『魏志倭人伝』里程記事について  ②

https://blog.goo.ne.jp/sophia_h/c/2d7163b7588623d014aa4a446ccda17b 【『魏志倭人伝』里程記事について 】  より

『魏志倭人伝』里程記事について 最終章 03(完)

紀元前7世紀には、上に述べたような想像以上に発達した海上交通路を利用して、北イスラエル王国滅亡直後の南ユダ王国から預言者イザヤとレヴィ族の一団がユダヤの秘宝を伴って四国の阿波に上陸しました。その後はそこを起点に四国の南部から北東部、紀伊から大和盆地の葛城や三輪山周辺地域、大和川水域や淀川水域、そして吉野へと領域を広げて行きます。

この氏族は南ユダの祭祀族の集団で、通常の部族とは性格が大きく異なっていました。「神武天皇」の誕生年とされる年と同じ年に生まれたことが分かっているユダ王国の王子も同伴していたようです。預言者イザヤには『イザヤ書』を読めば分かるように、鷲の象徴との強い関連性があります。この氏族は後に「忌部」や「賀茂」と、或いは「蘇我」との結びつきが意識された場合は「殷部」の意味も込めて「斎部」などとも表記されるようですが、この忌部氏の信奉する祖先神の名も天日鷲となっています。この集団が移動の際にパートナーシップを結んだのが海のシルクロードの海人族和迩(わに)氏でした。和迩とは恐らくは倭人(わじん)のことです。元々は一般名称だったのに、中東やインドでこの部族を言い表す固有名称に固定され、その後に列島に逆輸入されて「和迩」の文字を当てられ、列島でも固有名詞として通用するようになったのでしょう。王族や祭祀族と、商人の連合体である海人族とのパートナーシップと言えば、シュメールとナーガのパートナーシップやハッティとエブスのパートナーシップがありました。両者は登場する文献も時代も違うために異なる名称で呼ばれていますが、実は一本の線で繋がるものだったようなのです。以来延々と続き、忌部氏と和迩氏のパートナーシップも恐らくは、これと全く同系統のものだった可能性が高い訳です。

ユダ王国の王族を伴った祭祀族忌部は、シュメールとの関連が濃厚です。例えば、シュメールの町であるウルの住人アブラムがウルを出た後カナンの地で「主」と出会い、それを契機にアブラハムと改名し、彼の子孫がヘブルとなったという話があります。当時は、シュメールとアーリアの連合体がアナトリアからカナン、ミタンニ、シュメールにかけて形成されていたのです。「主」のことをシュメールの言葉では「ニン」と言うようです。これは「イン」に通じます。シュメールが中東から駆逐されてシルクロードや海のシルクロード経由で東洋に広がった際の彼等の名称はサカインやシウインで、彼等が中原に打ち立てた国の名は殷でした。実はシュメールと一体化していたハッティがエブスと共同で運営していたタルシッシ船には途中から、ソロモン王も深く関わるようになっていたことが分かってもいます。バビロニアを中心とする王族連合に対抗するような形で、世界史の舞台裏で、シュメールを中心としてイスラエルも包括するもうひとつ別の王族連合が生き続けていたのだとしか思えません。それが列島でも現在に至るまで存続してきたという認識に立つのが当ブログの筆者を含む多くの人の共通のスタンスになっているのです。

シュメールの神話では女神ニンフルサグ=風神イムドゥグドゥフという神が登場します。ニンフルサグとはニン(主)フ(鳥)ウル(動物)サグ(頭)のことで「動物(ライオン或いは犬)の頭を持つ鳥(つまり鷲)の姿をした主」を意味するそうです。また、イムドゥグドゥフとはイム(風)ドゥグドゥ(旋風)フ(鳥)のことで、「旋風を巻き起こす鳥(鷲)」を意味するそうです。この神の使いが二頭の鹿となっている。鷲と鹿のパートナーシップがここに読み取れます。

鷲と鹿のパートナーシップと言えば、日本の『古事記』でも、岩戸開きの神事の描写の中で、忌部氏の祖である天日鷲と中臣氏の祖である天児屋のパートナーシップが出てきます。忌部氏のトーテムが鷲で、中臣氏のトーテムが鹿なのです。中臣氏には先述した通りもうひとつ龍蛇のトーテムもあります。鹿と龍蛇の関係性についてはまだ調査中ですが、きっと何か重要な関係性が見えてくるものとの予感があります。

