森との共生

Facebook・竹元 久了さん投稿記事

🔵精錬燃料に森林を伐採、そして文明は滅んだ

日本の場合・森の管理を怠ると自然災害が増え国力が低下する また、GDPが上がっても国民の幸せ感、国力につながらない。

引用

このように、古代文明の時代から人類が続けてきた森林破壊によって歴史上何が起きたのであろうか。文明の衰退である。森を破壊することによって発展させてきた文明が皮肉にも、森の破壊が原因で衰退していった 。このことを科学的に立証したのは、世界で環境考古学という新しいジャンルの学問を確立した安田喜憲である(参考:同氏著『森と文明の物語-環境考古学は語る』=ちくま新書)。樹木などの花粉は何千年土中に埋ま っていても組織が破壊されない。

土中から採取した花粉を電子顕微鏡で分析することによって、どの年代にどのような植物が生えていたかを正確に知ることができる。したがって、文明の歴史と重ね合わせてみれば植 生の変化と文明の盛衰が関係つけられる。

木を伐って滅んだ文明  こういった研究の結果、森林破壊によって衰退していったことがわかった古代文明をいくつかあげてみよう。 

かつて鬱蒼としたナラの森に覆われていたクレタ島に栄えたミノア文明(紀元前3,000~1,400年)。

クレタ島(ミノア文明、クノッソス宮殿遺跡とその周辺)  メソポタミアとの交易で栄えたが、輸出用森林資源の枯渇によって衰退したインダス文明(紀元前2500~同1700年)。アナトリアで紀元前1100年頃製鉄法を発明し、鉄製武器によって青銅製武器を持つエジプトとの戦 いで優位に立ったヒッタイト(紀元前1,600~500年)。

アナトリア半島(ヒッタイト遺跡とその近く)  モミ、マツ、ナラの森に覆われた古代ギリシャのミケーネ文明(紀元前1500~同1100年)などである。ミケーネの王、アガメムノンがトロイ攻めを行ったのは、ペロポネソス半島の森がなくなり、代わりにアナトリア半島の 豊かな森林資源に目を付けたからではないかと推測されている。

アナトリア半島(エフェソスの遺跡とその近く)  人類が最初に森の破壊を始めたのは紀元前3500年頃のことといわれる。メソポタミアで人類最古の物語が「ギルガメシュ叙事詩」として粘土板に刻まれたものが発掘されている。

シュメールの王ギルガメシュの英雄伝説 である。この物語は、ギルガメシュとその従者エンキドゥが、レバノンにある香柏とよばれる鬱蒼とした杉の巨木の森を、その番人フンババを殺して破壊をするところから始まる。この豊かな森林資源をめぐってメソポタミ アやエジプトの諸王による争奪戦が行われ、やがて消滅していった。

 これらの古代世界に限らず、その後のローマ帝国、ペルシャ帝国、オスマン・トルコ帝国)、ムガール帝国、そして中国の唐・宋・元・明・清といったスーパー・パワーを築いた文明圏でも、あるいは、近代そしてずっと時 代が下って現代に入っても、世界各地の森林を破壊し続けてきたわけである。

時代は下って産業革命期に入ると、少なくとも製鉄用木炭をつくるための森林破壊は止まった。
イギリス人のダービー親子が石炭を蒸し焼きにしたコークスを使う高炉を、そして同じくイギリス人のべッセマーが転炉を発明した。転炉は溶鉱炉から出てきた銑鉄の中に空気を吹き込んで不純物を取り除き、大量か つ安価に品質のよい鋼鉄をつくる方法である。これらの技術は現在も使われている。この近代製鉄技術が開発されたときには、すでに英国はじめヨーロッパでは森林はほとんど伐採しつくされていた。

 精錬に使用する木炭生産のための森林・生態系破壊は止まった。しかし、金属の大量生産は別の目的でいまも森林破壊を続けている。

 産業革命以後の急激な金属の需要増大は、鉱石採掘を世界に拡散させた。まず、高品位の鉱石資源が掘りつくされ、次第に低品位の鉱石も対象になっていく(現在、銅鉱石の品位は露天掘りの場合で0.6%、金鉱石は0.00 01%=1トン当たり金含有量1グラム程度である)。これは、わずかな金属を取り出すのに必要な採掘量が桁違いに大きくなることを意味した。

その結果、発展途上国などの豊かな熱帯雨林を切り開き、大規模な露天採掘 が行われることが多くなってきている。

🔵今年は森で元気になろう!森の中での五感の潤し方【嗅覚編】🎄

森に行くとなぜ気持ちがいいのか?

