古墳

https://www.toishi.info/sozai/kstones/gyoukai.html  【凝灰岩の特徴】

火山灰が堆積して固まった岩石で、もともとは数ミリ以下の細かい火山灰が固まったものなので、石質は軟らかい部類です。また割れ方に方向性はなく、軟らかいため加工がしやすい石材です。どちらかといえば他の主要な建築石材に比べて風化しやすいため、微細な細工を施したりするモニュメント等にはあまり向きません。ただ種類、産地によっては中硬度のものもありますが、ほとんどが軟石に分類されます。耐火性が強い石材のため、塀や蔵などの用途でも採用されてきました。代表的なものとしては、栃木県宇都宮原産の大谷石があります。比重は花崗岩に比べて低く、吸水率も高めとなっていますが、加工のしやすさと耐火性を特徴とする建築石材です。

穴はみな南を向いて梅雨晴間  高資

 長岡百穴古墳・宇都宮市

不動明王・長岡百穴古墳

https://utsunomiya-8story.jp/search_post/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E7%99%BE%E7%A9%B4%E5%8F%A4%E5%A2%B3/  【長岡百穴古墳( ナガオカヒャクアナコフン )】より

凝灰岩から成る丘陵の斜面に蜂巣(はちのす)のようにくり抜いた横穴墳である。百穴という名称であるが、現在は52穴が南を向いて開口している。これらの横穴の基本形態は、羽子板型の玄室(げんしつ)から玄門(げんもん)を経て直接前庭部続くもので、羨道(せんどう)に当たるものはみられない。玄門には、扉石をはめ込んだとみられる切込みがあり、現在はないが、当時はほとんどの横穴に扉石があったであろう。なお、各横穴には、後世の作である観音像が刻まれているが、地元には、これらの観音は弘法大師一夜の作との伝承がある。

昭和30年7月26日 県指定

所在地/栃木県宇都宮市長岡町百穴

作者名 不詳

時代・年代 7世紀前半(飛鳥時代)

形式・資料形態 記念物(史跡)

点数 52穴

法量 -

材質 横穴墓

https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=32&r=152 【長岡百穴】ヨリ

長岡百穴古墳にまつわる4つの民話〔『宇都宮の民話』(宇都宮市教育委員会)より〕

長岡百穴古墳の52の穴には、室町時代(むろまちじだい)の作といわれる観音像(かんのんぞう)が刻まれています。

この百穴と観音様には4つの民話が伝わっています。

①第10代の崇神天皇(すじんてんのう)の皇子でありました豊城入彦命(とよきいりのみこと)が東方征伐(とうほうせいばつ)の途中、長岡の地にこられた時、付近の豪族の強い抵抗にあい、容易に征服できず大激戦になりました。

この戦いで、皇子の主だった家来百人ほどが戦死してしまいました。悲しんだ皇子は長岡百穴に遺骸を手厚く葬ったといいます。

②弘法大師(こうぼうだいし)が大谷(おおや)に来られたおり、これより東方2里ほどのところに長岡という村があり、そこに豊城入彦命の家来衆百人の墳墓があると聞いてさっそく長岡の地を訪れてみました。

すると墳墓は、ツタやカズラが生い茂り荒れ果てていました。

大師は驚き、さっそく雑草を切り払い掃き清め、百人の御霊(みたま)を祀るため露出した各穴の奥の壁に観音像を刻まれました。

そして、長岡百観音寺(ながおかひゃくかんのんじ)を建立し、手厚く弔われ(とむらわれ)ました。

③百穴の観音像には、弘法大師一夜の作という伝承があります。

大師は99体の観音像を彫り終わった時に一番鶏が鳴き、夜が白々と明け始めてしまったため、100体目を刻むことなく立ち去ってしまいました。

里の人達は、未完成の100個目の穴に石の観音像を安置しました。

この観音像は、今も存在し、元観音(もとかんのん)と呼ばれています。

④昔、百穴には百観音寺という立派な寺院があったということです。

しかし、この寺は次のような理由で廃寺になってしまったと伝えられています。3代将軍徳川家光(とくがわいえみつ)の時、江戸城(えどじょう)内で諸大名を集めて「長岡百観音寺」の由来についての芝居が上演されました。

家光は、宇都宮城主に観音寺について尋ねましたが、城主は領内にそのような寺はないと答えてしまいました。

宇都宮に帰った城主は、家老から長岡に百観音寺が存在することを聞いて驚き、一夜のうちに寺を焼き払うと共に、村人に観音寺のことは口外してはならないと申し伝えたといわれています。

https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=32&r=150 【長岡百穴】 ヨリ

百穴はどのように造られているか

横穴の総数は52基(東群44基、西群8基)で、すべて南を向いて開口しています。

横穴の基本的な形態は、古墳の横穴式石室と同じように、玄室(げんしつ)と羨道(せんどう)からなりますが、羨道の部分は短いのが普通です。

長岡横穴群(ながおかよこあなぐん)は羨道を省略したものがほとんどです。

羽子板形の玄室から玄門(げんもん)をへて、直接に八字形または台形の前庭部に続いています。

玄門のところには扉石をはめ込んだと思われる切り込みを残したものがあります。

多くの横穴は、軟質の長岡石とよばれる凝灰岩(ぎょうかいがん)に掘り込んでいますので、破損の度合いがひどく、現在は扉石の切り込みを残していませんが、当時はほとんどの横穴に、扉石があったと思われます。

このような形態的共通性をもつ横穴群は、床面の排水溝によって以下のように分類することができます。

①底面の排水溝がないもの

②排水溝が主軸に並行して前庭部まで伸びるもの

③排水溝が主軸に直行するもの

④2本の排水溝がT字形となるもの

現在、各室にある観音像(かんのんぞう)は、後につくられたものです。

特に室町時代(むろまちじだい)後期の仏像の彫刻が横穴の破壊に拍車をかけたものと思われます。

https://www.tochigi-edu.ed.jp/furusato/detail.jsp?p=32&r=151 【百穴は何のために造られたか】より

こういった形の横穴は、家族墓的な性格をもった集団墓地と考えられています。

横穴は、古墳の横穴式石室(よこあなしきせきしつ)を簡略にしたものですから、古墳の被葬者よりも社会的地位は低かったと考えられます。

副葬品があったという伝承はなく、しかも近くには立派な古墳が築かれていますので、横穴と古墳に埋葬された人たちとの間には、身分的なへだたりがあったと考えられます。

みささぎに幾たび沈む西日かな  高資

 塚山古墳(兵庫塚古墳)・全長約100メートルの剣菱形前方後円墳 宇都宮市西川田ー 場所: 塚山古墳

宇都宮にはこうした大型の古墳がたくさんあります。関西における皇族の古墳と同じ剣菱形前方後円墳であり、皇族に近い有力者のものと考えられています。また、前方後方墳が多い那須地方は那珂川水系に発達した別の文化圏の存在が考えられています。那須国造碑に、当時、奈良の都でも知られていなかった永昌元年という唐の年号が刻まれていることもその証左です。

忍城の近くにも三成が堤防に供したさきたま古墳群がありますね。那須には、水戸光圀が調査した整備した上侍塚古墳などがあります。関東には奈良に比肩するほどの文化文明があったと考えられます。森浩一先生が関東学を興された所以でもあります。

http://www.eniguma49.sakura.ne.jp/kofun.kodaiiseki/totigi/tukayamakofunn/tukayamakofunn.html  【塚山古墳群】

https://massneko.hatenablog.com/entry/2015/08/22/193000 【塚山古墳 栃木県宇都宮市西川田】










コズミックホリステック医療・教育企画