栃木と兜太(宇都宮・兜太命名の地)

「兜太」命名の地は、宇都宮!!

 NHKの俳句番組制作に関して問い合わせがあり、恩師・金子兜太について調べていたら金子兜太著『俳句専念』(筑摩新書)に次のような記述があった。

長男(金子兜太)出産の知らせを受けて、宇都宮にいた父(当時、軍医として宇都宮の連隊に所属)が電報で伝えてきた名前は「トウタ」だった。祖母と伯父夫婦はそれを「藤太」と速断して、役場に届ける。ところが、後から来た手紙には「兜太」とあったのだから慌てた。

 俵藤太(藤原秀郷)が宇都宮城を築城したという説もあり、これも不思議なご縁であるが、少なくとも「兜太」という名前がはじめて世に出たのが宇都宮であることは間違いないようだ。

 ちなみに、宇都宮二荒山神社には、三十八間星兜(国認定重要美術品)がある。もしかしたら、金子先生のお父様もご覧になったかもしれない。同神社の主祭神は柿本人麻呂という説もあり、金子先生のご実家近くに人麻呂を祀った神社があるのも奇遇である。

三十八間星兜(国認定重要美術品)宇都宮二荒山神社所蔵

金子先生のお父様はその後、上海の東亜同文書院の校医として中国へ赴任されますが、同校は、第10代・富江・五島藩主の五島聰千代の母校でもあります。ほんとうに不思議なご縁です。

コメントのやり取りより

宇都宮は関東和歌の中心ですから。

五島高資  おっしゃるとおりですね。鎌倉時代は日本三大歌壇として興隆しました。小倉百人一首も宇都宮頼綱の発案で娘婿の藤原為家の父・定家の選によるものです。

内容(「BOOK」データベースより)

故里秩父という風土の中で、医者であり俳人でもあった父の周囲の俳句世界に接しながら、著者は旧制高校における師友との出会いによって初めてその世界に開眼する。以後著者の俳句の基盤は、土俗的なもの、生命の原質の燦くもの、そして人間の現実の多様性を直かにつかみとることに置かれる。一茶・放哉・山頭火を愛惜し、揺るぎない虚子の「有季定型」に抗しつつも、「有季定型」は「家」の問題とともに、日本人の心の最も内奥に宿ることを著者は見逃さずに指摘する。俳人金子兜太生々発展の軌跡を辿る好著。


https://r.nikkei.com/article/DGXMZO28942660T00C18A4CR8000?s=6

【金子兜太さん最後の9句 主宰誌「海程」に掲載】 より

2月に98歳で亡くなった俳人の金子兜太さんが亡くなる直前に作った俳句9句が、主宰した俳誌「海程」4月号に掲載されたことが3日分かった。〈河より掛け声さすらいの終るその日〉〈陽の柔わら歩ききれない遠い家〉など、老いを静かに見つめつつ最後まで現役俳人で在り続けた金子さんの姿が浮かぶ作品だ。

家族によると、金子さんは1月上旬に肺炎で入院。25日に退院後しばらく日中は埼玉県熊谷市の自宅で、夜は自宅近くの高齢者施設で過ごしていた。この時期は体調も安定しており、9句はその間に詠んだものという。「海程」で発表するため自身で清書もしていた。しかし2月6日に再び体調を崩して入院し、20日に死去した。

海程会会長の俳人安西篤さんによると、金子さんは高齢者施設と自宅との行き来を「さすらい」と表現したとみられる。日常の中で作られた作品が結果として「最後の9句」になったようだ。

安西さんは「自分の日常を悲観的にではなく、あくまで客観的に眺めている。『他界』(死後の世界)を重く捉えず、懐かしい人に会える、ちっとも怖くないと思っていたのでは。先生は最後まで自然体だった」と語った。〔共同〕

https://blog456142164.wordpress.com/2019/01/02/%E9%91%91%E8%B3%9E%E7%9F%AD%E6%AD%8C%E3%83%BB%E4%BF%B3%E5%8F%A5%E3%83%BB%E8%A9%A92%E8%BF%91%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%AE%E3%81%86%E3%81%9F%E3%80%81%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B4%BB/ 【金子兜太の現代俳句】 より

◆◆金子兜太かねことうた(1919― )

