蕪村で、「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」(歳旦の句を快心の作とばかり得意顔の俳諧師である)と、新年祝賀の句を、若き日の東国に居た頃の宰鳥になった積りでの作句と得意満面の蕪村その人の自画像の句であろう。脇句の江森月居が蕪村門に入門したのは安永五年(一七七六)年の頃で、入門早々で脇句を担当したこととなる。当時、二十二歳の頃であろう。続く、第三の松村月渓は、月居よりも四歳年長で、呉春の号で知られている、蕪村の画・俳二道のよき後継者であった。この二人がこの歌仙を巻く蕪村の手足となっているように思われる。この歌仙の挙句を担当した吉分大魯は、夜半亭三世を継ぐ高井几董と、夜半亭門の双璧の一人で、この安永六年当時は京都の地を離れ大阪に移住していた頃であろう。この挙句の前の花の句(匂いの花)を担当したのは、几董で蕪村よりも二十四歳も年下ではあるが、蕪村はこの几董が夜半亭三世を継ぐということを条件として、夜半亭二世を継ぐのであった。もう一つの花の座(枝折りの花)を担当した樋口道立は、川越藩松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ名門の出で、当時、夜半亭一門で重きをなしていた。また、月の座を担当した、鉄僧(医師)、正白(後に正巴)、黒柳維駒(父は蕪村門の漢詩人でもある蕪村の良き理解者であった召波)と、この歌仙に名を連ねている連衆は、夜半亭一門の代表的な俳人といってよいのであろう。そして、それは、京都を中心として、大坂・伏見・池田・伊丹・兵庫と次の春興に出てくる夜半亭一門の俳人の世話役ともいうべき方々という趣なのである
(十九・再掲)。
(六十五)
○「澱河曲」の題名は、蕪村の「懐旧のやるかたなきよりうめき出た」「親里迄の道行」十八首が、これも楽府の名題である「大堤曲」になぞらえて「春風馬堤曲」と名づけられたとき、文字の重複をいとって「澱河歌」と改められ、詞書の「代妓」の文言は、「代女述意」と敷衍されて「馬堤曲」の前文に組み入れられる。それと同時に、「春水梅花浮」(春水ニ梅花浮カビ)を「春水浮梅花」(春水梅花ヲ浮カベ)と改めて、承句の「南流シテ」と主語の統一をはかり、「並枕」(枕ヲ並ベ)の措辞の和臭をきらって「同寝」(寝ヲトモニシ)と改めるとともに「江頭の梅」「水上の柳」の対句を「水上の梅」「江頭の柳」と置き換えるなどの推敲も施された。「代妓」の文言を削っても、連衆たちはその艶冶の体から「馬堤曲」の「代女述意」を「澱河歌」にもかけて読むであろう。また、「送帰浪花人」の詞書を省いても、「澱水歌」の存在を知る同好の人々は、これを送別の擬作と受け取るであろう。「澱河歌」は、説かれるごとく、そのまま「馬堤曲」の反歌とはならない(『座の文学』)。
※尾形仂氏の謎解きであるが、蕪村の「澱河歌」を創作するときの背景として、その謎解きが真実味を帯びてくる。趣向の人・蕪村ならば、これらのことは当然にあり得るという趣でなくもない。とするならば、「『澱河歌』は、説かれるごとく、そのまま『馬堤曲』の反歌とはならない」という指摘についても、「あたかも、この『澱河歌』を、『馬堤曲』の反歌のような趣向をも、蕪村は意識している」と推理することも可能であろう。
○ただし、蕪村は挨拶や月次(つきなみ)の句座の発句を、連作に構成し直すことによって、新しい世界を創造することを得意とした作家である。ここでも蕪村が、「さればこの日の俳諧はわかわかしき吾妻の人の口質(くちつき)にならはんとて」と前書する新春初会の歌仙を巻頭に据え、「春風馬堤曲 十八首」「澱河歌 三首」「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)と配列した『夜半楽』のコンテクストを通じて、「澱河歌」の上に、伏見百花楼の宴席の場におけるとはまた若干異なった色合いを加えようとしているのを閑却することはできぬだろう。「妓」「女」の「意」の上に重ねられた老蕪村の郷愁の情を中心とする鑑賞がそこから生まれる。私はそうした鑑賞を否定しようとは思わない(『座の文学』)。
※蕪村の『夜半楽』所収の「春風馬堤曲」、そして、「澱河歌」がいろいろに鑑賞されてきたのは、一に、蕪村の「挨拶や月次(つきなみ)の句座の発句を、連作に構成し直すことによって、新しい世界を創造することを得意とした作家である」ということに大きく起因している。そして、「春風馬堤曲 十八首」「澱河歌 三首」「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)の、この配列は、「春風馬堤曲 十八首」の反歌として「澱河歌 三首」、そして、「澱河歌 三首」の反歌として「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)と配列しるように思えるのである。と解すると、「老鶯児 一首」(春もやゝあなうぐひすよむかし声)の持つ比重というのは増してくる。
0コメント