縄文人に見る “祈りと感謝” の精神文化

https://parole.laboratorio.ltd/n/n0a1aea4defd5  【果たして弥生時代が始まり、そして、縄文人はどうなったのか。】 より

このあたりの経緯を、「縄文人に学ぶ」を著した上田篤氏が興味深い仮説を展開している。上田氏の仮説によると、「記紀(古事記・日本書紀)」を読むとよく分かるというのである。
前述の大陸から逃げのびて来た渡来人が北九州、瀬戸内海そして大阪、奈良まで侵攻して大和政権をつくったと思われる経緯が「記紀」に書かれているという。縄文時代は、ネットワークで結ばれた色々な部族が存在しており、融合した部族、服従させられた部族、僻地へ逃れた部族、戦い続けた部族などが存在していたという。ちょっと長い引用となるが、読み終えてみると「なるほど!国生みの経緯がわかった」と合点がいくことが多々ある。以下、引用します。

“記紀にある「イザナギとイザナミの神話」の二人の行動を見ると、男のイザナギは弥生人または古墳人に、女のイザナミを縄文人に置き換えてみると納得のいくことが多い。たとえば二人が「天の御柱」をまわって出会い、イザナミが最初に声をかけたら不具の子が生まれた。そこで天の神に伺いをたてたら「女が先に声をかけたのがよくない」と言うので、改めてイザナギが最初に声をかけたら、無事、国生みができたとされる。これを縄文の母系制社会から、弥生または古墳の父系制社会への移行と見ることができないだろうか?少なくとも、女性がリードしていた社会から男性のリードする社会への動きと見ることはできるだろう。またイザナギとイザナミの国づくりの最中にイザナミは火の神を生んで死に、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)の奥の黄泉の国へ帰ってしまうが、その比良坂のヒラはヒラ族にも通じる。今日でも、イザナギ、イザナミを祭る加賀の白山ヒメ神社の山上に平坂、山下に平河、河口に平加という町があるからだ。加賀にはヒラのつく地名が多くあるため、ヒラ族の根拠地とみられ、そのヒラ族はヒナ族すなわちエミシであり、縄文人と考えられる。イザナミは縄文人と思えるのである”。

もちろん、以上は、上田氏の仮説ではあるが、この仮説を「縄文から弥生時代、さらに古墳時代にいたる物語」と見ると、なかなかである。また、上田氏は、「記紀」や「風土記」などにたくさん出てくるツチグモ、クズ、クマソ、コシ、エミシ、ハヤト、アマ、キ、イズモなどの先住民は縄文人と解釈できるといい、ツチグモ、クズ、クマソ、エミシなどは反抗して殺され、コシ、イズモ、キなどは僻地に封じ込められ、ハヤトは服従させられ、アマとは通婚しているという。また、奥州平泉の藤原一族のように1700年も抵抗し続けて滅んだ縄文人もいたというのである。そしてさらに日本国家の基幹産業として稲作の重要性を認識し稲作国家建設を推進したのはアマテラスだったという。

つまり、今日につながる日本社会のカタチをつくったのはアマテラスであり、そのアマテラスが「天の岩屋戸」に隠れたとき、彼女を呼び戻すために人々が用意した品々は、シカの骨にせよ、サクラの皮にせよ、勾玉にせよ、縄文人の日常品だった。それら縄文人の使った品々の多くがその後の日本社会にも残ったし、いまなお多数存在しているのである、と”。

日本文明の根幹には、縄文時代以来の文明のエートス(特質)が巨大な潮流として存在している。弥生時代の稲作文化も、古墳時代の文化も、安土桃山時代の南蛮文化も、そして明治以降の近代ヨーロッパ文明も、この縄文文明の伝統に刺激を与え、活性化する役割を果たしてきたが、結局のところ、縄文文明に取り込まれ、のみ込まれていったのだ。このように見るならば、日本文明は独自の文明であり、縄文文明こそが日本文明の基層であるといっても過言ではない。縄文文明こそが、日本の内なるフロンティアなのだ。

https://parole.laboratorio.ltd/n/n2f74176c0c90 【縄文社会が築きあげてきた自然循環型の文明は、地域社会そのものが『個』として自立していく小規模分散型の、ネットワーク文明へと受け継がれようとしている。】 より

かつて宗教学者の中沢新一と音楽家の坂本龍一が、持続可能社会へのカギが見つかるかもしれない、と考えて環状列石(ストーンサークル)で知られる青森県小牧野遺跡を訪れた。小牧野遺跡は、約4000年前、縄文後期前半の遺跡である。環状列石は、祭祀場と考えられており、「広場の周縁は石垣状の列石に囲まれているので、さながら円形劇場のような空間効果を演出している」と説明板に書かれている。その環状列石を前にして坂本龍一は、こう言ったという。ちょっと長いが、以下引用する。

