秋蝶の翅の破れて舞ふ・正岡子規

秋蝶の翅の破れて舞ふ陽かな  五島高資

The autumn butterfly

with a torn wing

in the bright sunshine Taka Goto

連想するのは正岡子規。

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/201901280000/ 【子規の病気・カリエス】より

   蓬莱や襖を開く病の間(明治33)

   病人の息たえたえに秋の蚊帳(明治34)

   手袋の編みさしてある病かな(明治34)

   我病んで花の句も無き句帖かな(明治35)

   病む人が老いての戀や秋茄子(明治35)

 

明治29(1896)年3月、子規は専門医から腰の痛みがリウマチではないと診断されます。子規はこの宣告に驚きました。

 歩行ができなかった子規も、3月末に手術を受けて、少しは歩けるようになりますが、病魔はそれだけでは許してくれませんでした。結核菌は、子規の骨髄を冒し、背中と腰に穴を空けました。徐々に拡がった穴から膿を吐きだすため、寝返りは打てず、咳をしても体中に痛みがひびきます。

 包帯を毎日取り替えるのは妹の律の役目です。痛み止めのモルヒネを打った朝に、膿でじゅくじゅくになった綿をはがし、油薬を塗った新しい綿をかぶせていきます。律の聞き書き『家庭より観たる子規』には「穴は背中と腰の方に、初め二つであったのが一つになった、まア大きいのが二カ所で、フチが爛れて真赤になって、見るから痛そう、というより無残なほどにギザギザになっていました。そこへちょっとでも触れようものなら、飛び上がることもできないほどであったらしいので、できるだけソーッと古いのを剥がすのですが、いつでも膿汁でずくずくになっていましたから新しいのには、棉フランネルのような柔らかい切れに、一面油薬をぬって、それで穴を塞いで、その上へ脱脂棉を一重、その上へ普通の棉をかなりな厚みにのせて包帯をかけ、ピンでとめておくのでした」と語っています。

 

 

 子規の主治医だった宮本仲は『私の観た子規』の中で「病気は今でいう肺尖カタルで、その後子規がカリエスになったのは自然自然に起こったもので、脊髄の第五腰椎という腰の骨がカリエスを起こし、それから挫骨神経の痛みを起こして、始終痛い痛いと苦しむようになった」と語っています。

 明治29年3月17日、子規は叔父の大原恒徳宛書簡で「当地も大分あたたかに相なり、私病気もいくらかよろしく候。しかし相変わらず歩行叶わず候。はじめより医師病名を判然と申さず候ゆえ、自分もいくらか推察致しおり候ところ、今日他の医師(リウマチ専門とか)来たりて普通のリウマチに非ざることはほぼ承知致し候。今まではただ、歩行でき得る時機のみ待ちこがれおり候いしかども、リウマチにてもなければ歩行でき得るや否やも分からず」と報告。3月17日の虚子への手紙で、「今日の夕暮ゆくりなくも、初対面の医師に驚かされぬ。医師は言えり、この病はリウマチスにあらずと。歩行し得ざることここに五旬、体温高き時は三十九度に上り、低き時は三十五度七分に下がる。たちまち寒くして粟肌に満ち、たちまち熱くして汗胸を濡おす」と報告し、「詩を作り俳句を作るには誠に誂え向きの病気なりとて自ら喜びぬ」と強がりをいいましたが、病気が進行するにつれ、そうした言葉は聞かれなくなりました。

 

 河東碧梧桐は、3月27日の子規の手術に立ち会いました。その時の記録が『子規の回想』に残されています。

 

 その三月二十七日、佐藤三吉博士の手術があるというので、立会人に私が立たせられた。成程脊髄の中央部に腫物でもなければ、筋肉の膨張でもないエタイの知れない大きな隆起がある。大山が出来たというのも、患者の感覚ばかりでもない、驚くべき贅瘤なのだ。当時、天下無二の国手の手術というのが、鋭く長い漏斗状をした銀色の管を、力に任せて贅瘤の肉へ突き刺す、無造作なものであった。局部麻酔など進歩した方法もなかったのか、患者は身を震わして痛みに耐えていた。突き刺した管をそのまま、さぐりを入れて、中の膿をさそい出すのであるが、剌し込み場所がよくないとかで、二度び管を刺し替えた。

 佐藤国手が帰ってから、随分乱暴なことをするんだな、と慰め顔に私の見た通りの話をすると、最初のはひどく痛かったが、二度目のはそうでもなかった、しかしこれで安臥出来れば結構さ、と暗に明日からの幸福を夢見ているようだった。

