https://www.onedayhik.com/php/ymrec.php?recid=20010818_01 【月山~松尾芭蕉も登った山は花の咲き乱れる信仰の山~】より
月山 羽黒口コース
松尾芭蕉もその山頂に足跡を残したという月山。修験道の霊場としてまた山岳信仰の対象として広く知られた東北の名峰です。月山、羽黒山、湯殿山の出羽三山を巡拝する登拝道は、関東の大山講や富士山の富士講などとともに、古くから多くの人々の信仰を集めてきた道です。深田久弥氏の日本百名山の一つにも数えられ、遅くまで雪渓の残る山として、また高山植物に彩られた花の山として多くのハイカーを魅了してきた山です。
登山道は八合目の月山高原ロッジから登っていく羽黒口コースのほか、湯殿山から登って行く修験道のコース、姥沢から登って行くコースが開かれています。今回利用する羽黒口コースは高山植物の多いコースで、距離が長いものの比較的登りやすいコースと言います。
山行の記録
月山高原ロッジ~月山
月山八合目駐車場の目の前に広がる湿原は弥陀ヶ原。木道の続く湿原にはたくさんの花が咲いています。この湿原を散策に来たカップルなどに混じり、数組の家族連れが山頂を目指していました。先日の御嶽山のように、登拝を目的とした人達も前を歩いています。近郊の人か、言葉にも東北の雰囲気がにじんでいます。
木道が切れると登山道は右手の尾根に向かって緩やかに登って行きます。しばらく登ったところが一ノ岳。遅くまで雪渓が残っているところで、あたりは高茎草原のお花畑になっています。これから山頂まで1時間ほどとか。あまり先を急いでも仕方ないので、開けた草原に腰を下ろし小休止としました。
小休止の後、再び明るい尾根道を登って行きます。高度を上げるにつれて山肌を霧が包むようになってきました。しばらく登った台地が仏生池。小さな池の辺には数体の地蔵像が立っています。ここから登山道はオモワシ山の左側を巻きながら登って行きます。目の前の大きな岩は行者返し。溶岩帯特有のゴツゴツした岩は、月山が火山であったことを物語るものです。ミヤマハンノキの斜面を緩やかに登って行くと稜線上にたどり着きました。木道が敷かれた登山道は整備が行き届き、まるで何処かの遊歩道といったところです。左手から吹き上げる霧に急かれながら道を急ぐと石垣に囲まれた月山の山頂です。
狭い山頂一帯は月山神社の奥ノ院。ここも祈祷料が500円。立山の雄山もそうでしたが、山頂が有料というのは頷けないものがあります。山頂は吹き上げる霧に包まれ視界はまったくききません。たくさんの人で溢れる休息所に入り、とりあえず昼食のお握りをほおばることにしました。
月山~仏生小屋~弥陀ヶ原~月山高原ロッジ
しばらく待ってみましたが吹き付ける霧は一向に収まる気配がありません。仕方なく登山口を目指して下って行くことにします。しばらく下ると行者返しの岩場。この付近になると先ほどまでの霧が嘘のように晴れ上がり、目の前には鶴岡の町並みが広がっています。仏生池から更にしばらく下ると弥陀ヶ原です。木道をたどっていくと登拝者の宿泊所ともなっている弥陀ヶ原参篭所がありました。
夏雲の下に頭を出すのは鳥海山
振り返る月山の山頂
羽黒山
たどり着いた八合目の駐車場から狭い林道を羽黒町へ。長い夏の陽もそろそろ傾きかけていましが、羽黒山神社に参拝していくこととしました。暗い杉の林の中の有料道路をひと登りすると、羽黒山神社の大きな駐車場。まだ数台の観光バスが停まっています。
羽黒山神社は三社合妃の神社とか。ここに詣でると羽黒山、月山神社、湯殿山神社三社に詣でたご利益があるとか。神社の裏手には真っ赤な風車が風に揺れていました。水子を奉ったとお寺ようですが、このような所にも神仏混合の名残が残っているようです。