阿波忌部氏との繋がりの強い紀伊和歌山の紀伊川流域に日前宮(にちぜんぐう)という神社があります。この神宮境内には日前神宮(ひのくまじんぐう)と国懸神宮(くにかかすじんぐう)というふたつの官幣大社が並んで建っています。ご神体は日前神宮が青銅鏡、国懸神宮が青銅矛となっています。この「ひのくま」は「くま」が入る前には「ひのまえ」と言っていたことが、『秀真伝』を読むと分かるそうです。この「ひのまえ」も「くにかかす」も、更には「神官」や「神使」の意味の「おしか」や「しか」や「か」も、「かすが」や「飛鳥」も、「鹿島」や「鹿児島」も、「伊吹」や「指宿(いぶすき)」も、シュメールの神インフルサグ=イムドゥグドゥフと言語学的に密接に関連し合ってていることが分かっているのだそうです(詳しくはこの記事の最後の所に付けた註をご覧下さい)。ここにも鷲と鹿のパートナーシップが把握できるわけです。

要するに、列島に最初に入ってきた文明の担い手であるハッティやエブスと、預言者イザヤを中心とする祭祀族の集団である忌部氏とは、後者が列島に入ってくる前から秘かながらも密接な関係を結んでいて、恐らくは後者が南ユダ王国を捨てて列島に直行してきたのもこの秘かながらも密接な関係の故だったし、後者を列島に運んだ和邇=倭人とはエブス=中臣だった可能性が極めて高いということなのです。忌部氏は大和盆地の葛城や琵琶湖北東から越にかけての息長とも関係を深めながら近畿に地盤を広げ、九州の中臣と蘇我をこれらの勢力と結びつけて邪馬壹国の基盤となる連合体の形成に大きな役割を果たしたのでした。魏志倭人伝の邪馬臺国勢力の基盤のひとつとなった、阿波を中心とした勢力の正体がこの忌部氏だったのです。魏志倭人伝の里程記事から判断すると、この勢力の存在が魏の使者に対して隠蔽されたということになります。

註:東国の相模や房総半島に忌部氏やその祭祀族賀茂氏の拠点に寄り添うように中臣氏や蘇我氏の拠点が見られる理由もこれでよく合点が行きます。鹿島神宮に大鯰伝説があって、卑弥呼の時代にそれが封印されたということになっているそうですが、ということは当時、大きな地震が頻発していたことにもなり、列島高速回転移動には激しい地震も伴ったであろうことを考慮に入れると、この伝承にはなかなか興味深い面があります。因みに、311の大地震の際の揺れは私達の多くが体験して実感としても鮮明に残っていますが、あの時東南東方向への 4.4m の列島移動と 75cm の地盤沈下が発生していたのだそうです。

列島の山陰から北陸にかけての地域は、紀元前16世紀の弥生集落形成以来発展を重ねていく中で常に、南シベリアのステップロードを辿って西方から移動してくる狩猟民族や遊牧民族の断続的な侵入を受け続けていました。全てツングース系部族でした。ツングースの諸族が沿海州から船に乗って断続的に山陰北陸に侵入していたのでした(ツングース系部族とは、チュルクや匈奴、蒙古、契丹、鮮卑、烏丸、靺鞨、オロチョン、粛慎、挹婁、沃沮、濊貊、などの諸部族を包括する一大部族のことです。恐らくはサカ=サカイ=スキタイとも北アジアで何らかの交わりがあったことでしょうが、詳細は今後の課題になります)。ここに、同じツングース系でありながらイスラエルとも極めて近い血縁関係がある、エソウ系ヘブルの流れを汲む牛崇拝のスサノオが侵入して来ます。スサノオの部族によってこれらツングース系諸部族が統括され(八岐大蛇退治)、そのことで丹波を中心とする出雲王国が形成されたのです。この出雲王国に紀元前3世紀、山東半島辺りから徐福の一族が秦始皇の後援の元移入してきます。徐福も秦始皇もアケメネス朝ペルシャ経由の東ユダヤ人でした。彼等が列島への進出を目論んだ動機は恐らく、預言者イザヤとレヴィ族の集団が列島を目指して船出した動機と深く結びつきあっている宗教的なものだったのでしょう。丹波出雲に入った徐福の一族は丹波物部氏として、その進んだ各分野の技能により出雲王国に積極的に迎え入れられました。族長の大国主はスサノオ王家に入り婿として迎え入れられます。後には出雲王国が、越、尾張、山背、近江、伊勢、志摩、熊野、相模、小笠原、房総などに勢力を広げていく原動力ともなりました(大国主の各地の姫達との結婚)。この分家は韓半島北部や満州のツングース系諸部族をも統括して高句麗を建国します。

