与謝蕪村

http://blogyang1954.blog.fc2.com/blog-entry-1063.html?sp 【与謝蕪村10】 より

大谷晃一『与謝蕪村』(1996年刊)から、蕪村の生涯を略述してみる。この本では著者の推断も多く入っているから、事実とは異なる部分もあると思う。

毛馬の北脇で、庄屋、谷吉兵衛の妾げん(丹後の与謝出身)の子として生まれる。本妻に姉二人あり。幼名、寅(いん)、元服して信章(のぶあき)。幼少のころ、池田の絵師、百田伊信(ももたこれのぶ)に絵を学ぶ。清の中国画技法の画譜『芥子園画伝』などで独学する。13歳のときに母を亡くし、17歳で父が死ぬ。18歳で京に出て知恩院塔頭で出家、釈信章(しんしょう)と称す。

21歳のとき、京に滞在して10年の俳人、早野巴人(はじん)を知る。翌年、巴人とともに江戸に下る。日本橋石町(こくちょう)の高い鐘楼の下に師とともに住む。夜半、時の鐘が間近に響く。庵を夜半亭と名付け、巴人は俳名を宋阿、信章は宰町(のち宰鳥)とした。23歳のとき、

蕪村『卯月庭訓』

  尼寺や十夜にとどく鬢葛(びんかずら)

の句が、立膝の女の自画とともに『卯月庭訓』に掲載される。

江戸では、徂徠の弟子、服部南郭に入門し漢詩を学ぶ。そこで蓼太や召波を知る。そして、享保二年、27歳のとき、師の宋阿が死ぬ。

  こしらへて有(あり)とはしらず西の奥 【宋阿の辞世句】

  我泪(なみだ)古くはあれど泉かな 【宰鳥の追悼句】

その年、宋阿門下の砂岡雁宕(がんとう)を頼って結城に行き、浄土宗の弘経寺に庵をかまえる。結城の早見晋我(しんが、北寿老仙)や丈羽、宇都宮の佐藤露鳩、那須烏山の常盤潭北(たんぼく)などの宋阿門人と交流する。しばらくして、秋、奥州の旅に出る。下野芦野、磐城、郡山、福島、磐梯吾妻、米沢、山形、新庄、酒田、象潟、秋田を経て八郎潟の東の九十九袋(やしやぶくろ)、さらに能代を経て、出羽、陸奥、そして津軽の外ヶ浜まで行く。帰路は、青森から盛岡に至り、平泉を通り、松島を見物後、仙台、白石、岩代、福島をたどって関東に帰り、宇都宮の露鳩がもとでしばらく足を休めた。およそ1年間の旅である。翌年正月、29歳、露鳩の勧めで歳旦帖を撰んだ。処女選集である。

  古庭や鶯啼きぬ日もすがら

という句に初めて蕪村と署名した。四月に結城に帰る。

享和二年、30歳。前年、潭北が亡くなり、この年の正月に晋我が死んだ。蕪村は「北寿老仙をいたむ」を霊前に捧げた。宝暦元年8月、36歳、14年ぶりに京に戻るのであるが、それまでの間、関東周辺や江戸を放浪することことが多く、俳諧よりも画の修行に専心している。上洛も絵を専門的に学ぶためであった。俳諧では飯が食えぬと踏んでいたのだ。

京には三宅嘯山(しょうざん)や宋阿門人の宋屋、几圭らがいて、炭太祇(たんたいぎ)も江戸から上洛してきた。蕪村は句会にも参加したが、メインは画の修行だった。主に、彭城百川(さかきひゃくせん)について画を学んだが、三年ほどしてその百川が亡くなると、宝暦四年、39歳の夏、蕪村は絵画修行のために丹後に去った。

丹後では、まず宮津見性寺の竹渓和尚を訪ね、そのまま寄寓した。寺には竹渓の俳友のお坊さんたちが集まってきたが、あまり気乗りがしない。画の修行の方が大事なのだ。秋、熱病にかかり、そこの座敷で寝ているとき、狸の妖怪に出くわす。これに想を得て、「妖怪絵巻」を画き、寺の座敷の欄間に張り付けた。これは、まさに水木しげるの世界ではないか。