 が、子規の漱石への手紙に書いているように、医者の保障を裏切って、背中の楽な心持ちは、一週間とつづかなかった。それに、管を突っ込んだ穴の―つの方は、いつまでも癒着しないで、絶えず膿汁を拭き取らねばならない、別な事変を生じた。私が北国行脚から帰った後、思い出したように、

「矢張り痛いというのには、どこか無理があるのじゃな、痛くなかったのが綺麗に塞がって、痛かった方が、どうしても直らない……佐藤ほどの国手でも、ちょっとした手具合があるもんと見えるな。

 と、長いこと穴の開閉について考えていたかのような述懐をした。それから一、二年も経ったずっと後のことであるが、背中の穴はもう塞がったかな、と不用意な問いに対して、背中の穴どころか、この頃はお前、臀の方が蜂の巣のような穴だらけさ、といつになく荒々しい語気で言った。

「脊髄カリエスは段々下方に移動して、尾骶骨骨辺に及び、自然に膿汁のハケ口を臀部に求めて、手術もしない膿穴が、皮肉を浸触しているものらしかった。もうそうなっては、膏薬だとか、消毒だとか、内用も外用も、手あての方法はない、腰一面綿をあてがつて、ソーツと維帯でもして置くだけのことさ、まアなんじゃな、ところどころ柘榴(ざくろ)のような口が裂けていて、そこから二六時、膿がじびじび出てくる、臀なんか大概爛れて腐っているさ。

 子規はなお、語りつづけるのである。

「そうじゃな、お前に立会ってもらって、佐藤国手が背中へ穴をあけたのは、もう一昨昨年のことになるかな、あの時、随分痛くてひどいことをする、と思ったが、それどころか、佐藤国手以上に自然手術の穴が三つも四つ。捨てて置いたら今に蜂の巣になるだろうさ。背中の穴の―つが、どうしても塞がらないので、こんなことでは、もう生命は一分刻みに縮まるものと、あの年一杯くらいの覚悟はしたものだが、臀の方へこんな穴が出来たので、もういよいよいかん、加速度に生命は蝕む、と、とっくに今日か明日かと待っているのだが、なんの業か、まだ一寸死ねそうにもない、こうなると妙なもので、よし容易に死なない、出来るだけ頑張って生きてやる、そんな気にもなってな、ただ困るのは、寝返り―つ出来ない、この生きながらの苦しみよ、もっと緩めて貰うことは出来ないのかな、何とか身体を宙に釣って、どう寝返ろうと、痛みも何も感じないと言った具合にさ、毎朝の維帯のとりかえ、それが大事件で、泣き叫ぶ、真に阿鼻叫喚の修羅場なんだ。歩けなくとも、立てなくとも、坐れなくても、と段々望みが縮小されて、今ではどうか寝返りがしたい、というように、人間も虐待されればされる程、亀の子のように、追々ちぢかまって行く、弱いと言えば弱いし、強いと言えば強いもんじゃな。イヤお前らのような健康な達者な人には、どう話しても、このアシの心持はわからんよ、どう苦しくて、やるせがなくて、滅入りそうで、それでいて息のある間は、何でも出来るだけしておきたい……。

 子規は独語のように言いつづけていたが、パッタリ黙ってしまった。かすかに啜り泣くかと思われるような声を忍んでいた。

 病気がどこまで進んでいるかを、私はこの時始めて知ったのだ。脊髄カリエスの手術から、病勢は進攻を一日一時も緩めず、一、二年の間にジリジリここまで押し詰めた、その猛威ぶりを、久しく御無沙汰していたもののように、やっと気付いたのだ。七日目か十日目にはきっと顔を合わしていたものが、それまでさほどとも思っていなかった自分の怠慢を痛感したのだ。その癖、われわれは「ほととぎす」一巻時代から、「高田屋客」「淡路町人」などの仮名で、子規の病状を一般に通知することを忘れていたのではなかったのだ。何という自己矛盾なのだ、私も暗然として、言葉の接ぎ穂を見出すことが出来なかった。

 モヒ剤を飲んで、一時病苦を忘れる、最後の手段を見付けたのも、その時分であった。劇薬は習慣性になる、そんな常識的なことを言っている場合ではなかった。子規が、なぜもっと早くこれを飲むことを教えてくれなかったか、と、その効果の顕著な話をして欣然としていたのも、実は涙を包む淋しい笑いであった。(河東碧梧桐 子規の回想 四、カリエス手術)

 

 この痛みに耐えて、子規は、俳句と和歌の革新という偉業を成し遂げていくのです。