宇都宮市の歴史的変遷

https://www.tochigiji.or.jp/spot/6131/ 【星野遺跡】  より

星野遺跡は、昭和40年からの調査により、出土された旧石器の含まれた地層などから、前期旧石器時代の遺跡であることがわかりました。ほかに、縄文時代住居址群も発見されています。

三峯へ釣瓶落しとなりにけり  高資

 星野遺跡ー 場所: 栃木県 栃木市


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【 宇都宮市の概要 】3.歴史的変遷  より

(1)日本列島の成り立ちと大谷石層の形成

今から約 2300 万年~1900 万年前に日本列島が地殻変動により大陸から引き裂かれ,そ

の後日本海が形成され,新生代新第三紀鮮新世の初めのころには不完全ながらも今日の

弧状列島の形となる。

この間の今からおよそ 1500 万年前の海底火山の噴火により噴出した火山灰が海底に堆積

してできた岩が,緑色凝灰岩の大谷石層である。また,八幡山公園周辺で見られる砂岩・泥

岩層は,今から 1200 万年前のものと考えられ,二枚貝やサメの歯などが発見されている。

第四紀更新世の終わりの 2 万年前頃には日本列島がほぼ現在に近い形となり,約 1 万

3000年~1万2000年前には,最後の氷期が終わり,海面上昇により宗谷海峡が海水面下に

没し,徒歩による大陸との行き来ができなくなる。

(2)原始・古代の宇都宮

今から4~3万年前に,大陸から人が移動し,日本列島に人が住み始める。この時期は,非常に寒い気候が続いた氷河時代で,日本と大陸は地続きで,ナウマンゾウやオオツノジカなどの動物を追いかけ人も移動してきたと考えられ,国指定史跡飛山城跡でその時期の獲物を捕らえるための「落し穴」と思われる遺構が見つかっている。

縄文時代の始まりのころは,大谷寺洞穴遺跡のような洞窟や岩陰を利用して生活する場合と,野沢遺跡のような広い台地の縁辺に竪穴住居を建てて住む場合があった。気候が徐々に温暖化すると,広い土地に集落をつくるようになる。前期(今から6~5千年前)には,東北・北陸地方で多く見られる大型の建物跡と同じようなものが,国指定史跡根古谷台遺跡で発見されている。この遺跡から出土した首飾りや耳飾り等の装身具は,特殊な石を使っていることから,交易品の可能性が指摘されており,他地域との交流があったことを物語っている。

中期になると,人口がますます増加し,竹下遺跡や御城田遺跡等のような大きな集落が形成されたが,後期から晩期にかけて気候が寒冷化し,次第に集落が小規模化する。この時期に営まれた石川坪遺跡や刈沼遺跡では,土偶や石棒等のまじないに用いたと推定される道具が多く出土している。

弥生時代は,大陸文化の影響を受け,九州北部に稲作や金属器を使う新しい文化が生まれ,西日本一帯に広がりをみせる中,この地域は未だ縄文時代の色彩を色濃く残していた。

中期の野沢遺跡では,縄目が付いた弥生土器が出土し,墓は再葬墓と呼ばれる関東から東

北地方南部にかけて見られる形態のものが確認されている。後期になると,宇都宮の南部を

中心に二軒屋式土器と呼ばれる土器を使用し,小規模な稲作を営む集落跡が見られるように

なる。

宇都宮における稲作の本格的な導入は,古墳時代になってからと考えられている。この時代の幕開け,即ち畿内地方の大和王権との交流の始まりは,宇都宮南部にある茂原古墳群の築造が契機となる。この地域では東海・北陸地方等の外来系の土器が出土し,古墳文化の萌芽にそれらの人びとの移動が深く関わっていたと考えられる。そして,この花開いた古墳文化を引き継ぎ発展させたのが,笹塚古墳(県指定)や塚山古墳(県指定)の被葬者たちであったと推定される。また,古墳時代後期になると,宇都宮北部丘陵上に横穴式石室をもつ多数の古墳群が築造され,宇都宮の北部にも古墳文化が浸透していった。

日本が律令国家となった奈良時代において,国郡里(郷)の中央集権体制が確立し,この地域は河内郡と呼ばれるようになる。その中心となる郡の役所と想定されているのが国指定史跡上神主・茂原官衙遺跡である。この遺跡に隣接する「東山道」をとおって,人・物・情報が行き交った。