蕪村「妖怪絵巻」林一角坊の前に現れた赤子の怪

蕪村「妖怪絵巻」榊原家の化け猫蕪村「妖怪絵巻」帷子が辻ののっぺらぼう

翌年になると、画の注文が近在の寺院や金持ちからぽつぽつ舞い込んできた。やはり画才があったのだ。宝暦五年夏には宮津から母げんの里である与謝村に出向く。施薬寺では「方士求不死薬図」を画き残す。が、すぐに見性寺に戻る。そして、宝暦七年9月、42歳、3年間の丹後放浪を終えて京に戻る。この間、多くの画作をなした。帰京の際、溝尻という漁村で見染めた19歳年下のとも女を妻として伴った。還俗したのである。

蕪村「方士求不死薬圖六曲屏風」左双

蕪村「方士求不死薬圖六曲屏風」 右双

京では宋阿の門人たちが集まってきたが、蕪村には家庭があり、娘くのも生まれ、稼がなければならない。ところが、肝心の画の方は売れ行きが芳しくない。丹後のような地方では認められたのだからと、今度は四国に行くことにした。宝暦十一年9月、46歳の蕪村は宋阿系の裕福な俳人を頼りに讃岐に出かけた。鳴門から讃岐に入り、高松、金比羅、丸亀などを経て翌年帰京。画も売れ、画境も進展し、京でも徐々に認められ、生活も少しずつ安定してきた。俳諧の方では、明和三年6月に三菓社句会を始めている。にもかかわらず明和三年秋から五年夏にかけて(51~53歳)、二度にわたり讃岐に出かけている。丸亀の妙法寺の「蘇鉄図」成る。

蕪村・蘇鉄図

京では毎日のように六波羅蜜寺に出かけたという。信仰心からではなく、董其昌の絵を見るためであり、信心より画作欲の方が勝っていたのだ。明和三年頃には、傑作「晩秋遊鹿図」を画いた。生き物がいるのになんという静寂だ。東山魁夷の湖畔の白馬や平山郁夫のシルクロードのラクダを彷彿とさせる。

蕪村・晩秋遊鹿図屏風

明和五年、53歳。この年の「平安人物志」の画家部に、応挙、凌岱らとともに初めて名を連ねた。ついに、画人として世に認められたのである。

明和七年3月、55歳。几董がのちのち夜半亭を継ぐことを条件に夜半亭二世を襲名した。この前後から、俳諧にも力を入れ、二代目襲名を期に、狭い四条烏丸の裏店から下京の室町通綾小路下ル白楽天町に転居した。田福(でんぷく)、馬南(大魯)、召波、鉄僧(医者、雨森章迪か)、几董、自笑(本屋「八文字屋」三代目)、百雉(百池)が夜半亭社中の顔ぶれである。のち、月渓、季遊、月居らも加わる。句会も多く開き、伊勢の樗良(ちょら)や尾張の暁台(きょうたい)、宮津の道立(どうりゅう)、大和の何来(からい)、難波の正名(まさな)、延年らもしばしば参加する。明和九年には、几董の父几圭の十三回忌追悼集と銘打って、夜半亭の第一撰集『其雪影』を発行。下の蕪村筆の挿絵に描かれている人物は、右から其角、芭蕉、嵐雪、宋阿、几圭。

蕪村・其雪影

が、俳諧はあくまでも遊びで、画が本業である。絵を画かないと暮らしが立たない。死ぬまで絵を画き続ける。気が遠くなるほど多作である(講談社の『蕪村全集第六巻』絵画・遺墨編には、絵画577点、俳画123点、その他62点が掲載)。明和八年8月、池大雅との共作「十便十宜図」を画く。蕪村は十宜図を担当。画号「謝春星」を用いる。

この頃こんな句を作っている。

  狐火を燃つくばかり枯尾花

  老が恋わすれんとすればしぐれかな

画業に忙しい合間をぬって、俳諧に遊び、遊里に遊んでいるのである。また、こんな句をも詠んでいる。

  愚に耐えよ窓を暗す雪の竹

  我を厭ふ隣家寒夜に鍋を鳴らす

貧居八詠の中の二句である。働けど働けど、蕪村の暮らしは楽にならないのだ。そんな中、安永二年夏、六回重ね刷りの「諫鞁鳥図」を制作している。江戸で春信が錦絵を始めて程ない時期である。関西でも浮世絵が始まったのだ。刷り物は割の合わない仕事である。お金にならなくても芸に労力は惜しまないのだ。