漠然と行く森と、少し知識を持って行く森と、元気のなり方がきっと違うはず。

森の気持ちよさを「五感」から紐解き、♦昔の日本と同じで、地方、里山へ行くほど酸素濃度が高く、疲れたココロとカラダが元気になる過ごし方をお伝えします。

森の清々しさ

自然豊かな森林は、本当に清々しく、空気が美味しいですよね。

空気がきれいでもありますが、その理由は木々にあります。

木の幹や葉からは常に芳香成分(アロマ)が発せられ、空気中を漂っています。

アロマというのは、木が何十年、何百年、ただ1点に根付き生きていくために必要で、防虫、抗菌の役割をしているものですが、それを嗅覚がキャッチし、私達は「清々しい、空気が美味しい」と感じているのです。

針葉樹の多い所では、スッとした香りを感じることでしょう。

湿気が多い午前中、雨上がりはアロマの匂いをより感じやすいので、あえて狙って行くのもおすすめです。

森のアロマは自律神経を整える

万人の健康に、実は森は最適なのです。元気すぎる人は落ち着かせ、鬱々としている人を元気に…。森の偉大さを感じずにはいられませんね。

呼吸も整える

普段の生活では呼吸が浅いと感じませんか? 森では空気中のアロマの助けもあり、おのずと呼吸が深まります。

元気回復にぜひ深呼吸してみてください。腕を大きく広げ、胸いっぱい空気を吸い込みましょう。普段の生活で前かがみになった身体を広げるためにここでは腕を使ってください。アロマ成分が肺に入り込むことで、さらに健康増進が期待できるでしょう。

木、葉、土の香り

木や葉を手に取り、植物そのものからも香りを感じてみてください。材、樹皮が香るもの、葉をこすると香るもの、匂いの有無、強弱もあります。

横になれる場所があれば寝て、土の香りを感じましょう。微生物や菌が働いて発する香りはどこか懐かしく感じられかもしれません。

五感を少し意識するだけで、自然の本当の豊かさに触れていける気がします


https://www.shinrin-ringyou.com/kinou/f00.php  【森林の持つ公益的機能】


https://watashinomori.jp/study/basic_02.html 【日本の森の歴史】より

縄文時代に里山出現

日本人が森を使って暮らし始めたのは、縄文時代。人々は火を燃やすために木を伐採し、森で採れる山菜やキノコ、あく抜きしたドングリやトチの実などを食料にしていました。また、クリやウルシを栽培して利用していたことが、青森県の三内丸山遺跡から確認されています。森林を刈り開いて火をつけ、その焼け跡に作物の種を蒔く「焼き畑」も縄文時代に始まりました。火入れ後には雑穀や野菜の種のみならず、樹木の苗も植えられていました。

福井県にある鳥浜貝塚からは石斧柄、弓、尖り棒など変化に富んだ木製品が豊富に出土。使われた樹種はスギ、ヤナギ、クリをはじめ30種にものぼり、それぞれの樹種の性格を充分に理解した木材の使い方が既に実践されていたようです。

森林荒廃の始まり

有史時代に入ると、水田耕作の肥料としても森が使われるようになりました。落ち葉や草木の若芽・若葉を刈り取り、田の中に踏み込んで腐らせる「刈敷」がそれです。風土記には、松脂、榧子(かやのみ)など様々な草木が薬用に使われていたことが記されており、人々の知恵による森活用の幅が広がって来たことがわかります。

その一方で、建築用の木材需要増加や水田開拓のために森林乱伐が進みました。日本書紀によると、天武天皇が、飛鳥川上流の畿内の草木採取と畿内山野の伐木を禁止する勅を発令(676年)。これは、森林伐採禁止令の最古の記録とされています。