俳人。父は俳人金子伊昔紅(いせきこう)(1889―1977)。埼玉県小川町で生まれ、秩父(ちちぶ)の皆野町で育つ。旧制水戸高校在学中に句作を始め『成層圏』『土上』『寒雷』などに投句。東京帝国大学経済学部卒業後、海軍主計将校としてトラック島(現チューク島)に赴任。第二次世界大戦後復員、日本銀行に入行。組合運動に活躍した。1946年(昭和21)、同人誌『風』の創刊に参加、社会性俳句運動の主論者となり、「社会性は態度の問題である」などと論じた。引き続き「銀行員等朝より蛍光す烏賊(いか)のごとく」「華麗な墓原女陰あらわに村眠り」などの句に代表される前衛俳句運動の旗手を務めた。61年『造型俳句六章』を書き、ものと作品との間に創(つく)る主体を置くことを提唱した。62年『海程』を創刊、代表同人となり、のちに主宰となった。一茶、山頭火(さんとうか)などを論じながら放浪漂泊の再評価に取り組む。1988年紫綬褒章(しじゅほうしょう)受章。92年(平成4)日中文化交流協会常任理事就任を機に訪中を重ね、「天人合一」の考えを知り共鳴、郷土、自然への関心を深めたが、やがて秩父の狼(おおかみ)に象徴される産土(うぶすな)の地霊との交感のなかに自己の原点をみるようになった。「おおかみに蛍が一つ付いていた」が代表句になる。2002年、『東国抄』(2001)により第36回蛇笏(だこつ)賞を受賞。主要句集に『少年』(1955)、『蜿蜿(えんえん)』(1968)、『金子兜太全句集』(1975)、『遊牧集』(1981)、『詩経国風』(1985)、『両神』(1995。詩歌文学館賞受賞)などがあり、全作品から精選した『金子兜太集』(全4巻、2002)がある。[平井照敏]

 銀行員等朝より蛍光す烏賊(いか)のごとく

『『短詩型文学論』(1963・紀伊國屋書店) ▽『定住漂泊』(1972・春秋社) ▽『俳童寓話』(1975・北洋社) ▽『ある庶民考』(1977・合同出版) ▽『熊猫荘点景』(1981・冬樹社) ▽『詩経国風 句集』(1985・角川書店) ▽『皆之 句集』(1986・立風書房) ▽『熊猫荘俳話』(1987・飯塚書店) ▽『俳諧有情 金子兜太対談集』(1988・三一書房) ▽『両神』(1995・立風書房) ▽『花神コレクション・金子兜太』(1995・花神社) ▽『エロチシズム』(1996・雄山閣) ▽『東国抄 句集』(2001・花神社) ▽『金子兜太集』全4巻(2002・筑摩書房) ▽『小林一茶 「漂鳥」の俳人』『種田山頭火 漂泊の俳人』(講談社現代新書) ▽『わが戦後俳句史』(岩波新書) ▽『黄 金子兜太句集』(ふらんす堂文庫) ▽『金子兜太 自選三百句』(春陽堂書店・俳句文庫) ▽『俳句専念』(ちくま新書) ▽『金子兜太句集』(芸林21世紀文庫) ▽金子兜太他著、聞き手・黒田杏子『証言・昭和の俳句』上(2002・角川書店) ▽成井恵子著『俳句の美学』(1992・牧羊社) ▽鶴岡喜久著『超現実と俳句』(1998・沖積舎) ▽岡井隆著『前衛短歌運動の渦中で――一歌人の回想(メモワール)』(1998・ながらみ書房、はる書房発売) ▽倉橋羊村著『私説 現代俳人論』上(1998・東京四季出版)』

◆◆金子兜太さん死去 戦後代表する俳人 98歳

2018年2月21日朝日新聞

金子兜太さん  

 戦後日本を代表する俳人で、前衛俳句運動の中心となり、俳句の可能性を大きく広げた朝日俳壇選者の金子兜太(かねこ・とうた)さんが20日、急性呼吸促迫症候群で死去した。98歳だった。

 埼玉県生まれ。旧制水戸高校時代に作句を始め、「寒雷(かんらい)」主宰の加藤楸邨(しゅうそん)に師事した。東京帝国大経済学部を卒業後、日本銀行に入行。海軍士官として南洋トラック島で終戦を迎え、後に復職した。戦後は社会的な題材を詠む「社会性俳句」に取り組み、前衛俳句運動の中心となるなど、戦後の俳句運動の旗振り役を務めた。季語の重要性は認めつつ、季語のない無季の句も積極的に詠み、時に有季定型の伝統派と激しい論戦を繰り広げた。俳句をより多くの人に開かれたものにし、「お~いお茶 新俳句大賞」など軽くカジュアルな新潮流も楽しんだ。小林一茶や種田山頭火の研究でも知られ、再評価の機運を盛り上げた。

 代表句に、「銀行員等(ら)朝より螢光す烏賊(いか)のごとく」「彎曲(わんきょく)し火傷し爆心地のマラソン」など。「おおかみに螢が一つ付いていた」など、故郷・秩父の骨太な風土に根ざした句も多い。62年に同人誌「海程(かいてい)」を創刊し、後に主宰に。高齢を理由に2018年9月での終刊を決めていた。

 反戦の思いから同時代への発言を続け、晩年は故郷や平和への思いを多くの句に託した。安全保障関連法案への反対が広がった15年には、「アベ政治を許さない」を揮毫(きごう)した。

 1983年に現代俳句協会会長となり、2000年から同協会名誉会長。02年に蛇笏賞、03年に日本芸術院賞、05年にスウェーデンのチカダ賞。同年に日本芸術院会員。08年に文化功労者、10年に菊池寛賞。戦後一貫して現代俳句を牽引(けんいん)した功績で15年度の朝日賞。朝日俳壇の選者には87年に就任、18年1月から体調不良のため休んでいた。