蕪村・諫鞁鳥図

安永四年、60歳のときに、終の棲家となる下京の仏光寺烏丸西入ル釘隠町の南側路地に転居する。いくらか広くなるが、決して暮らし向きが楽になったのではない。

  釣しのぶ幮(かや)にさはらぬ住居かな

  ででむしの住はてし宿やうつせ貝

安永五年、61歳。2月5日、秋成の訪問を受ける。秋成は几董の家に泊まる。10日、蕪村は几董とともに伏見まで送り、撞木町の百花楼で送別の杯を交わす。秋成から宣長との「ン」「む」論争の話を聞かされたのだろう、次の一句をものした。

  梅咲きぬどれがむめやらうめじやら

秋成の乗った三十石舟を見送りながら、「澱河歌」の構想を得たようだ。同月20日ごろ、上洛していた蒹葭堂を木屋町の宿に訪ねる。当人はまだ起きておらず、沓脱ぎに桜の花びらのくっついた草履が見えた。そこで一句。

  花を踏みし草履も見えて朝寝かな

この年の暮れ、16歳の娘くのを西洞院通椹木町下ル夷川町の料理屋「柿伝」を営む三代目柿屋伝兵衛の息子に嫁がせた。体の弱い娘を嫁がせて安らぎを覚えたが、同時に空しさが襲う。

  芭蕉去りてそののちいまだ年くれず

翌安永六年(62歳)は蕪村にとって転機となる一年となった。春興帖『夜半楽』刊行、亡母の追善夏行、娘の離婚・・・。これについては別のところで触れたので略す。この年以降、俳句、画作ともに充実期を迎えた。傑作「夜色楼台雪夜万家図」、「峨嵋露頂図巻」などが成ったのもこのころである。画号も最後の号である「謝寅」が使われ出した。

俳画の傑作も多く、「野ざらし紀行」1点、「奥の細道」3点、「芭蕉像」に至っては10点以上現存している。「万歳図」、「相撲図」など、何気なく描かれているようだが、踊る足、踏ん張る足の表現が実に見事だ。

蕪村・奥の細道画巻-那須野

安永七年11月、不遜の愛弟子、大魯が没す。享年50歳。安永八年(64歳)正月、神沢杜口の古希を祝う歌仙に蕪村も出座した。それとは別に、杜口と二人で歌仙を巻いている。そのころの杜口は、あの随筆『翁草』の執筆に余念がない。この杜口を画いた「葛の翁」自画賛がいくつか残っている。

蕪村・葛の翁画賛

  葛水に見る影もなき翁かな

  葛水にうつられでうれし老が貌

このころ、祇園や三本木での酒宴が増えた。杉月楼、雪楼、伏淵が行きつけの待合である。百池、春坡、佳棠ら金持ちの招きによるのがほとんどだ。宴席には美しい芸妓がいる。その中で、二十歳そこそこの無邪気な小糸が蕪村のお気に入りだ。この老いらくの恋の結末は別のところで触れたので略す。

安永九年10月21日、定例の檀林会の句会が開かれ、この日に寄せた句を含め、秋成が句文集「去年の枝折」を書いた。11月には、蕪村が心血を注いだ几董ととの歌仙二巻『ももすもも』が成った。このころ、傑作「竹林茅屋図」成る。

蕪村・竹林茅屋図

安永十年3月、月渓が愛妻を播磨灘での船の難破で亡くす。同年、天明と改元された9月、蕪村の口利きで、悲しみに沈む月渓が池田本町四辻北入りの田福の店の二階に住むようになった。これで、池田の風雅が大いに上がったという。

天明二年3月、念願の吉野行。几董と我則が同行。五月、『花鳥篇』成る。この句文集が門人たちの物議をかもし、蕪村は小糸と別れざるを得なくなったのである。

天明三年6月、尾張の横井也有が死んだ。名随筆『鶉衣』の著者である。享年82歳。7月、浅間山が大噴火し、東国に飢饉が広がる。9月、蕪村は妻子をともない宇治行。その後、持病の胸痛が悪化。12月25日未明没す。享年68歳。この臨終の様子については、別のところで書いたので略す。遺骨は金福寺内の芭蕉庵の傍らに埋められた。妻くのは蕪村没後31年間生き、死後、蕪村の墓に合葬された。蕪村の墓の傍らには弟子の大魯、月渓も眠っている。

月渓筆『新華つみ」潭北と蕪村

蕪村が死んで、弟子の月渓は、蕪村の遺稿を整理し、出来るものは製本して販売し、残された遺族の生活費にあてた。上の図は、そのとき作成された『新花つみ』の中に月渓が画いて挿入した挿絵である。関東遍歴時代の蕪村と潭北が描かれている。

  月画きぬどれが蕪村やら潭北じやら