那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ) 国宝(古文書)

https://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082778383/ 【那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ) 国宝(古文書)】

所在地 大田原市湯津上429 笠石神社

保持者 笠石神社

員数 1基

製作時代 飛鳥時代

大きさ  台石より上の総高 約148センチメートル

 湯津上の笠石神社に祀られる石碑で、文字の刻まれた石の上に笠のように石を載せていることから「笠石」ともいわれています。花崗岩(かこうがん)が用いられ、碑文は19字8行、全152字からなります。

 永昌(えいしょう)元年(689)、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)の大宮から那須の国造(くにのみやつこ)であった那須直韋提(なすのあたいいで)は評督(こおりのかみ)という評(後の郡)の長官の官職を賜り、その後、庚子(かのえね)の年(700)に亡くなったため後継者の意斯麻呂(おしまろ)らが、碑を立てて故人を偲び祀ったということなどが記されています。

 碑文の内容から、韋提は最初那須の国造であったのが評督になっており、那須国が下毛野国(しもつけぬのくに)(後に下野国(しもつけのくに))に組み入れられたことがわかります。また、「永昌」は唐の則天武后(そくてんぶこう)の時代に使用された年号であり、碑の文字が六朝(りくちょう)の書風であること、またこの当時新羅人を下野国に居住させたということが「日本書紀」に記されていることなどから、渡来人と非常に密接な関係のある資料として注目されます。

 石碑は江戸時代に入り、水戸黄門で知られる徳川光圀の尽力により顕彰されました。

 延宝4年(1676)、水戸藩領武茂郷小口村(現那珂川町)の里正(りせい)の大金重貞(おおがねしげさだ)は、旅の僧円順から湯津上村内の草むらに埋もれた古碑の話を聞きます。重貞はその碑を調べ自身の著作「那須記」に記し、天和3年(1683)武茂郷を巡幸した徳川光圀にその書を献上し光圀の知るところとなりました。

 光圀は石碑の保存顕彰のため元禄4年(1691)には碑堂の建立を開始し、同5年には、碑の主を求めて、日本で最初の学術的な発掘調査を上・下侍塚古墳(国指定史跡)で行いましたが、被葬者は明らかになりませんでした。同年6月には完成した碑堂に自ら参詣しました。この一連の作業は大金重貞が現地指揮をとり、光圀の指示は家臣の佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)を通じて行われました。重貞は事の経緯を「笠石御建立起(かさいしごこんりゅうき)」に記しています。

 なお、群馬県高崎市吉井町の多胡碑(たごひ)外部サイトへのリンク、宮城県多賀城市の多賀城碑(たがじょうひ)外部サイトへのリンクとともに日本三古碑のひとつに数えられます。

永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造

追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月

二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓

仰惟殞公廣氏尊胤国家棟梁一世之中重被貮

照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以

曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之

子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香

助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固


https://note.com/yoshiharahiraku/n/n8f672b320707 【プチ史資料紹介「那須国造碑」①基本情報編】 より

「プチ史資料紹介」では、既に公開されている史資料で、筆者が気付いたことがあるものの、ちゃんとした研究誌に投稿するような内容ではないもの、推測の域を出ないお話、ただ単に好きで紹介したいものなどを書いていきます。

那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ/なすこくぞうひ)は、栃木県大田原市湯津上にある笠石神社の御神体として奉斎されている、飛鳥時代の石碑(国宝)です。

この石碑には、持統3年(689)に那須国造(国造はヤマト王権の地方官。地方豪族から任命)であった那須直韋提が評督(後の郡の長官に相当)に任命されたことが刻まれており、国造から評の官人へという、地方行政組織の変化の具体像を知ることができる貴重なものです。

また、この石碑は近世に“再発見”された後、徳川光圀の指示によって碑堂が建立され、さらにはこの石碑に刻まれた人物を探すための発掘調査が行われるなど、日本における文化財保護や考古学調査の先駆けとなりました。

