http://na58nek0.blog.fc2.com/blog-entry-13.html 【熱田神宮 熱田区新宮坂町】より
尾張には古くから「蓬州」と言う雅名が有り、名古屋は別名「蓬左」と呼ばれていました。
それは、熱田の地が古より、「蓬莱島」、「蓬ヶ島(よもぎがじま)」と呼ばれていた為で、波が穏やかな年魚市潟(あゆちがた)に面した熱田の杜が海に岬のように突き出ていて、その姿が島のように見える事から、そこに鎮座される熱田の宮を「蓬莱宮」と呼んでいました。そして、その背後に広がる肥沃な大地を「蓬州」と呼び、蓬莱島の左に位置する名古屋は「蓬左」と呼ばれるようになりました。
熱田の地を「蓬莱島」と呼ぶ記録は、鎌倉時代以降たびたび見て取れます。
蓬莱とは、もともと中国の伝説にある「三神仙(蓬莱、方丈、瀛州)」の一つで、東海の中にある仙人が住み、不老不死の地とされる霊山です。
「蓬莱山」は、巨大な亀の甲羅の上に乗っていると言われていて、「熱田宮秘釋見聞」によると、熱田の宮の地の底には巨大な金亀が住んでいて、その亀の背中に「大宮」が建てられ、頸の部分に八剣宮、頭の部分に源太夫社(上知我麻神社)、尾の部分に高蔵宮(高座結御子神社)が建てられて、この熱田の宮を「蓬莱島」と呼ぶと記されています。亀も・・・大変ですね・・・。
この熱田の宮は、伊勢の神宮に次ぐ由緒ある大社で、熱田神宮の御創祀は、天皇家の三種の神器の一つ※1神剱草薙剱(しんけんくさなぎのつるぎ)の御鎮座に始まり創祀千九百年余りになります。
日本武尊の死後、宮簀媛命は日本武尊から託された草薙剱を大切に守り続けてきたのですが、年と共に身の衰えを感じていて、自分が他界する前に社を築き、草薙剱を奉納したいと申し出ます。一族で話し合いをした結果、かねてより一族の斎場としていた吾湯市(あゆち)熱田に占いにより定め、そこに剱を奉納して「熱田社」と号した。宮簀媛命は終生「熱田社」に奉仕され、その後も一族の尾張氏がこの社を御祀りしていきます。
御祭神として※2熱田大神、相殿神として天照大神、素盞鳴尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命の五柱御祀りしてあります。本宮の他に境内には、別宮一社、摂社八社、末社十八社があり、境内外に、別宮一社、摂社十二社、末社三十一社があります。
熱田さん(地元ではこの様に呼びます)には、室町後期(推定)頃、五重塔、多宝塔等が存在していたそうで、熱田の町は、門前町・宿場町として繁栄していて、連歌会等も盛んに行われていました。熱田の町は、かつて独立した軍事力を持ち、永禄3年(1560)、丁度、桶狭間の合戦の折、※3服部右京助等の水軍が熱田湊へ押し寄せた時には独力でこれを撃退したそうです。かの織田信長が、ここ熱田さんに戦勝祈願をして「桶狭間の合戦」で勝利したことは余りにも有名ですね。その時大勝したお礼に信長が奉納した「※4信長塀」が、今も境内に一部当時のまま現存しています。
名古屋の中心に在るにもかかわらず6万坪の広い境内(かつては現在の4倍近くの敷地面積があったそうで)には、弘法大師お手植えの※5御神木大楠(おおくすのき)他 樹齢千年近い楠木等の木々が覆い茂り都会のオアシスといった所です。
私も毎年初詣等に訪れるのですが、一度熱田の森に足を踏み入れると 凛とした静寂な空気が身体を包み込み、少しひんやりとします。名古屋の方や東海地方の方々を中心に年間650万人近い参拝客が、初詣やお宮参り、厄払い、学業祈願、結婚式等々ありとあらゆる場面でお世話になっております。熱田さんは、パワースポットとしても有名で熱田の森全体からパワーが出ております。森の中に個々に色々あるのですが、それは参拝に来られてからのお楽しみということで・・・
