https://utsunomiya-8story.jp/history/co_5/ 【飛鳥・奈良・平安時代】 より
飛鳥~奈良時代の宇都宮
長岡百穴古墳歴史上の時代区分では、大陸から仏教が伝わった6世紀半ばからを、都の置かれた地名をとって飛鳥時代と呼んでいます。大化の改新以後、日本の古代国家の形がしだいに整い、次の奈良時代になって確立するのです。
しかし、7世紀になっても豪華な古墳がつくりつづけられたため、墓の規模を小さくすることや副葬品を禁止する命令が出されました。しかし、宇都宮のような、都から遠くはなれた地方ではあまり守られなかったようで、立派な円墳や長岡百穴古墳のような 横穴群がつくりつづけられていました。
701年の大宝律令の制定の後、710年に奈良に建設された平城京に都が移され、律令国家の体制が確立しました。大宝律令の成立に深くかかわった人物として下毛野古麻呂という人の名が記録に残っています。この人物は宇都宮南部出身の豪族と考えられていますが、地方出身者としてはおどろくほどの出世です。
中央には二官八省が置かれ、貴族と呼ばれる大臣や高官が政治を行いました。地方は60あまりの国に分けられ、都から派遣された貴族が国司となってそれぞれの国を治めました。これらの国は、五畿七道に分けられていました。
栃木県は当時、下野国(しもつけのくに)と呼ばれ、七道の中の東山道に属していました。国を治める役所があったところを国府といいますが、下野国府は現在の栃木市に置かれていました。国は、さらに 郡・里(郷)に分けられ、地方の豪族を郡司(ぐんじ)や里長(りちょう)に任命して治めさせました。
下野国は9つの郡に分けられ、宇都宮の大部分は河内郡に属していました。郡を治める役所を郡衙といいますが、最近の発掘調査によって、上神主・茂原官衙遺跡が河内郡の郡衙であったことがわかりました。当時の役所は、瓦をふいた建物や掘立柱建物が立ち並ぶ立派な施設でした。宇都宮の水道山瓦窯跡では、国分寺や、河内郡衙の瓦を焼いていたことがわかっています。
このころの農民には、班田収授の法によって国から水田が与えられ、かわりに多くの税を納めるなど、きびしい公民としての義務を強いられました。水田は碁盤の目のように区画されましたが、これを条里と呼んでいます。農民はあいかわらず竪穴住居に住んでいました。山上憶良のよんだ貧窮問答歌には当時の農民の苦しい生活が表現されています。
奈良時代には中央と地方をむすぶ交通網が整備されました。下野国には東山道が通っており、税の運搬や軍用道路として利用され、文化の交流を支える役割もはたしていました。宇都宮では、上神主・茂原官衙遺跡や東谷・中島地区遺跡群、上野遺跡で 東山道と考えられる道路の跡が発見されています。東山道には、30里(約16㎞)ごとに7つの駅家がもうけられ交通を支えました。宇都宮には衣川駅家があったと考えられていますが、場所はまだはっきりとわかっていません。
下野国は、東北地方の豪族を押さえるために重要視され、下野薬師寺には、奈良時代に東日本で唯一の戒壇がおかれるなど、文化的な拠点ともなりました。
平安時代の宇都宮
京都に平安京がつくられ、都が移されたのは794年です。これから400年あまりを平安時代といいます。この時代のはじめは、律・令をおぎなう規則である格・式を定め、地方の政治もひきしめられました。しかし、都の造営や東北地方への遠征で財政がきびしくなり、しだいに地方政治もくずれていきます。
朝廷では、9世紀のころから藤原氏がほかの貴族を退けて政治の実権をにぎり、摂関政治が続きました。また、11世紀後半には、天皇が位を退いた後も上皇として引き続いて政治を行う院政が行われました。