以下、那須国造碑についての基本的な事柄を簡単にご紹介します。

なお、この碑については書きたいことが沢山ありすぎるため、複数回に分けて小出しにしていきます。

文字は、1行19文字で8行、合計152文字が刻まれています。

書風は六朝風(北魏風)とされ、日本書道史上重要な3つの石碑「日本三古碑」のひとつに数えられます。

【碑文】

永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造

追大壱那須直韋提評督被賜歳次康子年正月

二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘偲云尓

仰惟殞公広氏尊胤国家棟梁一世之中重被弐

照一命之期連見再甦砕骨挑髄豈報前恩是以

曽子之家无有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之

子不改其語銘夏尭心澄神照乾六月童子意香

助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛无根更固

(田熊信之・田熊清彦『那須国造碑』中國・日本史學文學研究會、1989年)

 ※この本、国会図書館では見つけられませんでした。ないの??

2 碑文の解釈について(参考文献の紹介)

碑文の最初の3行では、おおよそ次のようなことが述べられています。

永昌元年(持統3/689)4月、那須国造であった那須直韋提(なすの あたい いで)が評督に任命された。

その後、韋提は庚子年(文武4/700)正月2日に亡くなった。

そこで、意斯麻呂(おしまろ。韋提の息子か)たちが、韋提を偲んで石碑を建立する。

残りの5行では、韋提がどんなに国家のために尽力したかということ、残された一族が団結して韋提の恩に報いなければならないということなどが、中国の古典を参照しながら綴られています。

この碑文の解釈については、碑が“再発見”された近世以降、さまざまな説が提示されてきました。この記事では、そこまで細かいことはご紹介しません。以下の参考文献をご覧ください。

なお、筆者は東野治之氏による解釈・書き下し文が、現状では最も妥当性があるもののように思えます。東野氏の論文は、『日本古代金石文の研究』(2004年)に収録されているものが参照されることが多いと思いますが、なす風土記の丘湯津上資料館の図録(2015年)に若干の改訂を加えた解釈が載せられています。

【碑文についての主要な文献】

・田熊信之・田熊清彦『那須国造碑』中國・日本史學文學研究會、1989年

・東野治之「那須国造碑」『日本古代金石文の研究』岩波書店、2004年

・東野治之「那須国造碑を読み解く」大田原市なす風土記の丘湯津上資料館『那須国造碑―時代と人とをむすぶもの―』2015年

3 那須国造碑からわかること

・持統3年における国造から評の官人への任命という、地方行政組織の変化の様子。

・那須国造、評督であった那須直韋提、その息子と思われる意斯麻呂という人物の存在。

・唐や新羅で使用されていた「永昌」年号の使用、儒教や仏教に関する文献に基づいた文章が書かれていることから、渡来系知識人が撰文した可能性。

・碑の建立に際して、仏教信仰を共にする集団“知識”が結われた可能性。

4 那須国造碑に会いに行こう!

那須国造碑は、笠石神社の宮司さんにお願いすれば、拝観料を払って拝見できます。

遠方から拝観に行く際には、事前に電話連絡しておくと確実だと思います(電話番号をここでご紹介して良いものか判断がつきかねたので、ご自身でお調べください)。

【恣意的鑑賞のポイント】

・文字の美しさ!……個人的には、日本三古碑の中でも最も美しい文字だと思います。

・2行目の「評督」!……いわゆる「郡評論争」でも議論された箇所です。

・碑身表面の研磨痕!……よ〜く見ると、垂直よりやや斜め右に傾いた研磨痕が見て取れます。古代の石碑で、これほど碑を平滑に仕上げたものは他にないのでは。

・碑身表面中央、笠石直下の逆「大」字状の凹み!……田熊氏のご本で指摘されていたものですが、これ、文字なんですかねぇ?どうでしょうか?筆者が観察したところ、一画目の横画は傷のように見えますが、左右の払いは傷ではなさそうな。そうすると逆「人」字ということに?