「環状列石の中にいると、石を運んできてお祈りしている人たちの姿が見えるかのようで、不思議な感覚になりますね。三内丸山遺跡よりも一歩進んだ宗教心の在り方で、国家寸前まできている気がします。僕は直感的に、環状列石というのは天を地に模したものだという感じがしたんですが、ただ岩を拝んだりするのとはちょっと違って、天上の世界を人工的につくろうとしていると思う。そして一般人は土葬なのに、何十年かに一人の特別に選ばれた人間だけが、土器棺に入れられて埋葬されている。一人の人間が自然のパワーを象徴するようになって、集中した権力を持っているということで、ほとんど天皇制直前のカタチに思えます」。

こう言った坂本龍一に対して、中沢新一は違った観点から重要な視点を提示した。

続けて、こちらも長いが、以下引用する。

「国家がいつ生まれてもおかしくない状態にあるのに、そうならなかったのは、国家の発生を抑える何かがあったってことでしょう。アメリカ大陸の場合、インカやマヤなんかは国家ができたんだけど、わりと短命ですよね。もともとアメリカ大陸の先住民族はモンゴロイドですから、中国で高度な文明をつくった人たちと同じ起源をもっている。だからDNAの中には国家を造る要素もあって、いったんは国家形成の方向に向かったのに、それを解体しようとする精神性も非常に強かった」

 なんとも不思議だ。国家を造り、権力を高め、壮大な事業に乗り出すことに積極的な人たちがいる一方で、あえて国家を造ろうとしない人たち、国家ができそうになると、それを解体の方向に押し戻そうとする人たちがいたのではないかというのだ。その見方が正しければ、ここ小牧野遺跡は、国家を造ろうとはしなかった人たちが残した遺跡ということになる。私たちは、国家を造った側が、国家を造らなかった側を支配し、抑圧し、飲み込んでいった歴史しか知らない。一方的にやられっぱなしの側に自ら進んで回るなど、とても考えられない。それとも国家を造ることで何か失うものがあるということなのか。裏を返せば、国家を造らないことで得られるもっと大事なものがあるというのだろうか。

https://parole.laboratorio.ltd/n/n6fe4685c4aab  【国家を造らないことで得られるもの。その答えが三内丸山遺跡にあった。】ヨリ

三内丸山遺跡は、縄文前期中葉から中期末期(5500年~4000年前)の1500年間に、約40ヘクタールの広大な範囲にわたって10棟を超す大型の竪穴住居と780軒にも及ぶ住居がつくられたと推定される。しかし、これほどの規模の集落にもかかわらず三内丸山遺跡で暮らしていた縄文人は、権力を集中し人々を統治する国家をつくる方向を志向しなかった。国家をつくるために費やす労力を、祭祀や儀礼や信仰に注ぎ込んでいったように見てとれるのだ。

環境考古学者の安田喜憲氏の言葉を借りれば、縄文社会は「自然と共生し、永続的・循環的に生き、命あるものがすべて平等の価値を持つという文明原理に立脚した社会を構築した。こうした文明原理を永続的に維持するために、縄文土器や土偶を大量に生産する知的・芸術的行為やストーンサークルの構築、あるいは巨木の祭りなどの宗教的といった、日々の生業活動とは異質の直接生産には結びつかない文明の装置・制度系を際立たせて発展させた」という。

だとすれば、縄文人が国家をつくらないことで得ていたもの、それは社会や文化の持続性であり、自然(神)との共生やそれに伴う祭祀や造形へのエネルギーであり、人間にとどまらず、自然や物も含めたうえでの平等主義だったのではないだろうか。

そして、縄文人は必要以上の労働をあえて避ける生き方を信条としてきたという。人間が自分の必要を越えて労働するのは、強制力による以外にない。ところが、まさにその強制力が縄文社会には不在なのだ。本質的に平等社会を生きる縄文人にとっては、生産活動は必要の充足、つまり「足るを知る」ということ以外のなにものでもないのだ。当然のように、縄文人の1日の労働時間は驚くほど短く、余った時間を祈りや祭りといった精神文化に費やしていたと思われる。

考古学者の小山修三の見立てでは、縄文人の5人家族が年間に必要な食料はクリやドングリが八石六斗(約1500リットル)、魚が2000匹、イノシシ・シカが1~2頭などだったという。ドングリ類は年に一週間ほど山に入れば集められる量だという。もっとも重要な蛋白源は魚であるが、乱獲によって漁獲量が減少してしまった現在でも、我が国おいて、季節ごとに回遊して海岸に押し寄せるサケやマスやニシンやイワシなどの年間漁獲量は1000万トンを優に超えるという。縄文人にとって、たいした仕掛けを用意しなくても年に2000匹の魚を獲ることなど、いともたやすいことだっただろう。