熱田さんでは、毎年6月5日(雨天順延)に、熱田祭りが行われ花火が上がるのですが、熱田さんの花火を見て、名古屋の夏は幕を開けます。この熱田祭り、昔は6月21日行われていて熱田の神様は、勝負の神様と言うこともあり「尚武祭、菖蒲(勝負)祭」と呼ばれていたそうです。しかし6月21日頃は、梅雨本番と言うことで、戦後かなりたった頃から6月5日に変更されたそうです。
中には、貝塚・古墳跡などもあり、日本の英傑、日本武尊、源頼朝、織田信長等ゆかりの熱田さん、長きに渡り名古屋の経済の中心地だった熱田の町並み、一度参拝されてはいかがでしょうか、勉強・仕事等人生に行き詰ったときには、是非 きっと心が洗われ、明日から何かが変わると思いますよ・・・
※1素盞嗚尊(スサノオノミコト)が退治した八岐大蛇の尻尾から出てきた神剱天叢雲剱(しんけんあめのむらくものつるぎ)
※2熱田大神(アツタノオオカミ)とは神剱草薙剱を御霊代として憑(よ)らせ給う天照大神(アマテラスオオミカミ)のことだそうです。
※3服部右京助(友定)、尾張長島の領主一向宗徒、河内二の江(蟹江)の坊主で鯏浦城城主、服部左京助は、桶狭間合戦のときに今川義元と密約を交わしていて、集めた千隻余りの船と共に、義元を熱田の湊まで迎えに来ますが、熱田の軍に撃退され、これといった働きも出来ずに帰って行きました。もし熱田を制圧していたとしても、当の本人が、討ち取られていますから・・・残念!
※4信長が熱田神宮に着いたのは、朝の八時頃でした。そして神殿に参られ戦勝を祈願します。その願文には、「この戦いは多勢に無勢、衆寡敵せず、恰も蟷螂の車鉄に当たり、蚊子の鉄牛を咬むが如きで、苦しい戦いとなる。是非とも熱田大神の助けを借りて戦勝を得たい」とあり、切々とその心情を訴えました。
その祈りが熱田の大神に届いたのか、内陣に武具の音がして、頼もしき思召しを得たと言います。そして白鷺が二羽、戦旗の先に立って飛んでいるのを見て、信長は勝利の吉兆を感じたと言います。そして桶狭間にて大勝を収めて帰還した信長は、この戦いに勝利を収めることが出来たのは、神の御加護があったればこそと、信長は熱田大神に深く感謝の念を捧げられ、熱田神宮に「築地塀」を寄進しました。誰が信長の事を「神をも恐れぬ」とか「自らを神だと言っている」とか言っているのでしょうか・・・? 完全にうそですね・・・信長も人の子です。
※5御神木の大楠の下には蛇が住んでいるそうですよ 見た事はまだ一度もありませんが・・・卵が置いてあるのでいつも気になっていたんですよ・・・ 近くには、七里の渡し、白鳥庭園、断夫山古墳等があります。
http://www.nagoya-rekimachinet.jp/touroku/%E8%93%AC%E5%B7%A6%E6%96%87%E5%BA%AB%E6%97%A7%E6%9B%B8%E5%BA%AB/ 【蓬左文庫旧書庫ほうさぶんこきゅうしょこ】 より
登録番号 第15号 所在地 東区徳川町(徳川園内) 年代 明治末期築、昭和10 年移築改修 用途 展示施設
歴史の始まりは尾張藩の書物庫、名古屋城内の二の丸にあった「御文庫」。 元和二年(1616年)徳川家康の死去により、その遺品の多くが尾張、紀伊、水戸の御三家に分譲されました。 このうち駿河譲御本(するがおゆずりほん)と呼ばれる家康の蔵書については三千冊が尾張家に譲られ、これを契機に尾張藩の御文庫は形成されました。 蓬左とは江戸時代の名古屋に付けられた別称です。 熱田の宮は中国の伝説にいう仙人の住む蓬莱山にあたるという言い伝えがあり、蓬莱の宮、蓬が島、などとも呼ばれていました。 このため蓬莱の宮の左方に開けた新興の城下町である名古屋は蓬左、名古屋城は蓬左城とも呼ばれました。 つまり蓬左とは名古屋文庫という意味になります。
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