註:後にこの高句麗に圧迫された扶余が東の東沃沮の地に移って東扶余(トンプヨ)となり、この東扶余から列島の北九州に陜父(ヒョッポ)=ニギハヤヒ=大物主や、更にその後には尉仇台(イキュウタイ)が、北西九州の各地に移住してきます。この尉仇台は更に、九州の邪馬臺国の後援の元で扶余仇台と名を改め、半島の馬韓を統合して旧多羅(くだら)を建国し、その王として君臨することになります。この旧多羅が高句麗から別れた百済(ペクチェ)を糾合した際に、中原向けには百済(ペクチェ)、倭国向けには百済(くだら)と国名を使い分けるようになったようです。

高句麗は白村江の戦いの直後に滅びますが、その後、現地に残って現地の諸部族と渤海(ボーハイ)を建国した遼東(ヨドン)系の人達を除いて全て、昔から深い繋がりのあった列島東部に移入し、奈良の政権の中心にいた時期もありました(「天武天皇」=大海人皇子=高武=イリカスミ=淵蓋蘇文)。阿弖流為(アテルイ)と大和朝廷の戦争とは、大和朝廷の中枢から高句麗系の勢力を駆逐した勢力と駆逐された高句麗系の勢力との戦争であって、大和朝廷とアイヌとの戦争などではありませんでした。また、インドから南九州に来ていた姶良=斯盧の昔氏(蘇我氏の別派。伝承の中では丹波との関係も示唆されている)や、伽耶金氏の分家などと共に辰韓を新羅へと発展させた朴氏(飄公)は、この丹波から半島に移ったツングース系の出雲氏族でした。そもそも瓢箪はアフリカから中央アジアの乾燥地帯原産の植物でした。

註:アイヌとは所謂「縄文」の諸部族の極一部で、イヌイット系の狩猟部族に過ぎません。阿弖流為は騎馬が巧みだったことで有名ですが、そもそもアイヌに騎馬の伝統はありませんでした。蝦夷とはアイヌではなかったのです。

魏志倭人伝の中で投馬国として登場してくる勢力の正体はこの丹波物部氏の出雲王朝のことでした。

徐福の一族である物部氏は実は、出雲物部氏との緊密な連携の元で筑紫平野や阿蘇、肥後にも入りました。九州物部氏です。後には東表国勢力近くの遠賀川流域にも一大拠点を設けることになります。陜父(ヒョンポ)という名前の将軍が建国間もない高句麗にいましたが、高句麗第2代瑠璃王との諍いから一旦は東沃沮(トウオクチョ)に引きこもった後、高句麗からの圧迫を避けて一族共々九州までやってきたそうです。九州では肥後や阿蘇に多羅国或いは多婆羅国を創ります。この陜父が九州物部氏に合同してきて、ある時に何らかの理由でこの九州物部氏の族長となったのでした。この族長名が大物主=ニギハヤヒです。

九州には日向にもう一つ、違う有力部族が定着していました。江南の呉で戦国時代に活躍した呪術集団の族長許氏が出自とも、呉から燕に移り燕の王族となった公孫氏が出自とも言われる、卑弥呼を中心とする部族で、安羅国の王族です。この王族の親衛隊部族が大伴氏でした。