この頃になると,郡内に郷と呼ばれる拠点的なムラが形成される。その一つに二荒山神社の南側にあった「鏡ヶ池」の周辺に営まれた「池上郷」がある。二荒山神社がこの地域の守り神として成立したのもこの頃と考えられ,地域の人々の心の拠り所として今日まで信仰され続けている。また,釜川沿いには,上神主・茂原官衙遺跡や下野薬師寺に供給する瓦を焼く窯業が成立し,その周辺に北の前・前田遺跡のような大きな集落が営まれた。

(3)中世の宇都宮

中世都市「宇都宮」の中核となる宇都宮城は,939 年の藤原秀郷築城説と 1063 年の藤原宗円築城説があるが,定かではない。一般的に宇都宮氏は後者の宗円が初代とされ,22代国綱までの約 500 年間この地を治めた名門で,二荒山神社の神官を兼ね,政治と宗教の両方を掌握していた。また,鎌倉幕府の要職を務め,独自の和歌集を作るなど文武に秀でた武将であった。

3代朝綱は,平安時代末期に京武者として活躍し,1189 年の奥州合戦の際には源頼朝軍に従軍し,阿津賀志山の合戦での勝利に寄与している。

また,5代頼綱は,謀反の嫌疑を受け出家し「蓮生」と号し,上京して法然に帰依し,法然の死後は証空に師事するなど,信仰心に厚い武将であるとともに,歌人としての才能にも優れ,当時歌人としてトップクラスの藤原定家と親交を持ち,京都の小倉山にある山荘の襖に貼る色紙和歌を百首選んでもらい,これが後の「百人一首」の基になったと言われている。

さらに,6代泰綱,7代景綱は,鎌倉幕府の評定衆や引付衆を歴任し,8代貞綱は,元軍

の襲来に対し日本側の総大将として約6万人の兵を率いて九州に出陣するなど,鎌倉幕府

内で宇都宮氏は重要な役割を担っていた。

なお,このような政治の中心である鎌倉や,文芸の最先端である京都,そして金や馬の産

地であった奥州との交流を支えていたのが「奥大道」であった。鎌倉時代の末期,9代公綱が楠木正成と戦った際に,「宇都宮は坂東一の弓矢取りなり」と正成が言ったと『太平記』にえがかれ,宇都宮氏が武勇に優れていたことが全国に知られていたことがわかる。また,南北朝期に,足利尊氏と弟直義との対立において,10 代氏綱が尊氏方となり,助けたことが賞され,上野国と越後国の守護職になっている。室町時代になっても宇都宮氏は武勇に秀でた武将であった。

この時代の宇都宮には,東勝寺・興禅寺・粉河寺をはじめ,多くの寺院が立ち並び「香煙のため王地を覆うの感あり」と言われており,宗教色の強いまちであったことがわかる。

戦国時代の宇都宮氏は,隣国の佐竹氏と同盟を結ぶなどし,武田勝頼や小田原の北条氏ら周囲の戦国大名の侵攻を防いでいたが,何度か宇都宮城下が焼かれたことから,一時多気城にその拠点を移し,北条氏の攻撃に対抗した。

1590 年に豊臣秀吉が小田原の北条氏を倒すと再び宇都宮城に戻り,その後は豊臣治世下の大名となり,1592年の文禄の役に参加するが,1597年に秀吉の命により突然改易となり,長きにわたる中世宇都宮氏の歴史の幕を閉じる。

(4)近世城下町として繁栄した宇都宮

江戸時代になると,宇都宮は東北地方の上杉や伊達等の外様大名を抑える上で軍事・交通上の重要地点に位置付けられ,城主は譜代大名から任命された。

その中の1人である本多正純は,1619 年に15万5千石で小山から宇都宮に入封すると,宇都宮城とその城下の整備に取り掛かった。今まで宇都宮城の東側をとおっていた奥州道中を西側に付け替え,伝馬町で日光道中と奥州道中に分けて,大きく町割りもつくりかえ,近世の城下町としての体裁を整えた。現在の宇都宮はこの時の町割りがベースとなっている。その後正純は,突然改易となったことから,後に講談などで「宇都宮釣り天井事件」として取り上げられるようになる。

