歌の律動

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【和歌の入門教室 「歌の律動(五七調と七五調)】 より

これまで「和歌の入門教室」でご紹介したほとんどは修辞法であり、和歌における歌詞の書き方の説明でした。しかし和歌はやはり「歌」です。耳から入る「律動(リズム)」をも整えてこそ作品として仕上がるのです。

ということで今回は、割に軽視しがちな歌の律動について学びましょう。

いまさら言うまでもありませんが、和歌とは三十あまり一文字(五・七・五・七・七)で構成されます。ここに区切りをいずれに据えるかによって、歌に特有の律動が生まれるのです。

なかでも「五七調」および「七五調」は和歌の基本的な律動とされ、区切りが置かれる目安とされます。

句切れ

律動を知る前に、まず前提となる「区切れ」を知りましょう。

句(詞)の切れ目ですから、句末が終止形になっている句が“切れる句”ということになります。これは動詞はもちろん助動詞、形容詞でも句末が終止形であるのなら、そこが句切れとなります。

また「体言止め」という言葉があるように、句末が体言つまり名詞で止まっている場合も句が切れます。さらに助詞であっても「かな」「ばや」「がな」といった終助詞が句末にある場合、句はそこで切れます。

五七調

「五・七」つまり偶数句で切れるのを「五七調」と言います。万葉集に多く見られると言われますが、まあ当たり前ですよね。この集を見れば分かりますが、元来歌の主流は「五・七」が延々と続く「長歌」でした。後にこれが三十一文字(短歌)に収められたのですから、万葉歌に「五・七」の律動が多くあって不思議ではありません。

七五調と比べると五七調はいくぶん重々しい印象を与えます。万葉集の力強さというのは言葉だけでなく律動も影響しているのです。

■例

「春過ぎて、夏来にけらし。白たへの、衣ほすてふ。天の香具山。」(持統天皇)

「河上の、つらつら椿。つらつらに、見れども飽かず。巨勢の春野は。」(春日蔵老)

「大夫(ますらを)の、鞆(とも)の音すなり。物部の、おほまへつきみ。楯立つらしも。」(元明天皇)

七五調

「七・五」つまり奇数句で切れるのを「七五調」と言います。和歌の基本律動をなし、古今集ではこの「七五調」が歌の大半を占めます。七五調は先の五七調と比べると軽やかな印象を与えてくれます。

ちなみに新古今にもなると「初句切れ」や「四句切れ」も多用されて律動の定型というのはなくなっていきます。それが新古今の複雑さを手伝っており、歌人一人ひとりが律動までも考え抜いて歌を作っていたことが分かります。

「くるとあくとめかれぬものを梅花。いつの人まに移ろひぬらむ。」(紀貫之)

「三吉野の山辺に咲ける桜花。雪かとのみぞあやまたれける。」(紀友則)

※古今和歌集ではこのように「三句体言止め」が多くみられます。

「散り散らず。人も訪づねぬふるさとの露けき花に春風ぞ吹く。」(慈円)

「うちしめり菖蒲ぞ香る。ほととぎす。なくや五月の雨の夕暮れ。」(藤原良経)

「わか恋は知る人もなし。せく床の涙漏らすな。黄楊の小枕。」(式子内親王)

新古今和歌集は「結句体言止め」が有名ですが、それだけでなく「初句切れ」や「四句切れ」など練りに練られた句切れの妙技が見て取れます。

句切れの効果的用法(百人一首歌より)

句切れの位置によって歌に律動が生まれることがお分かり頂けたと思います。

最後に百人一首歌から、律動の工夫によって印象を与えられている秀歌をご紹介しましょう。

「みかの原。わきて流るるいづみ川。いつ見きとてか恋しかるらむ。」(藤原兼輔)

初句、三句で切り、溜まりに溜まった恋の衝動が一気に爆発したような歌に仕上がっています。

「今はただ思ひ絶なん。とばかりを人づてならで言ふよしもがな。」(藤原道雅)

「思いは絶えた(あきらめた)!」 と二句で強く切っておきながら、三句以降で「と、言えたらいいなぁ」と一転拍子抜けで締める。作者に狙いがあったのか分かりませんが、飄々として掴みどころのない歌になっています。

「長からむ。心も知らず。黒髪の乱れて今朝はものをこそ思へ。」(待賢門院堀河)

この歌は百人一首歌のうちで最も律動の効果が効いています。初句、二句で「む」「ず」と強い調子で区切り、頭から畳みかけるインパクトがあります。またそれら言葉一つひとつに物語があり、物思いに沈む女の悲壮感が際立っています。僅か三十一文字でもこれほどの世界観を描けるのは、ひとえに律動が与える印象の効果です。