http://www.takakurashoten.sakura.ne.jp/castle/kantou/utunomiya/utunomiya.htm 【宇 都 宮 城 日光東照宮を守る徳川幕府譜代大名の城】 より
歴 史
宇都宮城は康平6年(1063)宇都宮氏初代の本丸跡の土塁宇都宮宗円が源頼義・義家による前九年の役に功により宇都宮社務職に任じられて居館を構えたのが始まりという。
宇都宮氏は宗円から二十二代550年間にわたって宇都宮を支配。この間、宇都宮氏は源頼朝の奥州征伐では先陣を務め、弘安の役(元寇)では九州に出陣し、南北朝時代から戦国時代にかけての絶え間の無い戦乱にも勝ち残った。
この関東一の名族であった宇都宮氏も慶長2年(1597)二十二代宇都宮国綱の時、所領の石高を偽っていたことが発覚したため豊臣秀吉によって備前に流され、豊臣五奉行の一人浅野長政が宇都宮城代を務める。
慶長3年(1598)会津若松より蒲生秀行が入封。その後、大河内金兵衛、奥平家昌・忠昌、次いで元和5年(1619)下野小山から本多正純が15万5千石で宇都宮城主となり、城の大改修を行った。
宇都宮城は日光東照宮を守る要衝の城として本多氏の後、奥平氏・松平氏・阿部氏など徳川幕府の譜代大名が頻繁に城主が交替するが、安永3年(1774)肥前島原から戸田忠寛が7万8千石で入封。以後、幕末まで戸田氏7代の居城となる。
慶応4年(1868)に火蓋が切られた戊辰戦争では、宇都宮藩は勤皇に決し、官軍が宇都宮城に入城したが、江戸を脱走した大鳥圭介ら幕府軍2千余が各地での戦勝の余勢をかって宇都宮城を猛攻撃。
時の城主戸田忠恕(ただゆき)は農民に変装して城を落ち延び、城内の官軍は火を放って脱出。通算11家47代の城主が居住した宇都宮城も灰燼に帰した。
一口話
「宇都宮釣り天井」という話がある。元和8年(1622)4月、二代将軍徳川秀忠は日光参詣の帰途、宇都宮城に泊まらず、夜を徹して江戸に帰った。時の城主本多正純が釣り天井を設けて、秀忠を暗殺しようとしているとの密告が入ったからだ。
これには徳川家康に寵愛され、威勢を振るっていた本多正信・正純親子の失脚を狙ったライバルが仕掛けた罠との説もある。しかし、この話は巷説であって真偽のほどは定かではない。
見どころ
宇都宮城は四重の堀をめぐらし、本丸・二の丸・三の丸本多正純が改築の際に使用した石と外郭からなり、本丸には5基の隅櫓が築かれ、関東八名城の一つに数えられていた。
この宇都宮城も今では市街化の波に押し寄され、本丸跡が残るのみで、城址公園となっている。本丸跡にわずかに残る土塁などからかつての面影を偲ぶしかない。
城址公園に隣接して宇都宮城に関する資料を展示している清明館がある。宇都宮城に本丸跡の土塁築かれた櫓の一つが清明台櫓だったことからこの館の名前が付けられた。
清明館の周囲は模擬の石垣で固められているが、入口前には本多正純が城を改築した際の大谷石が置かれている。この石は二の丸跡から出土したもの。
栃木県庁と宇都宮市役所を結ぶ道路沿いにある大いちょうは、高さ33m、樹齢400年という宇都宮城ゆかりの銘木。宇都宮城三の丸の土塁内部に植えられていたもので、唯一現存する巨木である。
周辺案内
宇都宮市内には重要文化財の「旧篠原家住宅」がある。篠原家は江戸時代中期から醤油醸造や肥料商を営んでいた宇都宮を代表する旧家の一つで、現在の建物は明治28年に建てられたもの。母屋と石蔵3棟が残るだけだが、大谷石を用いた外壁や店先の格子などが豪商の姿を今に伝えている。
大谷寺(おおやじ)は是非訪れたいところ。大谷の里に入ると凝灰岩が至る所に奇岩となって露出し、松と調和した景観は見事。大谷寺は弘仁元年(810)弘法大師によって開かれたと伝えられている。大谷観音(千手観世音菩薩)は大谷寺の本尊で、大谷石の大きな岩壁に彫られた立像。関東地方の石窟仏の代表というべきもので、その彫刻は見事である。そのほか釈迦三尊像、薬師三尊像、阿弥陀三尊像があり、この10体は国の重要文化財で国の特別史跡にも指定されている。
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