◆俳句革新、民衆の心詠む 不戦訴え、政治案じ 金子兜太さん死去

 俳壇の長老で、戦後俳句を代表する金子兜太さんが20日、亡くなった。98歳だった。埼玉県熊谷市の病院に2月上旬から入院していたが、長男真土(まつち)さんとその妻に見守られて静かに息を引き取った。真土さんは「この年まで現役で俳句を詠みつづけ、よく頑張りましたね」と声をかけて頭をなでた。

 金子さんは「俳句にも社会性が必要」と同時代の思想や時代背景を積極的に詠み、時に実験的な手法も用いて俳句の革新を試みた。一方で、民衆の心をうたう詩として普及につとめた。悲惨な戦争の体験者として不戦を訴え続け、晩年まで政治や国際情勢に関心を抱き、きな臭くなる社会の行く末を案じていた。

 力強い作風の原点には、海軍主計中尉として赴任した南洋・トラック島での戦場体験があった。

 「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る」は、15カ月間の捕虜生活を終え、日本へ帰る船上で作られた。戦争がない世の中をつくり死者へ報いるという決意は、「朝はじまる海へ突込む鴎(かもめ)の死」「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」など初期の作品から、近年の「左義長や武器という武器焼いてしまえ」にまで一貫した。

 2011年3月の東日本大震災後は、東北への思いも深めた。被災地の復興を気に掛け、震災関連の句に目をとめては「新聞の俳壇欄はジャーナリズムだ」と言い続けた。安全保障関連法案への反対が広がった15年には、旧知の作家澤地久枝さんに頼まれて揮毫(きごう)した「アベ政治を許さない」のプラカードが、全国のデモの現場で揺れた。

 1987年に朝日俳壇選者に就任して以降、毎週約5千の投句の全てに目を通し、新しい表現や詠み手を積極的に発掘した。好奇心旺盛で、17年夏には埼玉県の「原爆の図 丸木美術館」を記者と訪れ、受けた感慨を句に詠んだ。

 17年秋の朝日俳壇・歌壇全選者による歌仙(36句の連句)イベントにも参加した。イベント当日は欠席したが、「戦さあるなと起きて花野を歩くなり」と力強い発句を詠んだ。明るく親しみやすい人柄で、俳句以外の分野の人々とも交流を深め、世代を超えて慕われた。

 (小川雪、田中正一)

◆<評伝>社会と通じた選句、大切に

 カリスマ的な人気を誇る俳壇の重鎮で、前衛俳句の旗手として時代を駆けてきた金子さんに、朝日俳壇の担当として2年近く接した。うち1年余りは選句会で毎週会っていた。心に残ったのは、金子さんの反骨心と気取らない優しさ、不器用でも率直に生きようとする人間へのあたたかなまなざしだった。

 朝日俳壇への投句は週に約5千。4人の選者は毎週、東京・築地の朝日新聞社に集い、すべての句に目を通してそれぞれが10句を選ぶ。晩年の金子さんは、長男の真土さんに付き添われ、埼玉・熊谷から新幹線で来社していた。

 到着は午前10時過ぎ。はがきを1枚1枚めくっては面白い句に笑ったり、ほかの選者に話しかけたり。昼食には時間をかけ、朝刊や社内から届いたばかりの夕刊をじっくり読んだ。安保法制や沖縄の基地問題、米国のトランプ大統領誕生、緊迫する北朝鮮情勢などが話題に上った。きな臭さを増す日本の現状に危機感を抱いているのが、ひしひしと伝わってきた。

 一方で、有季定型の伝統派の代表で、長年の論戦相手でもあった朝日俳壇選者の稲畑汀子さん(87)に「あの世で一緒になろうか」とちゃめっ気たっぷりに言い出して、周りをびっくりさせたこともあった。

 選句会にはいつも最後まで残った。丁寧にはがきを眺め、時に考え込み、にやりとし、机に並べる。2011年の東日本大震災は、前任の記者と残っていた時だった。大きな揺れにも動じずはがきを見続けていたという。

 17年夏からは、自宅にはがきを送っての選句となった。体調を崩す前から「来られなくなったら、自宅でしてもいいか」と何度も私に尋ねた。選句にこだわったのは、読者や社会とつながる大切な回路だったからなのだと、いま思う。昨年10月の自宅でのインタビューで、選句の話になると目が輝いた。「楽しいね。面白い。鋭い読者に会うのが怖いけど、選者も鍛えられるよ」と熱っぽく語っていた。18年1月から選句を休むと、社には金子さんを気遣う句が多数寄せられた。

 最後に話したのは1月末。日中は自宅で、夜間は安全のため高齢者施設で過ごすようにしていた。「いい意味でむだな時間を費やしていてね。思い切った俳句を作っていますよ」。施設の庭が俳句を詠むのにいい、と笑顔を見せた。前向きなエネルギーは決して失わなかった。(小川雪)

🔷🔷金子兜太「戦争と俳句」を読む

https://kanekotota.blogspot.com/2015/08/blog-post.html?m=1

トラック島の金子兜太

金子 兜太(かねこ とうた)