そろそろ傾きかけた陽に急かせるように羽黒山を後にします。途中、広く開けた第3駐車場からは夕日を浴びた月山を見ることができます。青く晴れ渡った空の下にそびえる月山も、山頂の一角だけはまだ白い雲に覆い隠されていました。
https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202005/202005_13_jp.html
【神々の山の五重塔】 より
山形県の出羽三山は古くから修験道の霊山として信仰を集めてきた。その山中、約650年前に建立された木造建築の羽黒山五重塔は、杉の老木に囲まれてそびえ立ち、自然と一体になった素朴な美しさで訪れる者に安らぎを与えている。
山地が国土の4分の3を占める日本では、山を神々が宿る神聖な場所として崇拝する山岳信仰が古くから行われてきた。平安時代になると、山岳信仰と大陸伝来の仏教や道教などの宗教が結びついた「修験道(しゅげんどう)」が成立し、全国各地に広がっていく。修験道の霊山とされる山々では、修験道の行者である「山伏」が厳しい修行を行った。
山形県の中央部に連なる出羽三山は、代表的な霊山の一つである。出羽三山は羽黒山、月山、湯殿山、という3つの山の総称で、その歴史は6世紀末に崇峻天皇の皇子である蜂子(はちこ)皇子が修行したことに始まると伝えられる。出羽三山では、羽黒山で現世利益を得て、月山で死後の世界を体験し、湯殿山で新たな命を得て生まれ変わるという信仰が形作られていった。こうした信仰は諸国を巡る山伏を通じ人々に広がり、江戸時代には全国から多くの参拝者が出羽三山を詣でるようになった。17世紀の名高い俳人、松尾芭蕉もその一人で、芭蕉は「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」という句を残している。
その羽黒山の麓に立つのが、東北にある仏塔で唯一国宝に指定されている羽黒山五重塔である。仏塔は、6世紀に中国から仏教が伝来すると、当時の都があった奈良や京都で建てられるようになり、仏教とともにやがて各地に広がった。
伝承によれば、羽黒山五重塔は10世紀に創建され、現在の塔は1372年の再建と考えられている。五重塔は、出羽三山の入口となる随神門を通り、かつて参拝者が身を清めた秡川(はらいがわ)を渡り、羽黒山の頂上へと向かう参道の脇、樹齢300年以上の杉並木の中に立っている。その高さは約29メートル、建物に色彩や装飾を施さない「素木造り」が大きな特徴である。
「杉に囲まれた五重塔は、まさに自然と一体化しています。長い年月にわたって風雪にさらされた白い木肌が、素朴な美しさを生み出しています」と出羽三山神社歴史博物館の学芸員、渡部幸さんは話す。
塔は杉と欅の木で組み立てられており、木材と木材のつなぎ目には、時間が経ち乾燥するほど、しっかり縛り上げる性質を持つ藤蔓で固定されている。金属のくぎは一本も使われていない。五層の屋根は、杉の薄い板を何層にも重ねる「杮葺(こけらぶき)」という技法で葺かれている。屋根の四隅が微妙に上方に反り、軒が深く造られている。この五重塔は、風雪から柱や壁を守る深い軒を支える「組物」も特徴的である。幾つもの木材が複雑に組み合わされた組物は、塔を強固にするだけではなく、装飾的な美しさも見せている。
羽黒山周辺は冬には1メートル以上の雪が積もる。そうした厳しい自然環境に立ち続ける五重塔は、繰り返し補修が行われ、今に受け継がれている。
「山伏、そして、人々の厚い信仰心があったからこそ、長い間にわたって五重塔が守られてきたのだと思います」と渡部さんは話す。「観光客の方の中にも、五重塔の前でじっと、長い時間を過ごす人もいらっしゃいます。自然に包まれてたたずむ五重塔を見ると心が落ち着くと多くの方が言います」
神々が宿る山に静かに立つ五重塔は、自然と深くつながってきた出羽三山の信仰とその歴史を表すシンボルと言える。