地方の国では、自分の領地を守るために武装した武士が誕生します。武士は皇族や貴族の子孫をかしら(棟梁)とし、主従関係を結んで武士団をつくっていきました。10世紀の前半、関東地方で平将門が乱を起こしましたがこれをしずめたのも地方の武士団でした。武士団には源氏や平氏のように、都でも大きな力を持つほど成長したものもありました。
このころ、宇都宮の中心部は河原や沼・池が多い湿地帯で、池辺郷と呼ばれていました。二荒山神社のすぐ南には大きな池があり、ここから神鏡が発見されたので鏡が池と呼ぶようになったと伝えられています。その西に残る池上町という地名はその名残だと考えられます。二荒山神社は、平安時代のはじめには、下野国の中心的な神社として認められていたと考えられています。
平安時代の後半、現在の宇都宮城址公園のあたりに、その後の宇都宮城の元になる館が築かれたといわれています。築城者は、藤原秀郷とも藤原宗円ともいわれていますが確かな資料は残っていません。宇都宮系図の伝えるところによると、宗円は1053年に陸奥国鎮守府将軍となった源頼義にしたがい都からやってきた人物で、二荒山神社の社務職検校と宇都宮一帯の支配をまかされたとされています。それ以降、下野から常陸(ひたち)にかけての 鬼怒川流域の支配権を約500年にわたってにぎる名族、宇都宮氏になったというわけです。
この時代の集落跡は、瑞穂野団地遺跡など宇都宮市内でもたくさん見つかっています。このころの竪穴住居は一辺約4mと小型ですが、掘立柱建物や井戸も発見されています。また、住居跡からは紡錘車や鉄製の鎌・砥石などが出土していて、当時の生活の様子を知ることができます。
弘法大師の伝承の残る大谷寺は、平安時代のはじめごろから庶民の信仰を集めていました。国の特別史跡・重要文化財である寺の本尊、千手観音像が彫られたのもこのころです。この時期は、日光山を開いた勝道上人や円仁が活躍した時代であり、下野国でも仏教文化の充実した時期です。
https://utsunomiya-8story.jp/history/co_6/ 【鎌倉時代】 より
鎌倉時代の宇都宮
平安時代末期、壇ノ浦の戦いで平氏を、また、東北地方に勢力を持っていた奥州の藤原氏を滅ぼした源頼朝は、1192年に朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されました。頼朝は鎌倉幕府を開き、 諸国に守護・地頭を置いて武士の政治のもとを作りました。幕府が滅びるまでの約140年間を鎌倉時代といいます。
鎌倉時代の『吾妻鑑』という書物に、「源頼朝は奥州藤原氏を攻めるにあたり、宇都宮の古多橋に宿泊し、宇都宮大明神に参拝して戦勝を祈願した」という記録が残っています。二荒山神社は、いくさの神として各時代の武将達から崇拝されました。
宇都宮の中心地は、鏡が池と呼ばれる水辺をはさんで北に二荒山神社を中心とする聖なる場所が、南に宇都宮城を中心とする政治的な場所が向かい合っていました。その東を奥州に向かう奥大道が通り、道に沿って宿が成立していたと考えられます。
宇都宮氏は、宇都宮城を拠点とし、宇都宮大明神(二荒山神社)の宗教的権威と神領の支配を通じて勢力を拡大していきました。鎌倉時代には、評定衆や引付衆を勤める幕府の有力な御家人になっていました。
宇都宮氏は、下野から常陸にかけての領地のほかに、伊予(愛媛県)・豊前(大分県)の守護領や荘園をもっていました。分家が増え管理する寺社も多くなったため、1283年、これらを治めるために70か条からなる弘安式条を制定しました。これは、中世における武家法の草分けとされるものです。また、同じころ、現在の竹下町には芳賀氏の城として飛山城が築かれています。
宇都宮氏の祖とされている藤原宗円から3代目の朝綱のころには宇都宮氏を名のるようになり、地名にも使われるようになったといわれています。宇都宮氏は22代続きますが、この時代の城主の中には、百人一首の成立にかかわった5代頼綱、元寇の際に日本軍の大将軍となった8代貞綱などがいます。