1919年9月23日-2018年2月20日死去、 俳人。埼玉県生れ。東大経済学部卒。1974年まで日本銀行勤務。学生時代は加藤楸邨に師事,〈寒雷〉に作品を発表。1955年第1句集〈少年〉刊行。1956年現代俳句協会賞受賞。1960年代には前衛俳句運動の旗手と目された。1962年〈海程〉を創刊・主宰。1996年〈両神〉で詩歌文学館賞を受賞。他の句集に〈蜿蜿〉〈暗緑地誌〉〈遊牧〉〈皆之〉〈日常〉など,評論に〈造型俳句六章〉〈定型の詩法〉〈種田山頭火〉〈小林一茶〉などがある。

金子兜太トラック島にて 六句

重油漂う汀果てなし雨期に入る

古手拭蟹のほとりに置きて糞(ま)る

被弾の島赤肌曝し海昏るる

魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ

被弾のパンの樹島民の赤児泣くあたり

水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

 戦後日本 四句

彎曲し火傷し爆心地のマラソン

三月十日も十一日も鳥帰る

被曝の人や牛や夏野をただ歩く

今も余震の原曝の国夏がらす

金子兜太の「戦争と俳句」を読む

著書『悩むことはない』より           安西  篤

 まず、『悩むことはない』(2011年文藝春秋社刊)の構成についてみておこう。全体が語り下ろしの形をとっていて、兜太の明快率直でユーモラスな語り囗が存分に楽しめる。しかも内容は体験に即しか真実に裏付けられている。全く借り物でない人生観なのだ。

 第一章〈問われて笞う〉は、兜太現在の生活信条や生きざまを、率直に述べている。要点は、[ありのまま]に生きることに尽きる。幸・不幸や使命感、倫理などに捉われない本能的な原始感覚で、全てを受けて立つ生きざまがある。

 第二章〈生い立ち来たるところ〉では、その生きざまをもたらした故郷秩父の原風景を描く。そこにある糞尿と土への親しみが、「生々しい」ものを基本においた純粋経験につながり、物を判断する尺度となった。「生々しさ」は、「生きもの感覚」によって、物に即し、相手と抱き合えばいい。生々しい人間を書くことに徹するのが俳句のあり方だ。自分はそれに徹底してきたから、「自分自身が俳句の塊りである」と言い切ることができる、と兜太はいう。

 そして第三章〈戦争と俳句〉へ引き継がれる。

 兜太の戦争体験は、昭和十九年から二十一年の引揚げまで。場所は南太平洋日本海軍の要衝トラック島である。着任当時、此にトラック鳥の基地機能は壊滅的打撃を受目りており、やがて内地からの補給が途絶えると、全鳥飢餓状態に陥る。その中で出会ったさまざまな人間像と俳句との関わりを、兜太は語っている。

 この極限状況の中で、当初は俳句を作るまいと考えていた。上官からの、自活と士気高揚のために句会をやってほしいという要請にも応じなかった。ところがほどなく、俳句復活の機会がやって来る。死者に報いるために俳句は作らないと決めていたのに、歩いているうちに自然に出来てしまう。これはもう身体現象だった。さらに、文学青年西沢陸軍少尉と親しくなったことから、陸海軍合同の句会を提案され、自らの俳句魂に気づくとともに、上官の志にも応えようと決意するにいたる。この句会は、陸海軍の枠を越え、階級絶対主義の軍隊で士官と軍属工員の差別もない、奇跡のような風景をもたらした。戦場下でのさまざまな事情で、兜太自身長く携わることが出来なかったにも関わらず、句会活動は拡がりを見せ、終戦時まで続いたという。

 この理由を西沢少尉は、兜太の人徳・指導力と俳句という詩型のもつ汎人間的魅力によるという。おそらく、極限状況の下での人間の生への執念は、最終的には感性の力に負うところが大きいのではないか。これには兜太の「生きもの感覚」が拠り所になったに違いない。俳句の場を通じて、それを引き出すガイドの役割を演じた。しかも俳句型式が、誰にも開かれているものであった。戦争という極限状況をも乗り越える詩型の力を、あらためて教えられた。

🔷🔷ドキュメンタリー映画=天地悠々 兜太・俳句の一本道 赤旗日曜版19.4.14

◆◆昭和からの遺言=金子兜太 週刊朝日15.03.06

◆◆(ひもとく)金子兜太の生き方 句にぶんなぐられて気分よし 嵐山光三郎

 金子兜太氏は野生の人で、なまなましく生きて、句にケダモノ感覚がある。花鳥風月が嫌いな人だった。句にぶんなぐられたけれど気分がいい。

 二〇一二年、兜太氏(当時九十二歳)が主宰する俳誌「海程」五十周年記念祝賀会があり、百四十人の野生的客人が集まった。まず藤原作弥さん(元日本銀行副総裁)が日銀時代のヒラ社員史を語った。組合活動にかかわり、福島、神戸、長崎の支店にとばされた。