https://www.travel.co.jp/guide/article/12832/ 【霊場・出羽三山を巡り、山岳信仰の歴史と神秘にふれる旅】より
出羽三山参詣の入口、羽黒山の麓に残る宿坊街「手向」から羽黒山を目指す
鶴岡市街を抜けると、田園を貫くように500m程の直線道路の先に赤く巨大な鳥居を見ることができます。羽黒山の入口にそびえる高さ20m、幅15mの東北最大の大鳥居です。その鳥居をくぐると坂道にかかり、メインの道路を左折すると宿坊街・手向の集落。手向は「トウゲ」と読み、本来山道を歩いていて、道祖神に手向けをすることから転じているものと考えられています。宿坊は寺社参詣の際、信者が宿泊して精進潔斎するための施設で、出羽三山にはその集落が数カ所ありますが、なかでも手向は羽黒山の入口に位置し、規模も大きいのです。
道路を挟んだ左右に「○○坊」「××坊」と大書した看板と、門柱と門柱のあいだや軒先に注連縄を張った家々が並んでいて、建物は一種独特な構えで、神社のようでもあり、寺のようにも見え、旅館のようでも、あるいは普通の民家のようでもあります。宿坊と呼ばれる宿泊施設はもともと修験道の講を取り仕切る神官や修験者の家だったものが、現在は旅館業に近い営業形態になっているらしいのです。路地、松、黒塀、鳥居、宿坊、そして清々しい空気と、手向には独特の空気が流れています。
祓川に架かる神橋を渡って俗界から羽黒山の神聖な世界への石段を上る
いよいよ出羽三山の入口である羽黒山に向かいます。西の伊勢参りに対して東の奥参りと称された出羽三山参りの礎を築いたのが、江戸時代の傑僧第50代別当の天宥法印です。天宥の整備した2446段もの石段を上って山頂を目指します。
まずは山麓の随神門から五重塔を目指します。ここから先は神域となり、山に入った瞬間凛とした空気が身を包み、心身が引き締まる気がします。しばらくは急な下りが続き、下りきったところに祓川が流れ、朱色の神橋が架かっています。右手に天宥の造った須賀の滝が見えてきます。
天宥が植えた杉並木の参詣路の半ば辺りには、高さ42m、樹齢千年以上と言われる天然記念物「爺杉」が天に届けとばかりに真っ直ぐに伸びています。そのすぐ近くには杉の巨木に囲まれた国宝・「羽黒山五重塔」の姿が。風雨にさらされた色合いが、杉の木肌に似て木立に溶け込むような佇んでいます。承平年間(約1070年前)に平将門が創建したと伝えられ、約650年前に再建された東北最古の塔です。
五重塔の前から一の坂、二の坂、三の坂と石段が続きます。石段の左右に林立する樹齢三百年から五百年もの杉並木を仰ぎながら上る雰囲気は霊山を巡るスタートにもっともふさわしく、ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン三ツ星に認定されています。
祓川から上りに転じた石段は、二の坂で急に勾配を増します。別名「弁慶の油こぼし坂」といわれ、かの弁慶ですら勾配のきつさに体を傾け、油をこぼしてしまったと伝えられています。
清涼な森の空気の中、息を整えて三の坂を上り切った先にある赤い鳥居をくぐれば、左手に開祖・蜂子皇子を祀る蜂子神社が見えます。そして、山上の中心には、羽黒山、月山、湯殿山の三神を合祭した三神合祭殿が堂々とし佇まいが。こちらは杉材を主に使用しており、内部は総朱塗り。厚さ2mもある巨大な茅葺き屋根には、圧倒されるほどの迫力があり、茅葺木造建造物としては日本最大の大きさを誇っています。
社殿の前には、神意を映す霊池として古くから信仰を集める御手洗池があります。鏡池とも言われ池の中から平安時代から鎌倉時代にかけての銅鏡が数多く発見されています。
また境内には、蒙古襲来の折に鎌倉幕府が撃退を祈願したところ、神風が吹いて蒙古軍が壊滅したことから、祈願成就に対して鎌倉幕府が奉納した大鐘があります。芭蕉の句碑もあり、「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」と詠まれています。