頼綱が城主の頃、幕府から謀反の疑いをかけられる事件がおこりました。頼綱はやむをえず出家して蓮生と名のり、京都に住むようになります。そこで歌人として有名な藤原定家と親しくなり、蓮生の娘と定家の息子は結婚して親せきとなりました。当時、神社・仏閣や自宅のふすまに和歌を書いた色紙をはることがはやっていましたが、蓮生はこれを定家に頼みます。このときまとめられたものが元になって、現在の小倉百人一首ができていくのです。
宇都宮氏とその一族からは、多くの歌人が出ています。歌集『新古今和歌集』は、一族のほかに鎌倉、京都の歌人の歌もおさめられているもので、宇都宮一族の幅広い文化交流の様子を知ることができます。このような、宇都宮一族を中心とする歌人集団は宇都宮歌壇とよばれています。しかし、1333年に幕府が滅ぶと、宇都宮への文化的中継地を失い、また、戦乱の時代に、和歌に遊ぶ余裕もなくなって活動はおとろえてしまいます。
https://utsunomiya-8story.jp/history/co_7/ 【室町時代】 より
室町時代(南北朝時代~戦国時代)
鎌倉幕府が滅んだのち、後醍醐天皇が自ら政治をおこないましたが、不満を持つ武士を集めて兵をあげた足利尊氏によって、わずか2年で失敗に終わりました。
後醍醐天皇は奈良の吉野に移り(南朝)、尊氏は京都に別の天皇を立てて(北朝)征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きました。足利氏の幕府がつづいた約240年間を室町時代といいます。一方、南朝と北朝が各地の武士を味方につけて長い間争った期間を、特に南北朝時代といいます。
このころの宇都宮城主は、9代公綱です。公綱ははじめ南朝方について尊氏と戦いますが、敗れてからは北朝方について全国を転戦しています。特に、楠木正成との戦いは書物『太平記』にもえがかれ、宇都宮氏は武将としてもその名を知られました。また、10代氏綱は上野国(群馬県)・越後国(新潟県)の守護職にもなっています。
この時代の宇都宮には、7代景綱・8代貞綱・10代氏綱のそれぞれの菩提寺である東勝寺・興禅寺・ 粉河寺をはじめ、480の寺院が建ちならび、「香煙のために王地を覆うの感あり」といわれたようです。
8代将軍足利義政のころになると、有力な守護大名が対立を深め、将軍家のあとつぎ問題もからんで戦いをはじめました。1467年に京都でおこった応仁の乱です。守護大名が京都で戦っている間に、地方では家来が力を強め、領地をうばう者も出てくる下剋上の世の中になると戦いは全国に広まります。100年もの間続くこの時期を、特に戦国時代と呼びます。
戦国時代の宇都宮氏は、武田勝頼や小田原の北条氏ら周囲の大勢力と戦い、町を焼かれることさえありましたが、宗円以来、500年の歴史を持つ宇都宮を守り続けました。
多気城南北朝から戦国時代は戦乱に明け暮れた時代でした。この中で生き残るため、平城であった宇都宮城は、堀と土塁で幾重にも囲まれた大きな城郭(じょうかく)になっていきました。また、現在の宇都宮市内には、当時30を超える城が築かれていました。多気城はその代表的なものです。
室町時代には、銅や鉄をとかして型に流し込み製品を作る技術が全国に伝わり、下野国でも優れた技術者が生まれました。佐野の天明の鋳物は有名ですが、宇都宮でも、およりの鐘、鉄製狛犬、鉄塔婆、汗かき阿弥陀など、この時代の特徴をもつ優品がつくられています。
また、現在5月15日に二荒山神社で行われる田舞祭で奉納される田楽舞は、1458年に7曲が演じられているという記録が残っています。宇都宮氏の保護のもと、中世の文化が宇都宮で花開いていたことがうかがえます。
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