 とばされたって日銀だろ、と野生的客人はブーブーと文句をいった。つづいて、トラック諸島に赴任時代の上官だった西澤実さんが「金子君はな、戦争に負けそうなトラック島で、陸海軍合同俳句会をやったとんでもねえ野郎だァ」と大声で演説した。そのときにつくったのが、魚雷の胴にトカゲが這(は)い回ってるって句だ(魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ)。しばらくすると薄っぺらい俳句誌を送ってきやがって、それが「海程」創刊号だった。(拍手)。それがなんだ、五十周年号は机の上に置くと、「広辞苑」みたいに立つよ。(拍手、拍手)。

 つづいて有馬朗人さん(元東大総長)が「東大時代の金子さんはとびぬけて優秀な成績を残しています」と報告すると、隣席の芳賀徹さんが「そんなはずはないだろ」とドラ声をあげた。私の右側にいた宇多喜代子さんは「かつて宇多喜代子をバイ菌から守る会がありました。バイ菌とは前衛俳句と呼ばれた金子兜太さんです」。ズケズケと遠慮なくいうところが俳人の景気のよさだ。

 芳賀さんが「バイ菌って言葉なつかしいですな」とつぶやき、有馬さんも「じつにいい言葉だ」とうなずいて、バイ菌、バイ菌バンザーイとなったところで、小沢昭一さんの音頭で万歳三唱をした。

◆欲望のままに

 『他界』は、トラック島での戦争体験から、定年直前までの「定住漂泊」の心情を語っている。社会に「定住」しつつ一茶や山頭火のような「漂泊」に生きる。

 《定住漂泊冬の陽熱き握り飯》(一九七二年)

 九十九里浜の病院にいる妻を見舞いにいったときの吟、

 《癌と同居の妻よ太平洋は秋》

 人の死を「消滅ではなく他界」と信じている。肉体が消えても精神は永遠だ。二〇〇四年に一〇四歳で他界した母を思い出して

 《長寿の母うんこのようにわれを産みぬ》

 『小林一茶』は句による評伝で、一茶の約九十句を解説している。欲望のまま自由に生きた一茶の「荒凡夫(あらぼんぷ)」ぶりを兜太氏はめざした。

 『金子兜太の俳句入門』は、芭蕉や中村草田男から、高校生の句(古池に蛙とびこみ複雑骨折)まで引用して、生活実感やユーモアの骨法を説く。自作「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)どれも腹出し秩父の子」を自慢するところがいい。

◆天からの言霊

 兜太氏は高齢化社会のアイドルとなって、晩年は、多くの本が刊行された。『他流試合――俳句入門真剣勝負!』(金子兜太、いとうせいこう著、講談社+α文庫・961円)は、いとうせいこうさんがまえがきで「こてんぱんにノサれた」と独白する痛快な対談集。

 『存在者 金子兜太』(黒田杏子編著、藤原書店・3024円)は「そのまま」で生きていく人間を「存在者」と規定する。「被曝(ひばく)福島」と題して

 《魂(たま)のごと死のごと福島紅葉(もみじ)して》(二〇一七年)

 兜太名句は三十句ほど暗記しているが、一番好きな句は、

 《脳天や雨がとび込む水の音》(二〇〇八年)

 で、ノウテンという言葉の響きに雨が降り落ちる音が重なっている。芭蕉の言霊(ことだま)が天から降ってきた。

 ◇あらしやま・こうざぶろう 作家 42年生まれ。『悪党芭蕉』で泉鏡花文学賞、読売文学賞。

◆◆高野=戦死者とともに生きた金子兜太

赤旗18.03.07

◆◆乾いた詩情、戦後俳句を開く 金子兜太さんを悼む 俳人・長谷川櫂

朝日新聞18.02.22

 春の寒さに耐えかねるように大樹が音をたてて倒れる。その残響の谺(こだま)に耳を傾けながら、この文を書いている。

(20日に死去した俳人の金子兜太さん。1987年から朝日俳壇選者を務めた=2017年1す0月、埼玉県熊谷市、関田航撮影)

(朝日俳壇公開選句会での4選者。右から大串章さん、稲畑汀子さん、金子さん、長谷川櫂さん=2010年10月、松山市)

 振り返れば金子兜太九十八歳の生涯は大きく二つに分かれる。まず社会性俳句、前衛俳句の旗手として戦後俳句の境界を広げてきた「昭和の兜太」。その後、人間としての生き方や戦争・原発について発言をつづけた「平成の兜太」である。

 私はこの二十年近く毎週金曜日、朝日俳壇の選句会で会って話をした。話題は俳句や文学より四方山(よもやま)の人物評から昨今の世相、国内外の政治問題まで、思えばじつに楽しい時間だった。

 そこから浮かび上がる兜太という人は世間で思われているような豪快な野人ではなく、むしろ繊細な神経の持ち主である。青年時代の兜太の書を見たことがあるが、それは後年の肉太の書ではなく、線の細いインテリの書だった。その自分の繊細さに対する反発、そして肉付け、いわば自己改造がのちに太っ腹な兜太を出現させたのではなかったか。