当時の宇都宮は,参勤交代や日光東照宮の造営,将軍家の日光社参が19回も行われるなど多くの人々が行き交い,浮世草子作家の井原西鶴が「都の風俗にすこしもかハらず,男女ともしとやかなり,東に稀なる大所,物の自由も爰也」と紹介するなど「小江戸」と呼ばれるほど交通の要衝として繁栄したまちであった。元禄時代の記録によれば,宇都宮城下の人口は約1万人だったようである。このような人の賑わう城下において行われたお祭りの一つに,1672 年から始まったとされる宇都宮大明神の秋山祭の付祭(明治時代より菊水祭と呼ばれる)がある。『諸国御祭礼番付』によれば,江戸の山王祭や神田祭とともに東国祭礼の最上列,十指の一つに数えられ,39の祭礼町から各種の山車,彩色屋台,芸屋台,練り物,鉾など多彩な出し物が登場する盛大な祭であった。これに対し,農村部では,二階建彫刻屋台形式の天棚を設置し,五穀豊穣,風雨順調を願った天祭が各集落で行われた。また,日光街道沿いの村では,八坂神社の祭礼付祭,智賀都神社の付祭で彫刻屋台が繰り出された。1710 年に戸田忠真が城主となり,一時島原の松平氏と所替えとなるが,再び戸田氏が城主となり江戸時代の終わりまで続く。この時代には「寛政の三奇人」として知られる蒲生君平や城主でありながら玄人肌の花鳥画を描いた戸田忠翰,狩野派系画家の菊地愛山など学問や芸術文化が花開いた時期でもある。特に蒲生君平の「山陵志」は,幕末の宇都宮藩の家老間瀬和三郎や中老県六石等による山陵修補事業に受け継がれた。

江戸時代の末期には農村部で新田開発の動きが活発化する。1851 年に二宮金次郎の設計・施工により,石那田堰から徳次郎六郷用水が完成し,その後,西原新田村でも吉良八郎の指導のもと用水路の工事が進められ,1859年に宝木用水が完成し,宝木台地上でも水田が作れるようになる。また,宇都宮の豪商菊池教中は,鬼怒川沿岸の岡本新田・桑島新田の開発を行い,その功績により宇都宮藩から御家来並・七人扶持に取り立てられている。

1868 年の新政府軍と旧幕府軍とによる戊辰戦争の際には,宇都宮藩は新政府軍に属し,旧幕府軍の攻撃により城を退却する際に城下に火を放ち,四八町のほとんどが焼失した。

(5)町から市へ 宇都宮市の誕生

近代に入り,国が進める殖産興業の政策もあり,江戸の豪商川村迂叟が 1869 年に石井村大嶹に器械製糸場「大嶹商舎」を創設した。官営の富岡製糸場ができる一年前である。
1871 年の廃藩置県により宇都宮県ができたが,1873年には栃木県と合併になり,一時宇都宮から県庁が消え,県政の中心が栃木町に移る。
1882 年に県庁の宇都宮移転問題が公的な席上で論ぜられるようになり,川村河内郡長を中心に県庁の移転運動が展開された。県令三島通庸は栃木町から宇都宮町への県庁移転を決定し,県庁の新築工事が行われ 1884 年に新庁舎が開庁となる。これにあわせて,大通りの貫通工事や諸官庁,学校などが整備され,1885 年には東北本線が大宮-宇都宮間で開通し,1896 年には市制施行により「宇都宮市」が誕生し,名実ともに栃木県の政治・文化・経済の中心地となる。1907 年に陸軍第14師団司令部が置かれたことにより,軍都として国防上重要な役割を担うことになる。師団長官舎前の軍道は多数の桜が植えられ,桜の名所として有名だった通りで,現在その名残が「桜通り十文字」という名前で残っている。また,満州を転戦し帰還した将兵が餃子の製法を持ち帰り,それが一般の食卓にも広がり,現在の「餃子の街宇都宮」に繋がっている。

大正時代になると二荒山神社南の「バンバ」広場に常設の屋台店「仲見世」が建ち,バンバと呼ばれる繁華街となり,その後映画館や芝居小屋が立ち並ぶなど,浅草六区にひけをとらぬ賑わいを見せていた。また,創作版画で有名な川上澄生が宇都宮で教鞭を執り版画を精力的に製作していたのもこの時期であった。