平城京、平安京の建設、寺社仏閣の建築ブームなども相まって、800年代までには畿内の森林の相当部分が失われ、600年〜850年は日本の森林が荒廃した第一期とも言われています。

同じ頃、マツの木が定着して来たという記述があります。古代から窯業がさかんだった大阪市の泉北丘陵で見つかった木炭の調査によると、窯に使われた木炭は、それ以前がカシなど広葉樹で占められていたのに対し、6世紀後半からアカマツが増え始め、7世紀後半になるとほとんど全部がアカマツになった。これは、周辺の照葉樹林が荒廃して次第にマツ林に代わったと考えられる。このように、マツ林を森林の劣化・荒廃の指標植物とする見方もあるようです。

産業による燃料材の需要加速

農耕社会での利用、建築用材としての利用に加えて、工業での燃料材としての木材需要も次第に増加しました。特に大量の燃料を必要としたのは、製塩業、製鉄業です。

たたら炭の炭焼き風景

瀬戸内海地方では「製塩」燃料として森の木が大量に使われていました。天日で濃縮した海水を煮詰めて塩をとるために必要な薪。その生産を目的とする山林は「塩山」「塩木山」と呼ばれ、奈良時代に東大寺が560町歩(約555ha)もの広大な塩山を所有していたという記録があります。製塩業の一大中心地、播磨国赤穂ではマツ薪や松葉が多く用いられ、最初は塩田周囲の山林から供給されていたが、やがて内陸へ、瀬戸内の島々へと広がり、塩木山ばかりでなく農民の山まで伐採の手が及びました。

同様に、タタラ製鉄で知られる中国山地でも燃料としての大々的な伐採が行われ、その需要たるや、「タタラを維持するために山林の樹木を20年に一度伐採して使うとすると、一つのタタラが操業し続けるために必要な山林の面積は800町歩(約793ha)」とも言われるほどでした。

戦乱の世、進む森林破壊

古代から中世を通じて、近畿など先進地域を中心に人口増加とともに森林需要は増加し、森は減少・劣化。時代が武家社会になってからも、木材需要は増加の一途を辿りました。武士が思想の拠り所とした禅宗の寺院建造、仏像など木製の彫像芸術、御家人の住居建設、そして農民による水田開発…。さらに戦国時代には、鉄砲・刀剣・槍などの武器製造や砦や城の建築などに大量の木材が使われ、乱伐は続きました。戦乱の炎で焼かれた森林も少なくはないでしょう。

また、戦国大名は、自らの領地において治水・灌漑、農産物の増産、商工業者の結集、鉱山開発、城郭の建設などを進めたため、社会は発展。日本の人口は、15世紀中頃から18世紀初頭までに約3倍にまで急増しました。それに伴い、中心的な資源である木材の需要も増える一方だったのです。

室町時代には、天竜の犬居町秋葉神社でのスギ、ヒノキの植林、奈良県吉野川上郡でスギの植林が開始されました。このあたりが本格的な人工造林の最も古い記録とされています。また、1550年頃から山林の荒廃・洪水の害を防止するために植林が奨励され、安土桃山時代には、武蔵国高麗郡で数万本の苗を植え、かつ数十町歩の原野を切り開いて木を増殖した史実もあります。このような植林推進の一方で、戦乱後の復興や安土桃山文化の絢爛たる建築物の建造などに森林資源が使い尽くされました。

江戸時代に入っても森林破壊は留まることなく、1710年までには本州、四国、九州、北海道南部の森林のうち当時の技術で伐採出来るものの大半は消失したとされています。森林資源の過剰利用により、日本列島の各地に「禿げ山」が生じ、木材供給の逼迫のみならず河川氾濫や台風被害などの災厄をもたらしました。

森林再生への努力、江戸時代

禿げ山は度重なる洪水の原因ともなり、江戸時代になると幕府と諸藩は河川の付け替えなどの治水事業と森林の保全に乗り出しました。森林の保全は、禁伐林などを指定する保護林政策と伐採禁止、植栽、土砂留工事などを組み合わせて行われ、とりわけ保護林政策が厳しくなって行きました。