 《青年鹿を愛せり嵐の斜面にて》

 初期のこの句に流れる清冽(せいれつ)な詩情こそ愛すべきである。ここに兜太の詩の原点が眠っている。それが数十年後、次の句を生み出す。

 《よく眠る夢の枯野が青むまで》

 兜太はしばしば一茶への共感を語っているが、あれも一茶に自分と通じるものを見ていたというより、荒凡夫・一茶を手本にして自分を鍛えようとしたのだろう。

 《三日月がめそめそといる米の飯》

 四十代の作だが、ここにはそのころの兜太が何を嫌悪していたか、兜太が克服しようとしたものが名指しされている。米の飯、三日月、しかもそれはめそめそとしている。日本人の心の底に昔から流れる湿っぽい情緒といえばいいか。それが日本を戦争へ導き、敗戦後もしぶとく残りつづけたと兜太の目には映っていたにちがいない。

 この日本的なじめじめした情緒に代わる、からりと乾いた新しい詩情を模索したのが、対象としての社会問題であり、方法としての「前衛」であったはずだ。

 《彎曲し火傷し爆心地のマラソン》

 この句は原爆という人類的な社会問題を前衛的手法で構成した記念すべき作品である。兜太というより兜太のこの一句によって戦後俳句の世界は大きく切り開かれた。

 晩年、兜太は高齢化社会の老人たちのアイドルにされる。この事態に直面して兜太は自分を「存在者」と定義し直した。人間は戦争で犬死にしたりせず、何もしなくても生き永らえるだけで尊いという考え方である。

 これが草木岩石すべてに命が宿るという日本の原始的な宇宙観に通じることはいうまでもない。重要なのはそれが理想を見いだせぬまま欲望を肯定してきた戦後の価値観に形を与え、迷える老人たち、誰より自分を励まそうとしたものだったということだろう。

    *

 はせがわ・かい 1954年生まれ。俳人。93年に俳誌「古志」創刊。2000年から朝日俳壇選者。

◆◆今に受け継ぐ戦争俳句 朝日俳壇選者・金子兜太さん講演

2016年8月11日朝日新聞

 朝日俳壇選者の俳人・金子兜太(とうた)さん(96)が、俳句を通じて戦争と戦後社会への思いを語るイベントが7月25日、朝日新聞東京本社の読者ホールで開かれた。戦争俳句が生まれた経緯やその意味、戦後への影響をさまざまな句を通じて説き起こし、自身の戦争体験も交えて反戦への強い思いをにじませた。

 金子さんは、戦争俳句を語るうえで重要という、昭和初期の新興俳句運動から語り始めた。当時「客観写生」を是として俳句界で大きな力を持った高浜虚子に対し、主観を重視した水原秋桜子(しゅうおうし)らの活動が新興俳句運動へつながった。

 金子さんの父で俳人の金子伊昔紅(いせきこう)は、友人の秋桜子に共鳴して俳句を始めた。金子さんは、埼玉・秩父の自宅に近隣の30~40代の男性が集まって句を詠む姿を覚えている。

 戦争の時代に突入し、新興俳句の担い手の多くがその現実に向き合った。金子さんは長谷川素逝(そせい)の1937年の句を挙げ「この辺りから俳句がもろに戦争と取り組み始めた」と述べた。

 《雪の上にうつぶす敵屍銅貨散り》

 素逝は同年に出征し、39年に戦争を詠んだ句集『砲車』を刊行した。

 戦場体験に基づく「前線俳句」だけでなく、戦場を想像して詠む「戦火想望俳句」も生まれた。

 《逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ!》(38年)

 西東三鬼(さいとうさんき)のこの句は「官憲ににらまれただろう」と金子さん。個人の内面や自由を大切にする新興俳句は権力側に警戒された。その象徴が、40年の俳誌「京大俳句」弾圧事件だ。新興俳句を代表する平畑静塔(せいとう)、渡辺白泉(はくせん)、三鬼ら15人が検挙された。

 金子さんは、白泉を「最も鋭い戦争批判の句を作った」と評価する。

 《戦場へ手ゆき足ゆき胴ゆけり》(38年)

 《戦争が廊下の奥に立つてゐた》(39年)

 同世代の鈴木六林男(むりお)も、反戦的な句を多く残した。

 《負傷者のしづかなる眼に夏の河》(41年)

 一方、戦争は新たな季語も生んだ。バナナやマンゴー、椰子(やし)、スコールなど。日本が統治し、戦場となった南洋の風物で、虚子は「熱帯季題」として歳時記に加えた。今は普通に使われており、「戦争の影響が今に続いていることを知ってほしい」と金子さん。

 金子さん自身も、海軍主計中尉として南洋トラック島に出征。終戦で米軍捕虜となり、46年に帰国した。

 《水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る》(55年)

 仲間が過酷な飢えや戦いで死んだ島が遠ざかるのを船尾から見つめて詠んだ。「彼らの無残な死に報いなければと誓ったんです」

 被爆地も詠んだ。

 《霧の車窓を広島走せ過ぐ女声を挙げ》(55年)

 《彎曲し火傷し爆心地のマラソン》(61年)

 1句目は、夕刻に広島駅で見かけた女性。ケロイドを隠すように立ち、おそらく身を売って生きていた。2句目は長崎で。爆心地に至る峠道のランナーを見て「人間の体が曲がり、焼けて、崩れていくイメージが浮かんだ」という。「俳句は、優れた映像的イメージを(頭の中で)作り出し、それを書きとめたもの」と自身の俳句観を語った。