1927 年の都市計画法の指定を契機に,街路網と住宅・商業・工業地域,公園や風致地区が確定され,1931 年に東武宇都宮線が開通すると,沿線の開発を促し,市南西部の市街化が進む。
1937 年に盧溝橋事件から日中戦争が始まり,その後 1941 年 12 月 8 日の真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発する。宇都宮にも中島飛行機製作所が設立され,日本製鋼,日化工業など次々と軍需工場が進出した。また,大谷石の採掘跡の地下を利用し飛行機の生産も行われた。
1945 年 7 月 12 日の宇都宮空襲では市街地の大半が焼失したが,戦後一早く戦災復興土地区画整理を進め,全国でもまれにみる復興をとげた。その時の市民の心の支えとなったのが,空襲で焼け野原となった地に焼け残った三の丸の土塁の上の大イチョウで,現在市の天然記念物として指定されている。

(6)都市の発達と文化振興の芽生え

1953 年に町村合併促進法が公布されると,町村合併の機運が高まり,1954~55 年にかけて隣接1町10村が合併し,旧市内の商・工・住宅地を中心に,周辺に広大な農業を中心とする地域を加え,市域の拡大とともに,人口も22万人余と増加する中,百貨店の進出やオリオン通りの全蓋アーケード整備など「商業都市」としての基盤形成がなされる。

1965 年代になると高度経済成長期が訪れ,1966 年に平出工業団地の造成が完了,1972 年に東北縦貫自動車道が開通,1976 年には内陸最大級とされる清原工業団地の造成完了など「工業都市」としての基盤整備が進む。このころ,耐火性や加工のしやすさに優れた大谷石の出荷量が 70~90 万トンとなり,宇都宮市内の蔵や塀に使われたほか,東京や横浜などの首都圏にも多く出荷され,都市の基盤整備の一翼を担った。尚,首相官邸や 1964 年の東京オリンピックの会場となった国立競技場の土台にも大谷石が使われた。
このように商工業が発展する一方で,開発に対し文化財を保護する動きも起こった。飛山跡周辺での宅地開発に対し,地域の人々が中心となり城跡の保存の動きが高まり,昭和52年に飛山城跡が国指定史跡となった。また,第 2 霊園建設に伴う発掘調査により見つかった縄文時代の大規模集落である根古谷台遺跡は,その規模の大きさから全国的な注目を集めた。そして,1988 年に国指定史跡となり,時の市長は「墓園は他に求めることができるが,遺跡は他に求めることができない」とし,貴重な遺跡の保存を決断した。

また生活の基盤整備が進むにつれ,「心の豊かさ」や「生活の質の向上」が求められるようになり,それに併せて「文化芸術の振興」が求められるようになった。1978 年には文化活動の拠点となる宇都宮市文化会館が開館し,翌年に宇都宮の芸術・文化活動に携わる団体により宇都宮市文化協会が発足した。さらに,1980 年に第 1 回宇都宮市民芸術祭が開催されるなど,市民と行政が連携して文化芸術を振興する体制が整ってきた。

さらに平成に時代が入ってからは,宇都宮大学,宇都宮短期大学音楽科に加え,作新学院大学,帝京大学,宇都宮文星短期大学・文星芸術大学,宇都宮共和大学が相次いで開学するとともに,新たな芸術分野としてのメディア芸術の振興により,放送・映像に係る専門学校が設置される等文化芸術色の強い「文教都市」としての充実が図られてきた。産学官の整備が進むにつれ,1996 年には中核市となった。
この年は市制施行100周年に当たり,様々な記念事業が行われる中,平成記念子どもの森公園の開園や宇都宮美術館が開館し,新たな教育・文化・芸術の拠点も整備された。また周年事業の一環として百人一首ゆかりのまちとして全国最大規模の百人一首市民大会が毎年開催されてきた。そのほかにも,宇都宮出身の世界的ジャズプレイヤー渡辺貞夫氏の顕彰などを目的とした「ジャズのまち宇都宮」の取組や全国稀有の「うつのみや妖精ミュージアム」を開設するなど,多彩な文化振興事業を展開してきた。

(7)新たな文化交流都市を目指して

2007 年の宇都宮市,河内町,上河内町の1市2町の合併により人口が50万人を超える北関東最大の都市となり,2011 年には群馬-栃木-茨城の北関東三県を結ぶ北関東自動車道が開通した。また,宇都宮市と芳賀町により,新たな公共交通網が計画されている。今後も様々な都市との交流を通し,市民憲章に掲げる「文化の薫るまち」を推進していく。

コズミックホリステック医療・教育企画