太古の暮らしは復元が難しい。文化人類学者の岡田宏明は、世界各地の人々のエネルギー産出量や生産効率を比較しながら太古の暮らしのイメージを組み立ててきた。それによると、狩猟・漁撈・採取民の一人当たりの年間労働時間が805時間(1日にならすと2時間強)、焼き畑農業と豚飼育を組み合わせた暮らしが780時間。国家を形成した稲作農耕民は1129時間という調査結果を紹介しながら、狩猟・漁撈・採取民、つまり縄文人の社会が、じつは労働に縛られない社会だったことをあきらかにしている。豊かな自然に恵まれて暮らしてきた縄文人と、稲作を取り入れた弥生人では、弥生人の方が年間を通じてあくせく働かざるを得ない状況にあったという。

https://parole.laboratorio.ltd/n/na24f6a2693f7 【古来、我が国には「国家」という言葉は無かった。そんな概念がなかった。】 ヨリ

<クニ>という言葉はあった。概念もあった。<イエ>があって、<ムラ>があって、<ノラ※1>があって、<ハラ※2>があって、そして<クニ>があったのだ。

※1.ムラの外のもう一つの人工的空間として農地。ノラは<野良>であり<野良仕事の場>を意味する。

※2.ムラの周り5~10kmの空間をハラという。活動エネルギー源として食料庫であり、必要とする道具の資材庫である。

ここで、時代は、縄文時代からいっきに江戸時代に飛ぶ。江戸時代は、徳川家康が江戸に幕府を開いた1603年から、徳川慶喜が大政奉還した1867年までの265年間の時代のことをいう。この間、鎖国政策がとられていた。265年間という期間にわたって大乱がない時代で、食料もエネルギーも自給自足を実現。しかも貨幣経済社会を高度に発達させていた。こんなことは古今東西、世界史上ありえないことであった。また、士農工商の身分制度にあらわされるような、頂点に君臨する武士たちが威張っていた封建的な社会でもなかった。貨幣経済社会を担っていた「商」、つまり町人たちに勢いがあった社会だった。「士」である武士たちは、お米が禄高として支給された物々交換経済に縛られていたため、暮らし向きは、結構、苦しかったようだ。利が利を生む貨幣経済に、武士たちの生活は「武士は食わねど高楊枝」と言わざるを得ないほど、翻弄されていたようだ。

幕藩体制が確立された江戸時代は、カタチのうえでは中央集権制だったが、事実はどうも違っていたようである。幕府が中央政府とするならば、各藩は地方自治体のようなもので、お国(クニ)とも呼ばれていた。ネットワークシステムでいうならば、200~300藩が、あたかもPeer to Peer※3のカタチで小規模分散並列的に存在していた。当然、お国(クニ)への締め付けもゆるやかなものだった。ゆるやかどころか、いま、わが国で盛んに議論がなされている「地方分権」が確立され、なおかつ藩札、今で言うところの地域通貨の発行による「歳出と歳入の自治」が確立していた、結構、とんでもない社会だったようだった。当時の江戸社会は、都市社会であり、通商社会であり、農業社会であった。国家という言葉はもちろん、概念もなかったのである。

「江戸っ子は宵越しの銭を持たない」という落語のお話しがある。じつは、このお話しは、安定した持続可能社会においてはじめて実現した「粋」な生き方だったのである。宵越しの銭を持たなくてもいい社会であるためには、翌日も、約束された仕事があるという社会であり、与えられた仕事をちゃんとこなしていれば、元気なうちは働くことができ、1日働けば、1日の手間賃が貰えるという社会システムが確立していなければならないのだ。

年金の財源が足りなくなる。当たり前である。少子高齢化社会になってしまった。若者2人が1人の老人の年金を拠出せざるを得ない状況で年金を減額したり、年金の支給時期を遅らせたり、年金の掛け金を増やしたりという論議は、愚の骨頂なのだ。平均寿命が男女共に80歳を優に超えているのである。年金の話も大事なことであるが、80歳の老人が働ける社会。宵越しの銭を持たなくても済む、「粋」な社会システムを、どうすれば構築することができるか。21世紀社会における展望は、縄文社会が築きあげてきた自然循環型の文明社会と、江戸社会が築きあげてきた持続可能な文明社会の両方を取り込んで、そこに<中今>ともいえるべく<あわい※4>の場を具現化する。人口が減少に転じたときにこそ、新社会システムを創造する可能性が見えてくるのではないだろうか。少し強引な論かもしれないが、このぐらいの相転移があってもいいのではないだろうか。

※3.間(あわい)という。向かい合うもののあいだ。また、二つのものの関係を意味する。

※4.Peer to Peer:ネットワーク上で対等な関係にある端末間を相互に直接接続し、データを送受信する通信方式を意味する。

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