 俳句の世界で、戦前・戦中と戦後とは断絶せず、むしろ流れは今に受け継がれているとしたうえで、「あんな無残な戦争は二度と、誰にも体験してほしくない」と何度も強調した。

 戦後70年の節目の句が、一筋に変わらぬ思いを表す。

 《朝蝉よ若者逝きて何んの国ぞ》(2015年)

金子さんが戦場体験と現代への危機感を語った『あの夏、兵士だった私』(清流出版)が今月、刊行された。(小川雪)

◆◆反戦、生涯かけた俳人 「言行一致の人」悼む 金子兜太さん死去

2018年2月22日朝日新聞

俳人の金子兜太さん(左)と握手する日本文学者のドナルド・キーンさん=2014年12月、関口聡撮影

 戦後俳句を代表する俳人の金子兜太(とうた)さんが20日、98歳で亡くなった。みずみずしい感性で俳句の世界を革新し続けるとともに、悲惨な戦争の体験者として生涯、反戦と平和を訴えた。▼文化・文芸面=戦後俳句開く

 日本文学研究者のドナルド・キーンさん(95)と金子さんは、ともに太平洋戦争を経験した。キーンさんは「2人で戦争の話をしました。今の若い人たちは戦争のことを何も知りませんが、私は戦争ほど恐ろしいものはないと思っているし、彼も同じでした。そういう人がいてくれることがうれしかった」と振り返った。

 敗戦後に15カ月にわたって捕虜生活を送った金子さんと、米軍の日本語通訳として捕虜と接した経験を持つキーンさん。「戦争はとても嫌なものですが、しかし同時に、絶対に忘れられないものなのです。戦争を知る人でものを書く人は、もうずいぶん少なくなった。大事な人でした」

 友人で俳人の黒田杏子(ももこ)さん(79)は亡くなる3日前の見舞いが最後となった。「生ききって、健やかに息を引き取ったのだと思う。最近は、残された時間で戦場体験を語りたいということで、私が聞き役として対話講演や対談を続けてきた。平和は誰もが尊いと思うが、そのために行動する人は少ない。金子さんは言行一致の俳人だった。そして、最後まで現役の作家だった」

 現代俳句協会の宮坂静生会長(80)は、「実感をもって率直に、体の中から絞り出すような言葉で詠(うた)う。これは芭蕉以来という感じだった。現代において極めてシンボリックな存在であり、戦後の俳句の終焉(しゅうえん)だと思う」と惜しんだ。

◆◆金子兜太=句に行動に貫いた反戦

赤旗日曜版18.03.04

◆◆金子兜太=アベ政治への危機感で戦争の語り部に、俳人黒田杏子語る

◆◆(天声人語)金子兜太さんを悼む

2018年2月22日朝日新聞

 死と隣り合わせの戦場に句会があった。ところは南洋トラック島、強まる米軍の爆撃を避けながら、日本軍の将校や軍属の工員たちが句を批評しあった。中心にいたのが、後に戦後俳壇を牽引(けんいん)する金子兜太(とうた)さんである▼海軍の主計中尉だった金子さんは上官に言われた。「みんな気持ちが暗くなるから、句会をやって慰めてやれ」。そこだけは陸軍も海軍もなく、階級の違いもない、自由闊達(じゆうかったつ)な精神があったと、金子さんは著書で振り返っている▼ささやかな集いは長くは続かなかった。食糧の欠乏で餓死者が続出し、俳句どころでなくなった。敗戦を迎え、捕虜生活を経て復員する船のなかで金子さんは詠んだ。〈水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る〉。航跡の向こうに残した仲間への鎮魂だった▼自由を求める俳人だった。しかし山頭火の放浪を理想とはしなかった。冷遇されながらも日本銀行を勤め上げ、転勤する先々で俳句の仲間と交わった。日々の生活を大事にしつつ、心はさまよう。「定住漂泊」を好んで口にした。矛盾をはらんだ言葉は、精神の自由を保つための構えなのだろう▼季語や型にとらわれない作風であった。「『ハナミズキ』という季語と『国会前』という言葉を区別せず、自由に使えばいいのです」と語っていた。〈曼珠沙華(まんじゅしゃげ)どれも腹出し秩父の子〉の句があり〈原爆許すまじ蟹(かに)かつかつと瓦礫(がれき)あゆむ〉の句がある▼金子さんが98年の生涯を終えた。爆撃も飢えもない平和を愛し、最後まで句を詠み続けた。

◆◆自由と反骨の98年 金子兜太逝く

サンデー毎日18.03.11

◆◆金子兜太=昭和からの遺言

「週刊朝日」15.03.05

【金子兜太の本の紹介=赤旗より】

◆◆金子兜太の句、すべての言葉を詩に 雑誌「兜太 TOTA」創刊、シンポジウム

朝日新聞18.10.01

シンポジウム「兜太を語り TOTAと生きる」の会場(壇上右はあいさつする藤原良雄・藤原書店社主)=東京都千代田区

 今年2月に98歳で亡くなった俳人、金子兜太さんの人気はなお根強い。長く選者だった朝日俳壇には今も毎週、その名を詠み込んで兜太さんを追悼する句が届いている。先月25日には藤原書店から新雑誌「兜太 TOTA」が創刊され、東京都内で記念シンポジウム「兜太を語り TOTAと生きる」が開かれた。

