宇都宮の歴史と文化財 ③

https://utsunomiya-8story.jp/history/co_8/  【安土桃山時代】 より

安土桃山時代

戦国時代の終わり、織田信長が現れて安土城を築きます。その後、豊臣秀吉の全国統一を経て、江戸幕府が開かれるまでを安土桃山時代といいます。

秀吉は、小田原北条氏を滅ぼして全国を統一しますが、その後宇都宮城に約10日間滞在し、関東・東北の大名配置を決めました。これを宇都宮仕置(しおき)といいます。源頼義や源頼朝が東北地方を平定するにあたって宇都宮をおとずれ、二荒山神社をお参りしたことにならって、宇都宮城を仕置の場として選んだのではないかと考えられています。徳川家康や伊達政宗をはじめ、東国の戦国大名が宇都宮城を訪れ、秀吉のさばきを受けました。

このころの宇都宮城主は第22代国綱です。秀吉から一門格を表す羽柴の姓を送られ、また、朝鮮出兵にも兵を率いて参戦しています。

しかし、名族とうたわれた宇都宮氏は、1597年、秀吉によってとつぜん領地が没収され、国綱は追放されてしまいます。おなじころ、宇都宮城以外の城も取り壊されたり使用が禁じられたりしました。国綱追放のときは、一人の家来もつきしたがうことを許されなかったため、東勝寺など宇都宮氏とかかわりの深い大寺の住職がおともをしました。その後、これらの寺は急速に荒れはて、廃寺になったと伝えられています。

追放の理由には、後継ぎ問題をめぐるもめごととか、検地の結果をごまかしたためだとかさまざまな説があります。いずれにしても、口実さえあれば古い勢力を取りはらい自分たちの家臣を配置して支配を固めようという、豊臣家のねらいによるものだと考えられます。

国綱追放の後、城代として宇都宮城をあずかったのは浅野長政です。長政は豊臣政権を支えた五奉行のうちの第一人者で、宇都宮がいかに重要視されたかがわかります。

翌年の1598年には、会津の蒲生秀行が宇都宮城主としてやってきました。会津には越後から上杉景勝が移っています。また、この年に秀吉が亡くなっています。

秀吉の死後の1600年、天下分け目の戦いといわれる関が原の戦いがおこりました。その直前、徳川家康は小山に、後の2代将軍秀忠は宇都宮城にいました。家康に従おうとしない、会津の上杉景勝を討つために出陣していたのです。しかし、石田三成が挙兵したという知らせを受け、2人は関が原を目指します。

このとき、蒲生秀行ら下野の諸大名には会津への防備が命じられました。下野は石田三成と通じる上杉勢力との最前線だったのです。秀行は町年寄を宇都宮城に呼び、3か条のお達しが言いつけられます。これによって、9人の人質が差し出され、笠間城へ送られました。幸いにも下野国には戦火はおよばず、人質も無事に帰されました。


https://utsunomiya-8story.jp/history/co_9/  【江戸時代】  より

江戸時代 1

関が原の戦いに勝利した家康が、征夷大将軍に任命されて1603年に江戸幕府を開き、約260年にわたる江戸時代がはじまります。

蒲生秀行は、関が原の戦いをはさんで3年半宇都宮城主をつとめる間、宇都宮城のつくりを強化し、町西部の街道出入り口に木戸を設けて守りを固めました。また、蒲生家の出身地である近江国(おうみのくに)日野の商人のために日野町をつくり、散らばっていた紺屋を集めて田川の東岸に紺屋町をつくりました。江戸時代の宇都宮のまちづくりがここからはじまったのです。

1601年、家康の孫にあたる奥平家昌が10万石で宇都宮城主に取り立てられます。家昌の時代には、浄鏡寺・台陽寺が建立され、興禅寺・光琳寺が再建されました。また、5・10の日には大膳市が開かれるなど、商業振興に力が注がれました。

このころ、家康は奥州街道の整備をはじめましたが、これにあわせて、宇都宮の町が幕府の伝馬役をつとめるかわりに、町にかかる税である地子を永久に免除しています。また、荒れはてていた二荒山神社を再建するために1500石の神領を寄進しています。現在も残っている勾欄擬宝珠は、このことを示す貴重な遺物です。

1616年、家康が亡くなり日光山に家康廟が建設されることになりました。その奉行となったのが、後に宇都宮城主となる本多正純です。翌年、家康廟がほぼ完成すると、2代将軍秀忠が初めての日光社参を行うため宇都宮城に宿泊しています。宇都宮城とその城主の地位の重要性を示す出来事です。

家昌が亡くなると、その子の忠昌が城主になりますが、12歳と年少であったため1619年に古河へ移り、代わって本多正純が15万5千石で城主となりました。正純は、城主であった期間は約3年でしたが、非常に大きな事業を成しとげた人物として、宇都宮の歴史の中で語り継がれてきた城主です。