、出羽三山の主峰として秀麗な姿で聳え立っています。月山で最もやさしい登山道のスタート地点となる弥陀ヶ原湿原(八合目)まで車で上っていくことができます。ここから山頂までの距離は約5km、時間にして片道2時間半から3時間程です。
標高1400m前後にある弥陀ヶ原湿原は、傾斜がなだらかな湿原地帯で、「いろは48沼」といわれるように、湿原の中には大小さまざまの沼が散らばっています。ミニ尾瀬といったふうの約2kmの木道を、40分程度でゆっくり楽しんで一周することができ、木道をたどるだけでも高山気分を満喫できます。山頂を目指すため一周はせず、視界が開けた登山道を進んでいきましょう。
月山の神秘的な湖沼と霊山の生命エネルギーを全身に浴びる
仏生池小屋のわきを抜けると、標高1800m辺りで唯一の急な上り坂である「行者返し」があります。といっても高低差は15mほどで、伝説によるとここで修験道の開祖、役行者小角が、足を滑らせて月山大神からまだ修行が足らぬといわれ、引き返させられたという所です。
坂を登りきると再びなだらかな草原が続き、やがて一番のみどころの360度の大パノラマが広がるお花畑の大峰に出ます。鳥海山や朝日連峰も見渡せるベストビューポイントです。
大峰を過ぎれば頂上まで約300mほどです。頂上は台地になっていて、周囲は石垣で囲まれ、冷たい季節風を避ける造り。そこにある月山神社本宮には、海上の守護神でもある月読命が祀られています。参拝料500円を払い、お祓いを受けてお参りすると登拝認定書がいただけます。月山で芭蕉は「雪の峰 幾つ崩れて 月の山」と詠んでいます。
出羽三山の奥宮・湯殿山神社で神秘の世界を体験する
湯殿山有料道路(400円)を登った先が「湯殿山神社」です。湯殿山本宮入口までは大鳥居から徒歩で30分ほど登るか、バス(片道200円往復300円)を利用するかなのですが、行きは登りがきつくバス利用をお勧めします。古来湯殿山は出羽三山の奥宮とされ、特に神秘的な山であり、修験道の霊地です。湯殿山神社本宮は、月山より南西に下ること約5Km、清冽なる梵字川の流れのほとり、幽玄の峡谷中に鎮座しています。
湯殿山神社本宮の参拝に際しては、現在でも履物を脱ぎ、裸足になってお祓い(500円)を受けてからでなければお参りすることはできない、俗界とは切り離された神域なのです。湯殿山神社に神殿はなく、御身体は湯殿山山腹の仙人沢にある、今も湯滝の吹き流れる茶褐色の大岩で、女陰に似た形の岩の上を、絶えず温泉が流れ潤しています。湯殿山を再生(蘇り)の出口とするのは、この湯滝の形状から発生したとも言われています。お祓いを受け、素足になって岩を登って御参りしますが、「語ることなかれ、聞くなかれ」と戒められた場所であり、撮影はもちろん禁止です。芭蕉が湯殿山を詠んだ句が「語られぬ 湯殿にぬらす 快かな」なのです。
出羽三山巡りの修行の果て「即身仏」に会う
出羽三山に参拝することを「三関三渡」といい、現在、過去、未来の三つの関を乗り越えて、生きたまま悟りを得られるという巡礼の旅です。羽黒山で現在の幸せを祈った後、過去を表す月山に登って死後の世界を体験します。そして未来を象徴する湯殿山で新たな命を宿して甦るのです。訪れる信者が身に着ける白い装束は、死装束と産着を意味しています。
この思想が即身成仏につながり、特に湯殿山ではかつて一期千日の行人修行が行われていて、三千日、五千日の厳しい行を積む者もいたといいます。想像を絶する苦行を続け、自らの穢れを祓い、他人の苦しみを代わって受けようとしたのです。湯殿山には、大日坊瀧水寺の真如海上人や注連寺の鉄門海上人といった衣におおわれたミイラ仏を拝することができますので、是非寄り道をしてみてください。
0コメント