この安羅国が、東隣の四国阿波勢力の後援の元で九州物部氏や、それまで倭国を代表して中原との外交交渉の担い手となってきていた奴国の中臣氏、それに「蘇我」氏などと連携し、近畿にも奴国(浪速)や對奴国(阿波)、弥奴国(吉備)、蘇奴国(伊勢)、烏奴国(近江坂田)、鬼奴国(不明)、華奴蘇奴国(不明)など、奴の文字を含む名を持つ国を次々と創っていったり、九州物部氏もそのまま地域全体の配置ごとそっくりそのまま遠賀川流域から河内に移動させたり、ニギハヤヒが葛城のナガ-スネ彦の元に入り婿したり、更には半島で馬韓諸国連合を「くだら」と発音する百済国へと発展させたりと、九州の倭国と近畿の○○国との、ひいては半島の百済との合同へと大きく発展していく中核となったのでした。江南の呉を起源とする卑弥呼の部族が列島においてどうしてこのような重要な扱いを受けたのかについては、現在調査中です。

九州の倭国が発展してヤマト盆地を中心に新しく立ち上がった新倭国。その女王の居住国たる邪馬臺国。この邪馬臺国に九州の倭国連合のエスコートの元で魏の使節が訪れた。魏の王族も丹波出雲の物部氏も、中原の秦の流れを汲む兄弟部族だった。魏と出雲丹波王国たる投馬国とは高句麗や新羅を通じてもう既に外交もあった。その上、投馬国と近畿に東遷した邪馬臺国との連合はまだこの時点では成し遂げられていなかった。それで、不弥国からの里程が邪馬臺国と並べて記載されるほど有力国扱いされながら、投馬国から直接陸行して邪馬臺国へと至る行程は選択肢に入れられなかった。また、四国沖廻りのより便利なコースは、倭国連合内部の秘密の連絡路として温存するために、更には何か重要なものを隠蔽するために、魏の使節団の目に入らないよう伏せておかれた。殷や漢と秦、蜀漢と魏、百済と新羅、南朝と北朝、景教と原始イエス教、葛城賀茂氏と山背賀茂氏、院庁と摂関家、等々のキーワードで知られる対立軸が、魏志倭人伝の時代列島にも、邪馬臺と投馬国の対立軸として存在していたということです。魏志倭人伝の里程記事の解釈を眺めながら、現時点では、私の頭の中にこのような物語が立ち上がって来ます。ここにもう暫くしたら秦氏と天皇家が参入して来ます。卑弥呼の後継者である臺与=壹与との関わりを通して投馬国と邪馬臺国を統合し、大和朝廷が建てられるのです。神武天皇と崇神天皇や応神天皇、神功皇后との関わりについても、今後の課題となります。

註:「ニンフルサグ」は世界各地で、

(1)ニンフルサグ→フルサグ→フサグ→アサグ→アスク(セム語の「旋風」)→アスクフ(セム語の「旋風の鳥」つまり「大鷲」)

(2)ニンフルサグ→フルサグ→ウルサグフ→アサグフ→アスクフ→アスカ(大和語の「飛鳥」)

(3)アスク→ウスク(セム語の「大角鹿」或いは「神使」)→ウシカ→オシカ(セム語の「大角鹿」或いは「神使」)→シカ(大和語の「鹿」)→カ(大和語の「鹿」) cf. 『秀真伝』では鹿が「サオシカ」や「オシカ」と記述され、神官も「オシカ」と記述されている。これはセム語と同じ。

(4)ウルウスク→ルスク→ユスク→ユク→ロク(漢語の「鹿」)

(5)スウルスク→スルスク→スルスム→サスム(朝鮮語の「鹿」)

(6)ウルスク→ウルスク→ウルスタグ→スタグ(英語の「雄鹿」)

などと変化していることが言語学的に判明しているそうです。またイムは、

(7)イム(ウル語の「風」)→アム→アマゥ→オマゥ(アイヌ語の「風」)→オモ(大和古語)

(8)イム(ウル語の「風」)→イブ(大和古語の「風」)→イブク→フク(日本語の「吹く」) cf. 指宿(いぶすき)は「風の邑」の意味になる。伊吹山の伊吹(いぶき)もこれに関連する。

と変化したそうです。従って、イムドゥグドゥフは、

(9)イムドゥグドゥフ(ウル語の「旋風を巻き起こす鳥」)→アマドゥグドゥフ→アマダグドゥフ→アマダハドゥフ→アマダル→オモダル(記紀における神代七代の第六代の神)

