宇都宮の歴史と文化財 ①

https://utsunomiya-8story.jp/history/co_1/  【旧石器時代】 より

日本列島ができるまで

今から約1500万年前、地質年代でいう新生代第三紀中新世のころは、地殻変動が活発で、はげしい火山活動があった時期で、栃木県は、足尾や八溝山地を除いて大部分が海に沈んでいました。大谷石として全国的に有名な緑色凝灰岩は、このころのはげしい海底火山の噴火によってふき出した火山灰が、海底に堆積してできた岩です。

大谷石層の堆積に続き、横山・長岡・山本・大曽に見られる薄緑色から茶白色のやわらかい岩が堆積します。八幡山公園あたりは、今から1200万年前のものと考えられる砂岩・泥岩層がみられますが、二枚貝やサメの歯、クジラ(?)の骨が発見されていることから、このころは、まだ比較的温暖であったと考えられます。人類が誕生するはるか以前の地層です。

旧石器時代の宇都宮

人類の祖先がこの地球上に現れるのは、約500万年前とされています。また、日本人の祖先がこの日本列島に渡ってきた時代は、約3万年前、新生代第四紀更新世の氷河時代で、非常に寒い気候がつづいており、最も寒い時期には、地球上の3分の1が氷でおおわれていたようです。

氷河期の終わりころは、海面が今より100~150mも下がっており、日本と大陸は地続きでした。このため、大陸に住むナウマンゾウやオオツノジカなどの動物が日本に渡ってくるのを追いながら、人類も移り住んできたのだろうと考えられています。また、現在のインドネシア付近から、東アジアの人々の祖先となった人々も黒潮の流れに乗って北上し、日本列島にやってきたと考えられています。

旧石器人は優れた狩人でした。関東ローム層と呼ばれる赤土の中からは、頁岩や黒曜石などで作られた石器が発見されることがあります。これらは、広い原野に動物を追って山や野を移動しつづけた人の生活を物語ってくれます。

大谷石地層国指定史跡飛山城跡の発掘調査では、約3万年前につくられた、けものをとるための落とし穴の跡が発見されました。宇都宮にも、旧石器人の生活のあとが残されているのです。

以前は、旧石器人は洞くつとか岩かげなどを利用して生活していたと考えられていましたが、決してそうではありません。宇都宮市内の遺跡の発掘調査では、台地の上や山の斜面に小屋を建てて住んでいたことがわかっています。

氷河時代がおわると、気候が温暖化するのにしたがって海面が上昇し、今から約1万2千年前には、おおむね現在の日本列島が形成されました。また、これと時期をほぼ同じくして、火山の噴火活動もおさまってきたようです。


https://utsunomiya-8story.jp/history/co_2/ 【縄文時代】  より

縄文時代の宇都宮

今から1万5000年~1万2000年ほど前になると、土器を作り、本格的な弓矢をもった新しい時代が登場します。世界でも珍しい縄目の文様をもった縄文土器が使われたので、これから紀元前300年頃までを縄文時代と呼びます。

この時代は、動物や魚、植物をとってくらす生活が中心です。しかし、これらを生か焼いて食べる方法しか知らなかった旧石器時代とくらべ、土器を使った調理や保存の方法が非常に発達しました。弓矢は、それまでの投げやりにくらべ、遠くへ正確に命中させることができるようになり、個人の力だけでけものを捕らえることができるようになりました。

一口に縄文時代といっても、約8000年もの長い期間に、気候や動植物の様子もさまざまに変化したようです。縄文時代は古い順から草創期(1万5000~1万2000年前)・早期(1万2000年~6000年前)・前期(6000~5000年前)・中期(5000~4000年前)・後期(4000~3000年前)・晩期(3000~2500年前)の6つの時期に大きく分けられます。

草創期には、大谷寺洞穴遺跡のように狭い洞くつや岩陰を利用して生活する場合と、広い台地の縁辺に竪穴住居を建てて住む場合とがありました。

早期になると、気候が温暖になりつつあったためか、広い土地に集落を作るようになり、生活の安定にともなって集落の規模が拡大していったようです。

前期までは、さらに気温が上昇して氷河がとけて海水が増加したため、海岸線は栃木県南部にまで押し寄せていました。これを縄文海進といいます。藤岡町や野木町では貝塚が発見されていますが、そこからは海の貝が見つかっています。

生活環境に恵まれたこの時期は、人口も増加して大きな集落が生まれる一方、根古谷台遺跡のように、いくつかのムラが集会やまつりを行ったと考えられるような、特別な集落も発達しました。

根古谷台遺跡中期になると、縄文人の生活は安定し人口はますます増加したので、竹下遺跡や御城田遺跡などのように大きな集落が形成されました。この時期は、豪華な文様がついた芸術的な土器が多く、土器の黄金時代ともいわれます。

縄文時代も後期から晩期になると、中期ごろから始まった気候の寒冷化と、増えきった人口を養うだけの食料を求めることができなかったためか、集落は次第に小規模になる傾向が見られます。

しかし、宇都宮周辺は山の幸・川の幸が豊かであったため、石川坪遺跡や刈沼遺跡のような集落がたくさん見られます。 また、土偶や石棒など、まじないに用いていたと考えられるものが見られるのもこの時期の特徴です。


https://utsunomiya-8story.jp/history/co_3/ 【弥生時代】  より

弥生時代の宇都宮

大陸文化の影響を受けて、九州北部に稲作と青銅器や鉄器を使う新しい文化が誕生したのは紀元前500年ころでした。この時代には、縄文土器よりもうすくて赤みをおび、形の整った弥生土器が使われるようになりました。