正純の手がけた事業には、奥州街道の付けかえと日光街道の整備、宇都宮城の大改築、二荒山の丘陵の切り通しと城下町の整備などがあります。これらの事業は、1622年の家康の七回忌に間に合わせるために大急ぎで進められたようです。現在の宇都宮市街地の基礎がつくられたのは、まさにこのころなのです。

1622年、2代将軍秀忠が日光社参のために江戸を出発します。秀忠は、往復とも宇都宮城に宿泊する予定でしたが、帰り道、急に予定を変えて宇都宮城を避け、江戸に帰ってしまいます。その後、正純はとつじょ宇都宮城を取り上げられてしまいます。はっきりした理由はわかっていませんが、家康死後の幕府内における権力争いによるものであろうと考えられます。これが後に、有名な釣天井伝説を生むのです。最後は横手に流され、73歳の生涯を閉じました。

江戸時代 2

本多正純に代わって奥平忠昌が11万石の城主としてもどってきました(第2次奥平氏)。忠昌は、将軍でいえば秀忠・家光・家綱の3代にあたる46年間城主をつとめます。本多正純が着手した城の大改築や、城下町の整備が完成したころと考えられています。また、この間13回の社参がありましたが、うち10回は3代将軍となった家光でした。

江戸時代の宇都宮は、奥州街道と日光街道の追分にあたり、宇都宮城は日光社参における将軍の宿城としての役割をもっていました。そのため、参勤交代などで宿泊する大名も多く、一般人の交通も急増したことから宿場町としてたいへん栄え、宇都宮はそのにぎやかぶりから「宇陽」とよばれました。

忠昌が亡くなると2つの大事件が起きました。1つは、忠昌の家臣が殉死したことです。当時は殉死が禁止されていたため、跡を継いだ昌能は責任を問われ山形に移されました。もう1つは、興禅寺でおこった 家老同士の刃傷事件が原因となって江戸で仇討ち事件が起こったことです。これが有名な「浄瑠璃坂の仇討ち」で、赤穂浪士の討入りの参考にもなったといわれています。

1668年、奥平家に代わって松平忠弘が15万石の城主となります。その後、本多氏、第3次奥平氏、阿部氏、第1次戸田氏、松平氏をへて、戸田氏がふたたび城主になるまで宇都宮城主はひんぱんに交替します。宇都宮は、かねてより東北地方の諸大名を押さえる上で軍事・交通上の重要地点でした。歴代の宇都宮城主は、江戸時代を通じて譜代大名から任命され、中には、幕府の老中や寺社奉行をつとめた者もありました。

忠弘の時期の城下図では、当時の城と城下町の様子がよくわかります。

城の本丸に将軍をむかえる御成御殿があり、二の丸には城主の御殿がもうけられています。一方、奥州・日光道中の追分となる伝馬町周辺には、本陣や問屋場、旅籠が軒を連ねています。

この時代には、二荒山神社の冬渡祭・春渡祭に城下の町内からちょうちんが、また、曲師町からは児子唐人踊が出され、9月8日の大祭にも出されるようになったといわれています。今につづく、いわゆる附祭のはじまりです。

本多忠泰の時代には、牢屋敷を松ケ峯門の南(現一条中学校)に移しています。一方、あいつぐ自然災害には年貢を下げ、浪人を武士として扱うなど、領民から慕われたそうです。

第3次奥平氏の時代は、元禄文化の華やいだ時代です。当時の記録には、宇都宮城下の人口は9744人(男5254人、女4490人、武士を除く)とあります。

阿部正邦の時代には、ききんや大風雨が続きました。また、増加する城下の交通量を支える人馬の負担も大きく、特に農民の生活を苦しめたようです。

江戸時代 3

戸田氏で、はじめて宇都宮城主となったのは忠真です。忠臣蔵に登場する浅野長矩の後役として 勅使饗応役を務めた人物で、1710年に宇都宮城主となりました。また、幕府内においては老中を14年つとめています。第1次戸田氏は、忠真から3代つづきますが、1749年に島原に所替えとなります。

1728年、8代将軍吉宗が久しく途絶えていた日光社参を行っています。質素を心がけた社参でしたが、行列の人数は13万3千人、人足22万8千人、馬32万6千匹という大行列で、幕府の権力の強さを示す大規模なものでした。

戸田氏と入れ替わりで、島原城主であった松平忠祗が宇都宮城主となり、次いで弟の忠恕が跡を継ぎます。島原からの移転費用と、重なる自然災害が財政を圧迫し増税に踏み切りますが、これに対して農民の騒動が起こりました。有名な 籾摺騒動です。さらに、釜川・田川の大洪水や城下の多くが焼失する大火も重なり、最も災難の多かった時代です。1774年、松平氏と戸田氏はふたたび所替えによって元の領地に復帰します。