(10)イムドゥグドゥ(ウル語の「旋風」)→イルドゥグドゥ→イルズー(セム語の「旋風」。セム語でイルは「神」も表すことから「風神」の意味も持つようになった)→フイルズー(「旋風の鳥」「大鷲」)→フシルズー→フシリジ(『魏書』東夷伝韓之条の百済関連の記事では「濆臣離児」或いは『契丹古伝』でも「賁申釐児」)

と変化したと言われています。また、セム語の複数語尾ネスをつけたウルウスクネスは

(11)ウルウスクネス(セム語の「大角鹿」或いは「神使」)→アルウスクネス→アラハスクネ→アヤカスクネ→アヤカシコネ(記紀における神代七代の第六代オモダルの配偶神)

と変化したと言われています。

註:『秀真伝』より

きしいくに あひのまえみや

たまつみや つくればやすむ

あひみやお くにかけとなす

わかひめの こころおととむ

たまつみや かれたるいねの

わかがえる わかのうたより

わかのくに たまつのをしか

あちひこお みればこがるる

わかひめの わかのうたよみ

うたみそめ おもひかねてぞ

すすむるお ついとりみれば

紀志井国 阿日前宮 玉津宮

造れば休む

阿日宮を 国懸となす

和歌姫の心音留む玉津宮

枯れたる稲の若返る

和歌の歌より和歌の国

玉津のオシカ阿智彦を

見れば焦がるる和歌姫の

和歌の歌詠み歌冊(うたみ)染め

思い兼ねてぞ勧むるを

つい取り見れば

紀志井国では(これに感謝して)阿日前宮と玉津宮が造られた。造って差し上げたところ、向津(むかつ)姫と和歌姫はそれぞれにお入りになり、お休みになられた。阿日宮は、以前からそこにあった宮だが、これ以降は国懸宮と名を改められた。玉津宮には和歌姫の心の音を留め置いている。だから玉津宮と言うのだ。この玉津宮のある国で昔ある人が和歌を詠んだところ、枯れている稲が若返った。この出来事に因んでこの国のことを、和歌(若)の国と言うようになったのだ。ある時この玉津宮にオシカ(神官)として阿智彦という名前の人がやって来た。この阿智彦を見て以来、和歌姫が、阿智彦のことを恋い焦がれるようになった。阿智彦への想いのせいであまりに苦しくなった和歌姫は、その想いを込めた歌を詠み、それを歌冊にしたためて阿智彦の前に差し出した。阿智彦がついそれを受け取って見ると・・・

この「ひのまえ」は、

(12)フ(鳥)ウル(動物)マフ(イヌ)→フウルマフ→ヒウルマフ→ヒイヌマヒ→フヌマヒ→ヒノマエ

と変化したものと考えられるそうです。

国懸(くにかけ)或いは(くにかかす)も、

(13)ウル(動物)ウスク(大角鹿或いは神官)→フリウスク→フリハスク→フリハスカ→クリハスカ→クニカスガ→クニカゲ→クニカケ→クニカケス→クニカカス

(14)クニカスガ→カスガ

と変化したものだということが言語学的に確かめられるそうです。

註:以上二つの情報は、松重楊江氏の著作を参考にしました。

『「魏志倭人伝」里程記事について』を無事、書き終えることができました。飛鳥昭雄氏の著作を読んで大まかな把握をした後は、既知の情報として扱い、様々な場所で論の前提として利用すらしていましたが、いざこのように自分で記事としてまとめながら詳しい検討を加えてみると、飛鳥昭雄氏の結論にも若干の修正を加えなければならない点があることや、魏志倭人伝里程記事解釈を廻る九州説の論が論として驚くほど脆弱になってしまっていること、忌部氏の存在が予想を遥かに超えて重要であること、瀬戸内の古い地形の朧げながらの成り行き、蘇我氏や中臣氏の意味など、実に多くの発見もできました。貴重な体験だったと思います。それと共に、今後研究課題として詰めていけそうな幾つかの問題も新たに、幾つか手に入れることができました。

それにしても、飛鳥昭雄氏の説の基本的な部分は全く揺らぐことがなく、益々信憑性が増してきたようにすら感じます。できたら、飛鳥昭雄氏にもこの記事を読んでいただきたいと思うのですが、どうしたら可能でしょうか?