歴史文化基本構想 - 宇都宮市(Adobe PDF)
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宇都宮市は,二荒山神社の門前町・宇都宮城の城下町として栄え,大谷石採石産業の営みによる独特な景観,農村部に. 残る天棚や ... するだけでなく,市民が主体となって積極的に活用することで,歴史文化資源を守り,継承につなげていく持続的な取組が ... 3万年前には人が住み始め,古代・中世・近世へと時代が進むにつれ人々は集 ... を兼ね,この地を治めていた宇都宮氏は文武に秀でた武将でした。5代頼綱は, ... 〈8〉農村に生きた人々が築いた文化豊かな田園の地 うつのみや.
【宇都宮市 歴史文化基本構想
『みんなでつなぐ 歴史文化の息づく交流都市 宇都宮』
~郷土の歴史を理解し,誇りをもって守り・活かし,みんなの力で未来につなごう~】
より抜粋
今も昔も住みやすい関東平野の里山都市 うつのみや
日本最大の面積を誇る関東平野の北端に位置するこの地は,都市の文化と多様な自然が入り交じり,豊かな自然の恵みを育むとともに,多様な文化が出会い新たな文化を生み出してきました。南北に流れる幾筋もの川に挟まれた安定した台地を生活の場とし,すでに4~3万年前には人が住み始め,古代・中世・近世へと時代が進むにつれ人々は集まり,更に近代に県庁が置かれ,より多くの人々が集住し,今日まで県の中核を担ってきました。現在約 50万人の暮らす「中核市宇都宮」は,災害が少なく水資源にも恵まれ,安心して暮らせるまちです。
文武に秀でた宇都宮氏の本拠地 うつのみや
宇都宮は宇都宮明みょうじん神(二ふたあらやま荒山神社)の門前町として始まり,この神社の社し ゃ む し き務職※ 1を兼ね,この地を治めていた宇都宮氏は文武に秀でた武将でした。5代頼綱は,藤原定家に京都の山荘の襖ふすまに貼る色紙和歌の選定を頼み,後の「百人一首」のもととなりました。8代貞綱は,蒙古襲来を迎え撃つ日本軍の総大将として九州に出陣し,9代公きんつな綱は「坂東一の弓矢とり」と謳われ,10代氏綱は2か国の守護職を務めましたが,22代国綱の代に豊臣秀吉により改かいえき易※ 2されました。その後,宇都宮氏の旧臣たちは土着し地域の発展を支え,宇都宮氏が種をまいた「百人一首」は現代に引き継がれ,多くの人々に愛されています。
2つの街道の追分,水運の鬼怒川 人・物・情報の交流拠点 うつのみや
宇都宮には古代の「東とうさんどう山道」,中世の「奥おくのだいどう大道」が通り,近世には「日にっこうどうちゅう光道中・奥おうしゅうどうちゅう州 道 中」の2つの街道が分岐する追分の地となって,徳川将軍や参勤交代の大名の宿場として賑わいました。近代以降は「国道4号線」が通り,常に国の中枢部と東北を結ぶ主要幹線が通る陸上交通の要衝の地でした。近世になると鬼怒川沿いに河か し岸がつくられ,下野諸藩や会津藩等の年貢米を江戸に送るなど,水上輸送の重要な役割も果たしました。明治期には早くから鉄道が開通するなど,街道や河川,鉄道を通じて,宇都宮はいつの時代にも人・物・情報が行き交い,新しい文化を受け入れ,常に変化しながら発展してきたまちです。
古代から現代まで 大谷石がつくり繋いだ石のまち うつのみや
大谷石は宇都宮の人々にとって古より身近に触れることができる存在でした。この地に住む人々は,その石質の特質を見抜き,竪たてあな穴住居のカマドや古墳の石室材として使ったほか,石山に磨ま が い ぶ つ崖仏を彫り,人々の安あんねい寧を願いました。江戸時代以降,長年の採掘により掘り残された石切場と,自然の奇き が ん ぐ ん岩群との人工と自然が織りなす固有の景観が今に残っています。近代では,フランク・ロイド・ライトが旧帝国ホテルの建材として使用するなど,加工がしやすく,耐火性に優れた石材であることから,高度成長期には東京・横浜に大量に出荷され,近代化する日本の都市の形成を支えました。
古代国家を支えた下毛野氏基盤の地 うつのみや
古墳文化がもたらされて以来,この地には多くの古墳が造られました。その中でも注目されるのが市内最大の笹ささづか塚古墳で,近くには豪族の居きょかん館跡や同時代の集落跡も発見されています。二荒山神社の主祭神豊とよきいりひこのみこと城入彦命は,仁にんとく徳天皇の時代(5世紀)に下しもつけぬのくにのみやつこ毛野国造に任ぜられたという伝承もあり,同じ時代に築造された笹塚古墳と下し も つ け ぬ し毛野氏に関係があるかもしれないことが想像されます。子孫である下し も つ け ぬ の こ ま ろ毛野古麻呂は,国の根幹となる大宝律令の作成に携わり,都において活躍しました。古代の河内郡は,この下毛野氏が基盤とした地であり,河内郡の役所と考えられる上かみこうぬし神主・茂も ば ら か ん が い せ き原官衙遺跡は,宇都宮市と上三川町の境にあります。
徳川将軍も泊まった華やかな城下町 うつのみや
宇都宮城は,将軍が日光社参する際に泊まった城で,合計 19回も将軍家が宿泊しています。この宿泊に絡んだ有名な話が『宇都宮釣り天井』伝説で,本多正純が将軍の暗殺を企てたとする講談は今日まで語り継がれています。近世の頃の宇都宮城は,伊達政宗など外様大名に対する押さえの城として代々譜代大名が入にゅうほう封※ 3する軍事・交通上の重要拠点でした。本多正純は,宇都宮城と城下の整備を行い,今もその町ま ち わ割りが生かされています。当時の城下には約1万人が暮らし,二荒山神社の菊水祭付祭では屋台や山車などがくり出され大いに賑わいました。近年,市民の手により火焔太鼓山車が復活されるなど,今もその DNAは引き継がれています
二度の戦災をたくましく生き抜いたまち うつのみや
一度目は,1868年に勃発した戊ぼ し ん辰戦争で,宇都宮藩は新政府側につき,町は戦火に包まれました。その後 1884年に県庁が栃木町より移転し,名実共に県の政治・経済の中心となりました。日露戦争後には陸軍第 14師団の宇都宮移駐が決定し,市内各所に軍の関連施設がつくられました。二度目は,太平洋戦争末期に米軍機により空襲を受け,市街地の大半が焼失しました。しかし,市民の強いエネルギーにより復興が進められ,この空襲で黒こげになった旭町の大いちょうが翌春芽吹き,復興のシンボルとして人々の心の支えとなりました。終戦後,第 14師団の中国からの帰還兵が本場の餃子を持ち帰り,宇都宮餃子のルーツとなりました。
農村に生きた人々が築いた文化豊かな田園の地 うつのみや
江戸時代の初め,宝木台地は,水はけの良い地質のため稲作に適さない土地でしたが,江戸時代の終わりの頃に「宝木用水」が完成し,21万坪の水田が宝木台地に広がりました。現在でもこの用水は農業用として一部が使われているほか,雨水を処理する排水路等,市民に身近な川として今も流れ続けています。宇都宮市の田園地帯では,「五穀豊穣」や「疫病退散」を願い,天てんさい祭※ 4や獅し し ま い子舞などの伝統行事が行われてきました。これらの行事は,地域の人々の結びつきを強め,地域の一体感を生み出し,今日まで引き継がれています。
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