日本列島は、梅雨の季節とそれに続く高温多湿な夏があるため、稲作に適した自然条件でした。このため、100年もたたないうちに西日本一帯に広がり、ついで関東や東北地方へと広がっていきました。人々は、低地や湿地を水田に変え、もみをたくわえるため、住まいとしての竪穴住居とは別に高床の倉庫を建てました。

稲作は、水を引く技術や集団作業が必要だったので、これらを指図する人が現れ、ムラをおさめました。また、貧富の差が生まれ、土地や水をめぐる争いがおこり、柵(さく)や濠(ほり)で囲まれた環濠集落が生まれました。有力なムラは周りのムラを従えて勢力を広げ、小さな国となりました。中国の古い歴史書には、紀元前1世紀には100あまりの国があったことが記されています。

宇都宮に弥生文化が伝わったのは、紀元前100年頃です。しかし、市内にある弥生時代の遺跡はわずか30箇所にすぎません。その理由としては、東日本に適した稲の登場に時間がかかり、稲作が十分に発達しなかったことと、弥生時代が短い期間であったことがあげられます。

弥生時代中期の遺跡に山崎北遺跡があります。ここでは、3軒の竪穴住居跡と数基の土坑しか確認されていません。この時期の集落は、数件程度の小規模なものだったようです。

また、野沢遺跡では、弥生土器の特徴である壷や甕といった土器が発見されていますが、縄文土器とそっくりの文様がついています。これらの土器は、栃木県のこの時期の土器の標識となっており、野沢式土器と呼ばれています。土器の中にはモミつぶの跡が残っているものがあり、稲作が行われていたことをしめしています。さらに、人面付土器と勾玉・管玉が入った土器も発見されています。これらは、関東から東北地方南部にかけて見られる再葬墓という特殊なお墓として使用されたものと考えられています。死者をいったん土葬などにして白骨化させ、その骨を拾って土器の中におさめ、直径1mほどの穴に土器をいくつかまとめて埋葬するものです。

弥生時代後期の遺跡は、平野部に多く見られます。宇都宮市南部の田川・姿川とその支流に水田を開き、近くの台地上に多くの集落を作って住むようになりました。これは、本格的な稲作が行われていたことを示すものです。二軒屋遺跡で発見された土器は、栃木県から茨城県西部に分布している標識とされています。

3世紀になると、中国の古い歴史書に日本にあった邪馬台国に関する記録が残されています。邪馬台国については、その所在地など、まだまだ不明な点が残されていますが、小さな国がしだいに大きな国にまとまっていった様子がわかります。


https://utsunomiya-8story.jp/history/co_4/ 【古墳時代】  より

古墳時代の宇都宮

今から1750年くらい前、現在の奈良県を中心とする近畿地方に古墳が現れました。これから350年くらいの間を古墳時代といいます。古墳は一定の地域を治めた首長の墓と考えられています。

古墳の出現は大和政権と深い関係があると考えられています。大和朝廷による国土統一は、3世紀後半からほぼ100年の間に急速に進められ、国土の大半を統一していきました。その勢力が日本各地におよぶと、地方の首長たちはその支配下に入って古墳を築くようになったのです。

4世紀になると、宇都宮でも南部の茂原地区に3基の前方後方墳が造られます。その中の茂原愛宕塚古墳では、日本で作られた鏡や管玉、ガラス製小玉、刀子などが見つかっています。

5世紀代になると、各地に多くの古墳がつくられるようになります。代表的な古墳に、全長約100m、高さ10.5mにおよぶ 市内最大の前方後円墳である笹塚古墳や、やや遅れてつくられた塚山古墳があります。前方後円墳は日本特有の形であり、大和朝廷との結びつきが強くなったことを意味しています。塚山古墳群では、鹿の絵がついた埴輪棺が出土して話題となりました。

笹塚古墳笹塚古墳の近くでは、同じ時期の豪族居館や、竪穴住居が集まった大きな集落跡が発見され注目されました。田川流域の開発を行った首長とそれを支えた民衆の生活ぶりを知る大きな手がかりとなりました。

宇都宮にある古墳の多くは6世紀代、古墳時代後期のものです。この時期に古墳が激増したのは、大和朝廷による地方の支配が強くなるにしたがって、小さな集落の長までも古墳を造ることができるようになったからだと考えられています。また、北山古墳群のように、このころの古墳には横穴式石室が用いられるようになります。これによって、生前から古墳を造っておくことや、身内の者の追葬が可能になりました。この時期につくられた瓦塚古墳は、古墳の表面に石がふかれ、多くの埴輪(はにわ)が並んでいました。

塚山古墳古墳時代の人々は、竪穴住居に住んでいました。はじめは、縄文時代から使われてきた炉を家の中にもうけて煮炊きをしていましたが、古墳時代中期からしだいにカマドが用いられるようになりました。カマドが使用されるようになると、甕(かめ)に甑をのせて穀物を蒸すことができるようになりました。これは、水田の発達と米食の広まりを意味しています。

古墳時代の土器は、弥生時代の流れをくむ土師器と、朝鮮半島から伝わった技術でつくられた須恵器とがあります。いずれも、時代の移り変わりにしたがって形や種類が変化するため、古墳や住居の年代を決める一つの目安になります。