江戸時代の森林は、藩有林、村持山、社寺・豪族などの私有林に大別され、原則、森林の管理は藩に任されていました。古代より、「林野公私共利」(大宝律令)の原則のもと農民は里山から落葉落枝、灌木、下草などを採取する権利があり、その権利は中世を経て徐々に厳しくなりましたが、江戸時代に至っては「村持山」を入会の制度にしたがって利用するだけ、に制限されました。

江戸幕府は代官所に村々での植樹・造林を命じ、また、1661年、幕府と諸藩は林産資源保続のため「御林」(下草から枯れ枝まで採集を禁じた直轄林)を設けました。*「留山制度」ともいい、それは「木一本、首ひとつ」というほど、厳しい制度だったそうです。

一方、17世紀後半以降、海岸を有する多くの藩でいっせいに「海岸林」の造成が行われました。その理由は、江戸時代初頭の急激な国土開発による山地・森林荒廃の影響として、海岸で飛砂害が激化したことへの対策。河川上流の森林が劣化したことにより、流出した大量の土砂が沿岸流によって各地の砂浜海岸に到達し、それによって飛砂が発生したとされています。

岩手県陸前高田市にあった高田松原

(※9)岩手県陸前高田市にあった「高田松原」。江戸時代の1667年(寛文7年)、高田の豪商・菅野杢之助によって植栽され、仙台藩と住民の協力によって6200本のクロマツが植えられた。享保年間(1716-1736年)にも増林が行われ、以来、クロマツとアカマツからなる計7万本もの松林は、景勝地として日本百景にも選ばれた。

東日本大震災後の高田松原「奇跡の一本松」

2011年3月の東日本大震災の大津波に耐えたのは7万本中、1本だけ。「奇跡の一本松」として知られる。

海岸林造成では、各藩とも試行錯誤の結果として、塩害に強く貧栄養な立地条件でも生存できるクロマツ林を成林させました。「白砂清松」と、日本人にとって見慣れたマツ林の起源は、このあたりにあるようです。

江戸幕府の厳しい伐採・流通規制、森林再生促進など森林保護政策の結果として、日本列島の森林資源は回復に転じました。荒廃した日本の森がなんとか 破滅せずに存続したのは、雨の多い湿潤な気候、人が立ち入れない急峻な奥山や聖域としての森(鎮守の杜など)があったなどの理由もありますが、江戸幕府による積極的な植林事業に負うところが大きいようです。人口100万人の江戸の街には、武家屋敷の周囲を囲む屋敷林、寺社が所有する森が広がり、江戸市域全体の緑被地率は42.9%と世界でもまれに見る緑豊かな都市だったとされています。

明治維新後、戦後は、禿げ山の危機

天下泰平の時代が終わり明治維新を迎えると、政治的混乱の中、至るところで官林の盗伐や民林の乱伐が行われ、再び里山の森林が荒廃へ向かいました。また、近代産業の発展により燃料としての薪炭、開発にともなう建築材などの需要は増える一方。森林の伐採は進み、明治中期は日本で過去もっとも山地・森林が荒廃していたとの推定もあるほどです。

このような状況下で明治政府は、1897年、保安林制度と営林監督制度を二本柱とする「森林法」を制定。禿げ山に対する山腹工事、植栽も各地で展開され、こうした治山事業を柱とする国土保全、また、増大する木材需要への対応として林業強化政策が進められました。

その後、社会の安定とともに山林保護規制が課せられ、国や民間による造林も盛んに行われるようになりました。1929年には造林推奨規則が公布され、初めて私有林まで補助対象を拡大するといった動きもありました。

笠取山荒廃の様子・大正11年(1922)

(※10)東京多摩川の水源地、笠取山荒廃の様子(1922年)

ところが、1941年に太平洋戦争が始まると、大量の木材や木炭が必要となり、平地林は造船・建築・杭木・薪炭用材としてことごとく伐採され、奥山 の国有林からも軍需造船用材その他に用材として多くの大木が伐られました。最終的には、風致林、社寺林、防風林、そして幼齢林まで伐採。全国各地の山が禿げ山と化したそうです。