◆定型と非定型、幅が生んだ「大きな人」

 社会学者の上野千鶴子さんは、季語や五七五の定型にこだわらない句も詠んだ兜太さんを「こんな人が俳句界の主流だったとは信じられない」と評した。学生時代に京大俳句会に所属した上野さんは尾崎放哉の自由律俳句にひかれ、「花鳥諷詠(かちょうふうえい)も写生も大嫌い。有季定型の俳句は殺意を抱くほど憎んでいた」と言う。

 季語があって五七五という形式を借りれば成立する俳句は、素人も参入しやすい文芸だ。だが、裾野が広いからこそ「俳句界のリーダーには、有季定型と対峙(たいじ)する緊張関係を持ってほしい」と上野さんは考える。「兜太さんには社会詠もあるし、定型を食い破っておとなしく五七五に収まらないパフォーマンスも見せてくれた」

 作家のいとうせいこうさんは兜太さんと共に、中日新聞(東京新聞)紙上で「平和の俳句」選者を務めた。政治的メッセージをそのままぶつけるような投稿句も多かったが、兜太さんは「言いたいことがある句が強いんだ」と、そうした句もよく選んだ。

 日本語では政治の言葉と日常の言葉が別のものになってしまい、詩で政治を語ることができなくなっているのでは? いとうさんはそう案じたが、兜太さんは「まったくそんなことはない。すべての日本語は詩語だ」と言い切ったという。

 ただ兜太さんは「そのためには定型が必要なんだ」とも付け加えた。詩的に見えない言葉を詩にのせる枠組みが、五七五という定型だった。いとうさんは「そのわりには自身の句は定型でないものも多い。あるときは肯定、あるときは否定、その切り替えを繰り返すことで、兜太さんは幅のある大きな人になったのでは」としのんだ。

 ごつごつした句を詠む前衛俳人だった兜太さんは晩年、トラック島での自身の戦争体験に基づいた反戦平和の語り手がもう一つの顔になった。シンポジウムに先立ち登壇した作家の澤地久枝さんは、兜太さんに依頼して書いてもらった揮毫(きごう)「アベ政治を許さない」の色紙を掲げ、「兜太さんは生の政治を語らない人だった。これは政治の言葉でしょうか?」と会場に問いかけていた。(樋口大二)

🔷🔷金子兜太さん60年間の日記 論敵批判や自己反省、繊細さも

朝日新聞2019年3月17日

 戦後俳句の革新者として知られ昨年98歳で亡くなった俳人・金子兜太さんの日記が刊行された。俳人たちとの交流や句作をめぐる心情の動きなどが約60年にわたって記され、戦後俳句史を知る上で貴重な資料になっている。

『金子兜太戦後俳句日記』(白水社)は全3巻。今回発売されたのは第1巻で450ページ、本体価格9千円。1957年から76年までが収録されている。

 注目されるのは、代表作の一つ〈彎曲し火傷し爆心地のマラソン〉の初出が記されていたこと。「俳句、どうしてもできず、眠る」と1行だけ書かれた翌日の58年3月9日、「夜、ムキになって俳句を作る。状態が熟し、次第にできてくる」として日記にも句が残されていた。

 その3日前には「俳句がどうしてもできない。いらいらする。イメージを整えるためと思い、『長崎の殉教者』(片岡弥吉)を読む」ともつづられており、句ができあがるまでの精神的なプロセスがうかがい知れる。

 ついに未完となった戦場体験の小説化も「トラック島をドキュメントだが書いてみて、書くことのポイント、そのポイントをつかんだあとの楽しさを知る。もっともっと書いてみたい気持になる」(68年2月25日)など、繰り返し触れられている。

 論敵の歌人前川佐美雄に対しては「けしからん」「あきれたもんだ」と激しい筆致で批判し、山本健吉が日本芸術院賞を受賞した評論には「『芭蕉』の下らなさ」とばっさり。その一方では、こんな自己反省も書き記した。

 「お前は〈俳句を作れ〉〈その作ることに日常を集中することを以って仕事とせよ〉と。そこに自立のエネルギーがあると。単純なこのことに気付かず、俗に神経を働かせていた自分が恥しい」(66年7月4日)。

 巻末の解説を担当したのは俳人の長谷川櫂さん。「戦後俳句の生きた資料として超一級。また、豪放磊落(らいらく)なイメージのあった金子さんが、実は内に繊細さを抱え込んでいたことがよくわかる。それを乗り越えようとしたことが俳句のエネルギーになっていたのではないか」と評する。

 校訂した金子さんの長男の真土さんは「呻吟(しんぎん)しながら暮らしていた父の心情が吐露されている。俳句に関心のある多くの方々に手にとってほしい」と話した。

 第2巻は今年8月、第3巻は来年2月にそれぞれ刊行される予定だ。(樋口大二)

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