宇都宮に復帰した戸田忠寛の時代は、幕府で田沼意次が老中として実権をにぎっていた時代です。忠寛は、幕府の高い役職を願い、財政的に恵まれた島原を捨て、江戸に近い宇都宮への復帰を願ったのだといわれています。しかし、とちゅう大阪で旅費が不足し、江戸の豪商川村伝左衛門からの借金によって宇都宮に到着できたほどでした。

1776年に、10代将軍家治の日光社参がありました。吉宗以来48年ぶりのことです。忠寛は、接待のために巨費を使うことを惜しまなかったといわれ、寺社奉行、大阪城代、京都所司代へと出世していきました。しかし、田沼の時代が終わり松平定信が老中になると職をとかれ、天明の大ききんやたび重なる大火があり、それ以後の藩の財政を苦しめる借金だけが残りました。

蒲生君平その後、忠翰・忠延の時代も苦しい財政状況が続きました。宇都宮藩では石高7万7千8百に対し、実際の収納は半分くらいの状態だったようです。この時期は、ロシア人の千島・樺太あらしがあり、宇都宮町出身の学者であった蒲生君平は国防策を説いていました。

1823年、忠温が城主となります。忠温は、寺社奉行・老中へと出世しますが、老中水野忠邦が幕府の権威を回復するために行った12代将軍家慶の日光社参もあり、多額の出費が重なりました。一方では、20年以上中断していた鉄砲のけいこを江戸で行い、間瀬忠至を家老に登用し、江戸の有名な攘夷論者であった大橋訥菴を藩校修道館に招いて月1回の講義を行うなど、忠温は、幕末をむかえる多難な時局にふさわしい活動を行いました。

幕末から戊辰戦争

1853年、ペリーの率いる4隻のアメリカ艦隊が浦賀に来航し、開国を求めました。いわゆる黒船来航です。幕府は、これまで200年以上つづいた鎖国をやめて世界各国との貿易をはじめましたが、国内では、長州藩や薩摩藩 を中心に尊王・攘夷の考え方が広がりをみせ、のちに倒幕運動へと発展していきました。

このような動きの中で起こったのが、1860年の桜田門外の変、1862年の坂下門外の変です。いずれも、時の老中を襲撃し暗殺しようとしたものですが、特に坂下門外の変は、宇都宮・水戸の藩士ら6名によるもので、これに関係したとして児島強介、菊池教中らが捕らえられました。また、大橋訥菴も別の企てで捕らえられましたが、この事件の首謀者としても幕府から厳しい取調べを受けています。

坂下門外の変は宇都宮藩に大きな衝撃をもたらしましたが、家老の間瀬忠至と、中老県六石が藩の存続をかけて強力に進めたのが、蒲生君平の足跡を受けついだ山陵修補です。忠至は戸田に改姓して山陵奉行となり、 1862年に神武天皇陵から始まったこの事業は3年後に終了しました。のちに忠至は、この功績によって宇都宮藩の高徳(現藤原町)1万石を分け与えられ、徳川幕府最後の大名に任命されました。

この間、国もとの宇都宮では、1864年に筑波山で挙兵した天狗党事件に巻き込まれました。このときの対応の悪さが幕府の怒りを買い、藩主戸田忠恕は隠居・謹慎、戸田家も棚倉への領地替えという、藩始まって以来の危機に直面したのです。しかし、これもまた、山陵修補の功績によって中止されたのです。

1867年、江戸幕府15代将軍徳川慶喜は朝廷に政権を返上しました。大政奉還です。朝廷はただちに王政復古の大号令を発布し、徳川家の将軍職と領地を没収したため、徳川方はこれを不服とし武力衝突に発展しました。この、翌年1月3日に起きた鳥羽伏見の戦いから、翌年5月の函館戦争までの戦いを戊辰戦争といいます。

同じころ、国内の争いや開国後の物価高で、社会不安が高まりました。各地で「世直し」をとなえる百姓一揆や打ちこわしがおこりましたが、宇都宮でも、問屋や本陣、質屋、酒造家などの商家が攻撃の目標とされました。

多くの大名が新政府支持に回ると、1868年4月11日に江戸城は無血開城されました。宇都宮藩など北関東諸藩の多くも新政府方についています。新政府の措置を不満とする旧幕府兵は、江戸を脱走して周辺地域で抗戦していましたが、その中でも主力部隊だったのが、日光を目指して北上した大鳥圭介の軍勢です。このとき、新撰組副長であった土方歳三は、大鳥軍の参謀として宇都宮城攻撃を担当しています。

4月中旬から5月初旬にかけては、下野を中心に激しい攻防が繰り広げられました。特に、軍事的に重要な宇都宮城をめぐる攻防戦で激戦が展開されました。この戦いにより、宇都宮城と2400件の家屋が焼失し、死傷者は300人以上、被災者も1万1千人を超えたといわれています。まさに、一つの城下町が焼失したのです。