終戦後、全国各地でそれまでなかったような大水害が発生し、これらを阻止すべく荒廃林地への植林が国家再建の重要課題に。そして、1950年、緑化運動推進母体として「国土緑化推進委員会」結成。森林資源を造成し、国土の保全と水源かん養を図り、生活環境の緑化が推進されました。

拡大造林、そして現在の危機

昭和20年〜30年代には戦後の復興等のため木材需要が急増し、政府は、広葉樹からなる天然林の伐採跡地などを針葉樹中心の人工林に置き換える「拡大造林政策」を実施。伐採跡地への造林のみならず、里山の雑木林や奥山の急峻な天然林までが伐採され、代わりにスギやヒノキなど成長が早い針葉樹の人工林に置き換えられました。当時は、建築用材となるスギやヒノキの経済価値は高く、需要増加に伴い価格は急騰し、一大造林ブームとなりました。

(※11)当時の植林ブームがうかがえる、野々市山(石川県)での植林の様子(昭和32年撮影)

ところが、その後外国産の木材輸入が自由化され、価格の高い国産材よりも外材の需要が高くなりました。と同時に、家庭用燃料が薪炭から化石燃料へと置き換わり、日本の森林資源は、建材としても燃料としても価値を失い、林業は衰退。利用されずに放置された人工林は、必要な間伐などの手入れが行われないために森としての健全性が失われ、荒廃してしまいました。

生活圏としての里山においては、使うぶんだけ木を伐り森の手入れをしながら共生してきた日本人。その一方では、建築需要や戦乱などにより天然更新が間に合わないスピードで急峻な奥山までを皆伐し、禿げ山にしてしまってから、植林して人工林にする。そんな乱伐と人工造林を繰り返して来た歴史があります。

そして、現在の日本の森は、木の使い過ぎによる危機ではなく、木を使わなくなったことによる歴史上初めての危機を迎えているのです。この危機を乗り越えるべく、木材の需要を増やすための対策、荒廃した森林を再生させる様々な取り組みなどが、官民をあげて全国的に進められています。

参考

『井川山林 昭和30年代 伐採・搬出の記録』 資料提供:特種東海製紙(株)

※昭和30年代の大規模伐採の様子がわかる貴重なドキュメント・フィルムです。

https://moritoie.com/  【私達NPO法人森と家を結ぶ会は、とちぎの森林を元気にするために木材の利用を推進していきます。】 より

森の抱える問題

戦後の拡大造林政策によって造林された人工林の樹木が成長して伐採期を迎えています。しかし、木材の需要減少や、輸入材の増加などによって伐っても資源としての価値が低くなるため、その多くが手をつけられない状況です。二酸化炭素の吸収量は樹齢50~60年でピークとなり、100年を超えるとその機能はほとんど無くなると言われています。このままでは二酸化炭素を吸収しない樹木ばかりの森林になってしまうのです。十分に成長した樹木は資源として活用し、新たに植林した若い木を育てて二酸化炭素の吸収量を増やす必要があります。資源が豊富にありながら31.6%しかない木材(用材)自給率を上げる努力が求められています。

(※)林野庁:森林・林業白書(平成30年版)より

森林の荒廃

森林が様々な機能を発揮するためには樹木が成長しやすい環境を整える必要があります。「下草刈り」「除伐」「間伐」などの作業がそれに当りますが、木材価格の低迷などで管理コストが回収できず、また、林業就業者の減少や少子高齢化などによって管理の行き届かない荒れた森林が増加しています。荒れた森林では樹木は密集しているため十分に育たず、風雪によって倒木などの被害を受けやすくなります。また、光が地表に差し込まないことで草が生えなくなるので雨によって地面が侵食され、土砂災害が起きやすくなります。さらには豊富な貯水効果も機能しないことで一気に河川に水が流れ込み、下流域で洪水などの被害が発生してしまいます。

私達が目指すこと

理事長 益子 重具

このような森の状況を踏まえ、私達は

に努めるべく活動しています。どうか皆さんも私達と一緒に森林を育てていきましょう!!

コズミックホリステック医療・教育企画